37 『天の園から、砂の大地へ』(1)
その日の放課後。いつもより少し早めに大図書館へ戻ってきていたメルクリオは、広間の見える場所で、せっせと本を並べていた。ここに出入りできるある人物から『魔法と人体の関連を取り扱っている解剖学の本が見たい』と言われたので、要望に沿うような本をまとめているのだ。
少女の悲鳴を聞いたのはその最中のことである。少女の、と表現していいのかわからないくらい低い声だが、それは間違いなく少女のものであった。その声色から事態を察したメルクリオは、やれやれ、と呟いてから立ち上がる。
やや駆け足で広間まで行くと、案の定、尻餅をついたエステルの前でギャリーが顎の骨を鳴らしていた。
「油断したな、助手」
苦笑しつつ、呼びかける。するとエステルは、壊れかけのからくり人形のような動きで振り返った。
「あ、メルク……ごめんね……」
「いや、謝ることではないけど。怪我はないか?」
「うん。大丈夫、だと思う」
エステルは、深く息を吐きだした後、おしりのあたりをはたいて立ち上がる。「ならよし」と呟いたメルクリオは、視線を骸骨頭の紳士に転じた。
「で、ギャリーさん。気は済んだか?」
肯定の音が返ってくる。メルクリオはうなずいて、窓辺に落ちている『ティル・フアラ怪異録』を指さした。
「それなら、そろそろ〈封印の書〉に戻っておいてくれ。これから騒がしくなるかもしれないから」
ギャリーは、頭を持ち上げて少し傾ける。エステルも首をかしげた。
「何? 何かあるの?」
「あー……エステルも、今日は通常業務はお休みだ。この後、ちょっと大きな仕事が入るから」
少女は瞳を輝かせ、前のめりになった。
「大きな仕事? なになに!?」
興奮している助手を見て、メルクリオは口の端を持ち上げる。
「未納の〈封印の書〉が来る。今日の仕事はそいつの収蔵と、『契約』の更新だ」
エステルが、目を見開いて息をのむ。一方のギャリーは驚いたように後ずさり、何事かを叫んだ。といっても、人を脅かすときよりは控えめな声量だったが。
「収蔵はいいとして。契約、こうしんって……どういうこと?」
「〈書〉が届いたら説明するよ。――そろそろ運び人が来るはずだ」
人が来る、とわかったからだろうか。勢いよく頭蓋骨を戻したギャリーが、〈封印の書〉のそばに駆け寄った。間もなく彼の姿は光となって、古びた本に吸い込まれていく。
本が閉じて、大図書館が静まり返った少し後。見計らったかのように、扉の方から音がした。メルクリオはいつもの調子で「はいはい、どうぞ」と言う。
外に聞こえるはずもない声に、反応したのは扉の方だ。両開きの扉が、ゆっくりと内側に開く。その向こうには大きな鞄を持った男性がいた。丈の短い灰色のコートをまとい、同じ色の帽子をかぶっている。背が高く、痩せていて、目の下にはうっすらとだがクマがあった。ある程度慣れているはずの大図書館の広間を、よく動く目で見回している。草木の揺れる音ひとつにも飛び上がりそうな人物だ。
間もなくその目をメルクリオの前で留めた彼は、落ち着きのない動作で帽子を取って、一礼した。
「これは、メルクリオ様。広間にいらっしゃるとは珍しいことで」
メルクリオは、運び人を見やって腕を組んだ。
「大図書館全体が俺の仕事場だからな。そういう日もある」
「それはそうですな。いやはや……」
運び人が頭をかく素振りをした。それを見て、エステルが「ずいぶんヘコヘコしてるなあ」と呟く。その声はあまりにも小さかったので、運び人どころか、メルクリオにも届かなかった。
「――それで、〈封印の書〉は無事か?」
彼がさらりと本題に入ると、運び人は姿勢を低くする。
「ええ、はい、もちろん。今回は暴走もなく届けられました」
「みたいだな。本当によかった」
