37 『天の園から、砂の大地へ』(2)
ラステアは、虹炎竜という魔族のうちの一頭であり、その中でももっとも恐れられた者だ。
当たり前に言語を理解し、他者に与えられるほどの智慧を持ちながら、魔族らしい恐ろしさをも兼ね備えた竜。
己が楽しいと思う物事は引っ掻き回し、つまらないと思った物事は容赦なく破壊する。『隣の世界』にとどまり続けることをよしとせず、魔法使いに召喚されるようなことがあれば嬉々として暴れていた、という話もあった。
そんな行いの数々は、人間だけでなく一部の魔族からも恐れられた。名もなき虹炎竜の一頭であった彼女は、ある星座と星になぞらえて『ラステア』と呼ばれるようになり、いつしかそれが個体の名として定着した。
そんな竜であるから、もちろんシェラ・レナリア大戦にも喜んで参加した。両陣営に厄介者扱いをされながら莫大な戦果を挙げたラステアは、〈封印の書〉が登場すると、まっさきに封印対象として目をつけられた。
しかし、当の竜は悠々と魔法使いたちの追跡をかわし、戦後は『こちらの世界』に潜み続けた。時折破壊活動や悪質ないたずらをしつつも、決して尻尾をつかませなかったという。
そんなラステアが封印されたのがいつなのか、正確な年月はわからない。だが、当時の大図書館の番人が出張中に見つけ出し、どうやってか〈書〉に封じ込めたという。
「――そして一件落着、かと思いきや、正式に収蔵する前に野盗か何かに〈封印の書〉が強奪されたらしい。それから人々のもとを転々としてたけど、今回やっと回収できた、というわけだな」
「……なんか、〈封印の書〉って意外となくなってるんだね」
魔法の明かりに照らされた地下室。ギャリーにも手伝ってもらいながら、小机と〈封印の書〉を運び込む。同時にラステアの説明をしていたのだが、その中でエステルが目をすがめた。彼女と一緒に机を運んでいるメルクリオは、涼しい顔でうなずいた。
「そりゃあな。強大な魔族を封じ込めた代物である上に、書物自体も貴重なものが多い。機会があれば奪いたい、と思う人もいるだろう。戦後のゴタゴタの中で見えなくなった〈書〉も、結構あるみたいだしな」
「それが後からこうやって入ってくるわけだー。大変だね……」
「他人事のように言ってるけど、今やあんたも関係者だからな?」
「それはもちろん、わかってるよ」
軽いやり取りをしながらも、机を部屋の中央に置く。メルクリオは〈封印の書〉を机の真上まで持ってきて、魔法を解いた。一息つくと、作業を見守っていた館長を振り仰ぐ。
「さて、ルーナ。結界は万全か?」
『問題ありませんよ。私も、いつでも動けます』
「それは頼もしい」
軽く笑ったメルクリオの隣で、エステルが首をかしげた。
「そういえば、収蔵手続きって何するの?」
「魔族との話し合って、契約を更新することを了承してもらう。話し合いが上手くいかなかったら……力でねじ伏せることになるけど」
淡々と答えながら本の留め具を外す番人を見て、助手が青ざめた。
「え……。つまり、今からその、ラステアを出すってこと?」
「そう」
メルクリオは、重い本を慎重に開いた。それから、顔を引きつらせているエステルに声をかける。
「エステルはいったん下がってろ。十中八九、戦いになるだろうから」
「だ、だったら私も戦う――」
「いや。俺がいいと言うまで前に出るな」
強い口調で言い切った少年は、ぽかんとしている少女を静かに振り返る。
「……魔族というのは本来、自分だけの名前を持たない。誰かが名をつけることもない。必要がないからだ。そんな中、ラステアにその名がついたのは、虹炎竜の中でも区別しなければいけない個体だ、と昔の人々が判断したからだろう」
エステルが息をのむ。
「竜の中でもとびきり危険な竜、ってこと?」
「そう。俺も正直、渡り合える自信がない。エステルが襲われたら絶対助ける、と言い切ることもできない」
だから下がっていてくれ、とメルクリオが繰り返すと、エステルはこくこくとうなずいた。彼女が距離をとったことを確認して、メルクリオは本をめくっていく。そして、あるページで手を止めた。
「ここだな」
呟いて、目を閉じる。息を吸って、心を鎮める。
そして――
「〈封印の書〉第二千百番『天の園から、砂の大地へ』」
『解放』を始めた。
「『空に昇るは虹の凶星
うねり舞うのは神なる炎
それは災い、それは絶対
その名は天に座する蛇の目、ラステアなり』」
記された詩を読み上げる。当時の人々の恐れを感じ取りながら。これを詠んだという詩人の姿を思い描きながら。
すると、開いたページが輝きだして――その中心から、虹色の炎が噴き出した。
『メルクリオ!』
精霊の鋭い声を聞くと同時、メルクリオは床を蹴っていた。飛びのくと同時、噴出していた炎が突然うねり、少し前まで彼がいたところに降ってくる。
「のっけから殺意むき出しだな……珍しいことじゃないけど」
額をぬぐって呟いたメルクリオの前で、炎はさらに動きつづけた。粘土のように形を変え、巨大な炎の蛇となる。その中から、鋭い爪を持つ四本の足と、ぎょろりと動く三つの目が現れる。二つは蛇を思わせる目、その上にあるのが真珠のようにきらめく第三の目だ。
『――デネボラか?』
虹色の炎をまとった白竜は、思ったよりも高い声で誰かの名を呼んだ。直後、二つの目が険悪な色を帯びる。
