36 騒動の後
「みんなの『されたら嫌なこと』を教えてほしいの」
はきはきとした声が、教室中に響き渡る。
〈鍵の教室〉の面々は、口を半開きにして固まった。みんなから見える位置にいる少女を見つめる。
「なんだぁ、いきなり?」
ぽかんとしたままマルセルが問うと、彼女――ヴィーナは胸を張ったまま続けた。
「今回、わたしとエステルさんが喧嘩しちゃったでしょう」
「だな。でも、それと俺らの『されたら嫌なこと』に何の関係があるんだ?」
「わたし、そういうのがあまりわからないのよ」
「はあ?」とマルセルが首をひねる。一方で、メルクリオやティエラなどは、はっと息をのんでいた。
「みんなは平気だけどその人は嫌なこととか、正しくても言われたくないこととか、そういうの。最初に言ってもらわないと、わからないの。だから、みんなと喧嘩になる前に聞いておこうと思って」
少年少女は顔を見合わせる。微妙な空気の中で、ウィンクルムの双子が頬杖をついた。
「ヴィーの言いたいことはわかったけどさ」
「自分の弱みをみんなの前で話すのは、それこそ嫌だなあ」
彼らが唇を尖らせると、ヴィーナは青みがかった紫の瞳を見開いた。
「どうして? みんなに知っておいてもらうのって、大事じゃない?」
「そりゃあれですよ、ヴィーナ様」
「ここにいる人が、全員『いい人』なことがぜんてーですよ」
ちっちっ、と指を振ったカストルの横から、ポルックスが顔を突き出す。
彼らの言うことがいまいちわからなかったのか、ヴィーナは顔をしかめた。それを見て、成り行きを見守っていたユラナスがやんわりと口を開く。
「弱みを明かしたら、その弱みを利用されるかもしれない――『されたら嫌なこと』をわざとやる人がいるかもしれない。だから話したくない。そういうことだよ。正直、あたしもおんなじだな」
ヴィーナが目を丸くして、それから頭を抱える。
「そ、そういうものなの? 難しいわね……」
うんうんとうなる少女は、本気で困っている様子だ。再び微妙な空気になった教室で、けれど慌てて挙手した人がいた。――エステルだ。
「で、でも! ヴィーナはみんなのことを考えて、みんなと仲良くしたくて、聞いてくれたんだよ、ね!」
「……もちろん、それはわかってるよ。ヴィーナさんなりに考えてくれたことは、ちゃんと伝わってる」
苦笑したユラナスは、「双子ちゃんもそうでしょ?」とカストルたちの方を見た。彼らは「そりゃ、まあ」と声を揃える。
そのとき、またしても手が挙がった。先ほどまで腕を組んでいたマルセルだ。
「俺は『お説教』が嫌いかな! あの長ったらしくて鬱陶しいやつ!」
突然の回答に、ヴィーナが固まった。彼女だけでなく、まわりの同級生も呆気にとられる。
その中で、いち早く我に返った双子が、やれやれとばかりにかぶりを振った。
「マルセルのそれは、自業自得では?」
「そそ、そういう意味の説教じゃねーって!」
マルセルは、顔を真っ赤にして反論する。それからわざとらしく咳ばらいをして、同級生を見回した。
「俺さ、学校に入る前は、いわゆる家庭教師ってのがついてたんだ。その中に、やたら口うるさいじいさんがいてさ。俺が、授業の内容がわかんねーって言うと、いっつも『今からそんな調子ではこの先がどうの』とか『グラディウス家の子息として』とか言ってくんの。ああいうのがもう、聞きたくないんだよ」
「……それは、わかる気がするわ」
静かな声が落ちる。
ヴィーナが、いつになく真剣な顔でうなずいていた。目を丸くしている少年に向かって、彼女は「わたしもあったもの」と言い添える。
「家庭教師とか、教育係とかって、どうしてああなのかしらね。ことあるごとに『令嬢とはかくあるべき』とか『家の恥にならぬよう』とか。そんなのあなたに言われるまでもないわよ、っていう」