メルクリオは、心からの言葉を吐息と共に吐き出す。
一方の運び人は、番人の安堵に気づいた様子もなく、せっせと『荷物』を長机に運んだ。紙や布で何重にもくるまれたそれを、丁寧に広げてみせる。
「こちら、今回回収された〈封印の書〉でございます」
それは、分厚い本だった。相当古いもののようで、ところどころ色が変わっているものの、保存状態は良い。表紙にはわずかながら装飾がほどこされ、小口側に銅製の留め具がついている。
「すごい……本っていうか、鞄みたい……」
メルクリオの横から〈封印の書〉をのぞきこんだエステルが、感嘆の声を上げる。
「今以上に本が貴重品だった頃の代物ですからな。こうやって、簡単に開けないようにしてあるんですよ」
律儀に答えたのは、運び人の男である。一応、『助手』のことも知っているのだ。
彼は番人に向き直ると、先ほどと同じ調子で話し出す。
「〈書〉の題名は『天の園から、砂の大地へ』。昔の宮廷詩人が作った詩をまとめたものだそうですよ。で……封印されている魔族は、『ラステア』というそうです」
メルクリオは、黒い眉を跳ね上げた。その隣でルーナも羽を張る。ふたりの変化に気づいてか、男は肩をすくめた。
「これだけ言えばメルクリオ様には伝わるだろう、と担当者は申しておりましたが……」
「――ああ、うん。それだけわかれば十分だよ。ありがとう」
男はほっとした様子で頬を緩める。かと思えば、鞄の中からいそいそと紙を取り出して、メルクリオに差し出した。
「そ、それでは、いつも通り、こちらに刻印をお願いいたします」
「はいはい」
運び人が差し出したのは、〈封印の書〉の受け渡しが正式に完了したことを証明する書類だ。形式的な文章にざっと目を通したメルクリオは、指先に小さな光を灯す。それを紙の上に浮かせて滑らせると、刻んだものが紙に吸い付いた。グリムアル大図書館の紋章と彼の名前を組み合わせた印と短い文言が、紙の右端に刻まれる。
「どうも、ありがとうございます」
「うん。刻印ついでに、あんたにちょっと手当あげてくれって書いておいたんで、ちゃんと上の人に掛け合ってくれ」
メルクリオが手を振ると、男は両目をしばたたく。
「へ? あの、よろしいんで?」
「ま、たまにはいいだろ。ただの口添えだし。いっつも『貴重な危険物』を運んでもらってるんだから、このくらいはな」
それに、と呟いて、メルクリオは目を細める。
「――あのラステアが暴走したら、さすがにやばかったから」
男はまたしても肩をすくめたが、すぐに気を取り直して、深々と頭を下げた。
「ねえ、メルク。ラステアってどんな魔族? 有名なの?」
メルクリオが〈封印の書〉を浮かせたところに、エステルが問いかけてくる。番人は手指の動きで本の位置を調整しながら、頭をかいた。
「ああ、うん。順を追って説明するか。……とりあえず、今からやる仕事についての話から」
ちゃんとラステアに繋がるからな、と彼が言うと、助手は素直にメルクリオの横についた。
そのとき、広間の端でぱっと光が弾ける。〈封印の書〉に引っ込んでいたギャリーが再び出てきたのだ。メルクリオはそれを一瞥してから、靴音を立てて歩き出す。
「まずは、大前提の話。――〈封印の書〉というのは本来、どんな魔法使いでも扱える道具なんだ」
斜め後ろについていたエステルが、「えっ!?」と叫んで身を乗り出す。
「そうなの!? 大図書館の番人にしか使えないと思ってた!」
「今では間違いじゃないけど、正確でもない、ってところだな」
メルクリオは人差し指をくいっと曲げる。浮いている〈封印の書〉が、少し彼の方に近づいた。
「〈封印の書〉は、封印の呪文さえ知っていれば、戦えない魔法使いでも魔族を抑えられるものだった。今ではその呪文を知っているのが大図書館の番人くらいだから、〈封印の書〉は番人にしか扱えない、という状態になってるけど」