『いや、違うな。デネボラは貴様のようなちんちくりんではなかった』
「ちんちくりんで悪かったな」
メルクリオは、思わず言い返してしまう。三つの目が不気味に輝き、頭上から呆れたような視線が注がれた。
メルクリオは咳払いして、白竜――ラステアと向き合った。
「デネボラの後継者、現代の『大図書館の番人』だ。お初にお目にかかる、偉大なるラステアよ」
『――ほう?』
ラステアが頭をもたげる。
少年を見下ろす三つの目も、炎と同じ虹色に輝いていた。それが本来の色なのか、炎を映した色なのかは、見ている側からはわからない。
『後継者、とな。ということは、デネボラは死んだのか』
「……そう、だな。おそらくは、俺が生まれるずっと前に」
慎重に答えた少年の前で、ラステアは『ふん』とつまらなそうにこぼした。
『あのあほ面め。妾の許可なく死におって。これだから人間というやつは』
虹色の目に、ほんの少し感傷のような色がよぎる。しかし、それはすぐ炎に呑まれ、竜は尊大に首を突き出してきた。
『それで? 後継者というからには、貴様が妾を満足させてくれるのか?――デネボラの代わりに』
揺らめく虹炎が灰青色に映る。メルクリオは息をのんだ。
歴代番人が魔族を封じる際にどのようなやり取りをしたかは、ほとんど記録に残っていない。このラステアについてもそれは同じで――けれど、彼女の言葉から、当時の番人が何を言ったのかは想像がついた。
大仕事はあなたの代で片付けておいてほしかった、と遠い先輩に文句を言いつつ。今の番人は、こうべを垂れた。
「俺は――俺たちは、かつての番人のことをほとんど知らない。だからデネボラの代わりにはなれないし、彼のように振る舞うことも、きっとできない」
炎が揺れる。空気がうなる。それでも彼は、言葉を継ぐ。
「けれど、俺は俺なりに、できる範囲でご要望にお応えしようと考えている。あなたに、ここにいてもいい、と思ってもらえるように」
『そうか、そうか。それならば、当代の大図書館の番人よ』
竜が笑う。上機嫌な声を聞き、メルクリオはやっと顔を上げる。そして、いくつかの呪文を頭の中で並べ立てた。
ラステアは音もなく鼻先を近づけてくる。――虹色が、躍った。
『――今すぐ妾に焼かれろ、と言ったらどうする?』
空気が震える。鮮やかな炎が押し寄せる。
メルクリオは、それらを見る前に、再び床を蹴っていた。舞うように後退し、勢いのまま口を開く。
「『風よ、散らせ』!」
枝分かれした炎の先で、小さな風の渦が起きる。それはけれど、虹炎を蝋燭のように揺らめかせるだけだった。
幾筋もの炎が飛ぶ。魔法使いは眉一つ動かさず、軽やかにそれを避けた。
「『冬の風は刃』、『氷柱は楔なり』!」
冷たい風が巻き起こり、それに呼応するかのように、ラステアの下から巨大な氷柱がいくつも突き出す。しかし、ラステアが咆哮すると、巻き起こった炎があっという間に氷を呑み込んだ。
それもまた、メルクリオの想定内である。
「――『鎖よ』!」
溶け落ちた氷のむこうから、アエラの鎖を投げつける。それはラステアの胴体と足に巻き付いて、きつく締め上げた。
竜はそれを見下ろして――ほのかな愉悦に目を細める。
『ほう、ほう。魔法の腕前はデネボラと同じくらいか。いや、年月を考えれば、あやつよりもましかもしれぬ』
歌うように呟いた竜は、ゆっくりとあぎとを開く。
『だが』
その隙間から、剣のような牙がのぞいた。
『この程度で妾を御せると思うなよ。小童』
「思うわけ、ないだろ」
メルクリオは吐き捨てて、アエラの鎖を思いっきり引く。その動作と、ラステアが鎖を引きちぎるのは、ほぼ同時だった。
メルクリオは、飛び散った破片に向かって手をかざす。
「――『瞬き、爆ぜよ』!」
アエラに還ろうとしていた鎖の欠片が、詠唱に縫い留められる。そして、チカチカと明滅したのち、光を放った。
白い光が地下室を満たす。それが薄らぎはじめた頃に、竜の哄笑がこだました。
メルクリオたちの力がありったけ込められた光を浴びても、竜は傷一つ負っていないように見えた。変わらず炎をまとい、向かってくる。メルクリオも、一切動じず応戦した。炎を散らし、凍らせ、時に断ち切り。かつて神とも恐れられた竜に魔法の雨を浴びせることも、その身を圧し潰すことも一切ためらわなかった。
いくらかのやり取りの後、体をくねらせて天井付近に昇った竜が呵々と笑う。
『小さき者をかばいながら、よく動くものだ』
メルクリオはひそかに舌打ちをする。もっとも恐ろしい虹炎竜とはよく言ったものだ。大図書館の番人以外眼中にない、というような振る舞いをしておきながら、エステルのこともしっかりと見ていたらしい。
『よいぞ。反抗的な人間は好かぬが、元気な者は大好物だ!』
「食べ物的な意味での好き嫌いか?」
『ただの食物とは思っておらぬよ。どうせなら、しっかり味わわねばもったいなかろう』
やはり竜は上機嫌だ。しかし、メルクリオは顔をしかめる。食べ物認定されていることに変わりはない。
三つの目が爛々と光る。竜のまわりで燃えていた炎が、らせんを描いて立ち昇る。それは一筋の虹となって放たれ――少年にぶつかる直前に、光の盾に阻まれた。
激しい音と共に炎が散る。目を細めたラステアの前に、二枚羽を持つ光の球が立ちはだかった。