「……そ、そうそう! あんたに言われる前に、父上からさんざん聞かされてるっつーの! みたいな!」
「そんなことを言われたら肝心の勉強が余計入ってこなくなるし、やる気がなくなるのよね。そもそも、今それができてたら苦労しないわ」
「だよなあ。俺ら、親の分身じゃねえんだしさ」
怒涛の勢いで語り合った二人は、顔を見合わせ、目を瞬く。それから小さく吹き出した。
「ヴィーナって、意外と話せるやつだな」
「わたしも、あなたとこんなに話せることがあるとは思わなかった」
力強くうなずき合う少年少女。二人を見ていた同級生たちは、引きつった顔を見合わせる。
「突然いきとーごーしだした……」
「歴史ある名家の子、っていうのも大変なんだねえ」
頭を傾けた双子の隣でユラナスが笑う。エステルとティエラが顔を見合わせ、メルクリオは目を閉じて無言を貫いた。
名家の子二人の愚痴が一段落したところで、今度はユラナスが手を挙げる。
「じゃあ、そうだな。あたしはネズミが苦手なんだ。見かけても知らせてくれなくていいし、万が一近くに現れたら……追い払うか、消し飛ばして」
「弱みを明かしたくない」と言っていた彼女の発言に、メルクリオ以外の面子が驚いた顔をする。対してユラナスは、このくらいなら教えてもいいかと思って、と笑った。
「みんなに教えてもいいこと、ってなんだろうなあ」
「なんだろうなあ」
「うーん……私も、すぐには思いつかなくて……。何か思い出したらお知らせする、という形でもよろしいですか?」
双子が机にべっとりと突っ伏す。そして、ティエラは頭を抱えてそう言った。問われたヴィーナは「わかったわ。それで大丈夫」と答える。
そこで、突っ伏していたポルックスが起き上がる。彼は弾むようにメルクリオを振り返った。
「メルくんはなんかあるー?」
メルクリオは、はっと目を見開く。少しの空白の後、頭をかいた。
「俺、は……そうだな。話しておくか」
そう呟いた彼は、みんなを呼んで、『されたら嫌なこと』を語った。――〈かくれの森〉でマルセルに明かしたのと、同じことを。
最初、マルセル以外の面々はぽかんとしていた。
「へー。なんか意外だな」
「そんなに怖いのか?」
好奇心旺盛な双子の問いに、メルクリオは真顔でうなずく。
「誰かれ構わず怒鳴ってしまうくらいには」
「……もしかして、前にマルセルにキレたのって、腕引っ張られたから、だったり?」
これには、メルクリオとマルセルが同時にうなずいた。はあ、と感心とも呆れともつかぬ吐息の音が、あちこちで聞こえる。
「ひどいと息ができなくなったり、気分が悪くなったりするんだ」
「え? それ、やばくない?」
「やばい。だから、本当に必要なとき以外はしないでくれると助かる」
カストルとポルックスが、少し顔を引きつらせ、同時にうなずく。まわりの子供たちも、やや深刻な表情になった。
息が詰まるような、短い空白。それを破ったのは、椅子の鳴る音だった。振り返った少年少女の視線の先で、エステルが立ち上がった姿勢のまま肩を震わせている。
メルクリオがぎょっと目を見開いたとき、彼女は小さく唇を震わせた。
「や……」
「や?」
「やっちゃってないよね!? 私、やっちゃってないよね!?」
半泣きになったエステルを見て、誰もが呆然とする。しかし、次の瞬間には納得した様子でうなずくか、あきれて首を振っていた。
メルクリオは、首をかしげて記憶を辿る。
「……そういえば、エステルといて気になったことはないな」
「本当!? よかったあああ」
「ていうかあんたの場合、まず大声で名前呼ぶだろ。あれで誰だかわかる」
へなへなと座り込んだ少女に、少年は湿っぽい視線を向けた。
二人のやり取りを聞きながら、マルセルが腕を組んでうなずく。
「なるほど。エステルの真似すればいいのか」
「いや……こいつほど大声で呼ばなくていいから」
「私、そんなに声大きいかなあ?」
正直な少年二人を見上げて、エステルが眉を怒らせる。不満げな問いに答えたのは彼らではなく、紙片にせっせと書付をとっていたヴィーナだった。彼女はペンを動かす手を止め、ちらと顔を上げる。
「大きいと思うわよ、とても」
「ばっさり!」
うなだれたエステルをよそに、ヴィーナは紙片を丁寧に折りたたんだ。そして同級生たちを見回すと、頭を下げる。
「教えてくれてありがとう。これから気をつけるわ」
珍しい少女の態度に、教室の面々は戸惑いの視線を交わす。けれど、それから「どういたしまして」と笑った。
「むしろ、そうやって考えてくれるのは、あたしたちとしても嬉しいよね」
「ヴィーナさんも、何かあれば教えてくださいね。気をつけないといけないのは、私たちも同じですから」
ティエラが力強く拳を握り、両目を輝かせる。メルクリオやエステルは、それに深くうなずいた。
一方のヴィーナは、きょとんと首をかしげた後、困ったように頬をかいた。
「……じゃあ、次の授業が終わった後で」
そう言った彼女が、あいた席に座ろうとしたとき。教室の扉が開いて、彼らの担任教師が入ってきた。
「やあ、みんな。なんだかおもしろそうな会話が聞こえてきたんだが、何の話をしてたんだ?」
陽気な教師を見やり、双子がにやりと笑う。
「先生にはひみつでーす」
「あれ、そうなのか? ちと寂しいなあ」
そう言いながらも笑ったコルヌは、「じゃあ、授業始めるぞー」と言って全員の席を回りはじめる。これからの授業で使う道具を配るためだった。
そして、メルクリオのところにやってきたとき。コルヌはつかの間足を止める。
「ああそうだ、メルクリオさん。――この授業が終わったら、少し話がしたいんだが。時間あるかね?」
小声で呼びかけてきた教師を見上げ、メルクリオは目を瞬く。それから、悪戯っぽく笑い返した。
「はい、大丈夫ですよ。俺も、ちょうど話したいことがあるので」
「それはよかった。じゃあ、あとで」
そう言ってメルクリオに道具――儀式用の短剣と円板――を渡したコルヌは、手を振って歩いていった。
※
「このたびは、お手数をおかけして申し訳ありませんでした。番人殿」
コルヌ・タウリーズがしおらしげに頭を下げる。
謝罪された当人は、あからさまに顔をしかめた。
「そういうの、いらないっての。俺にとっても他人事じゃなかったんだし」
メルクリオが刺々しく返すと、コルヌはいつもと変わらぬ笑い声を立てた。
時は放課後。場所はグリムアル魔法学校のある一室。かつて、メルクリオたちが写本製作をお願いされたときと同じ部屋だ。
そのメルクリオは今、机を挟んでコルヌと向かい合っている。
彼は軽く息を吐いて、長椅子にもたれかかった。
「それより、ほかのみんなは本当に大丈夫なのか?」
「ああ。今のところ、体調不良を訴えた生徒はいない。あのときアエラの影響を受けたのは、君とヴィーナさんだけみたいだな」
「ならよかった。……と、言い切っていいのかはわからないけど」
メルクリオが眉を寄せると、コルヌも「そうさなあ」と呟いて頬をかいた。二人が話しているのはもちろん、数日前に〈鍵の教室〉の授業で起きた魔法の暴発についてである。
「それで――君の話というのは?」
コルヌが、のんびりとした調子で切り出した。メルクリオもいつも通りにうなずく。
「ああ。あの日、教室の壁に刻まれていた文字についてだ」
コルヌが静かに目を細める。部屋の空気が、少しばかり張りつめた。
それでも、メルクリオは淡々と言葉を重ねる。
「あれについて、リアンや上の人はなんて言ってる?」
「まだ調査中だとさ。さすがに皆様頭を抱えていらっしゃるよ」
「それもそうか」
文字を書いたり刻んだりして魔法を使うやり方――筆記法は、現代ではほとんど用いられていない。今でもそれを使いこなす者は、相当なこだわりを持つ者か、いにしえの魔法にも通じる偉大な