シェラ・レナリア大戦末期、のちの初代大図書館の番人・ポラリスが『みんなが使える封印具』を魔法使いたちに配ったことで、人間・精霊陣営が勝利できたともいわれている。
「ただし、一度でも魔族を〈書〉に封じ込めると、その性質が少し変わる。封じられた魔族と封じた側の魔法使いに繋がりが生まれ、〈封印の書〉はその魔法使いの物になるんだ。こうなると、その〈封印の書〉は持ち主にしか扱えなくなる」
へえ、とこぼしたエステルが、口もとに指をかけて考え込む。
「繋がり、かあ……。なんか、契約魔法みたいだね」
「あたり。実際、契約魔法なんだよ」
メルクリオが指を鳴らすと、エステルは目を剥いた。
「〈封印の書〉は封印魔法の器であると同時に、人間と魔族の契約を仲立ちする道具でもある。――その一方で、この契約は割と簡単に更新できる。契約者がいいと言えばな。
シェラ・レナリア大戦中に〈封印の書〉を使った魔法使いたちは、戦後にグリムアル大図書館の設立が決まると、番人役を買って出たポラリスのもとに集まった。そして、封じた魔族の契約者を次々ポラリスに変えた。――こうして、ほとんどの〈封印の書〉は大図書館の番人の持ち物となったわけだ」
番人は、歩きながら淡々と解説する。一方の助手は目を白黒させていた。話が途切れるなり、頭を抱える。
「え、え? じゃあ、じゃあさ。メルクはルーナとだけじゃなくて、ここにいる魔族みんなと契約してるってこと?」
「そういうことだな」
「ギャリーさんやボーくんとも? あの怖いおサルさんや牛さんとも?」
「当然」
あっけらかんとしているメルクリオとは対照的に、エステルはさあっと青ざめた。不思議そうにしている少年に、飛びかからんばかりの勢いで詰め寄る。
「それ、大丈夫なの!? なんかこう……アエラとか、おかしくなっちゃわない?」
「あー……平気平気」
『それほど強い結びつきではありませんからね。“仮契約”のような……うーん、何と言ったらいいか……』
少女に至近距離でにらまれている契約者を見かねてか、それまで隠れていたルーナが姿を現す。エステルがそれに気をとられているうちに距離をとったメルクリオは、宙を見つめて言葉を選ぶ。
「そうだな……。俺とルーナの契約が太い鎖だとすると、魔族たちとのそれはほっそい糸なんだよ。だからアエラに及ぼす影響も少ないし、更新も簡単にできる。魔法による契約ではあるけど、そんなに大げさなものじゃないんだ」
「そ……そういうもの?」
エステルは、納得いかない、とばかりに目を細めている。しかし、先ほどまでよりは大人しくなった。
メルクリオは気を取り直して、歩みを再開する。
「話を戻そう。ここにある〈封印の書〉は、番人が代替わりすると契約も切り替わるようになってるから、いちいち手続きみたいなことは必要ない。だけど、こうやって外から持ち込まれた〈書〉は、契約者が違う人になっているか、その人が死んで契約自体が切れかかっていることがほとんどだ。だから、契約を上書きする必要がある。そのための作業が〈封印の書〉の収蔵手続きであり、契約の更新なんだ」
「あー……そっか。戦争の後に使われたものなら、その使った魔法使いさんが契約者になってるはずだもんね」
「そう。契約者が生きてる場合は、〈書〉を回収するときに同意を得てきてもらうらしいけど……俺が番人になってからは、そういうのはないな」
そんな話をしているうちに、地下への入口が見えた。狙っていたのか、たまたまなのか、近くにギャリーもいる。
「あ、ギャリーさん。小さい机か椅子を持ってきてくれないか?」
メルクリオがそう声をかけると、謎の踊りを踊っていたギャリーはぴたりと固まる。それから、頭を持ち上げて走っていった。




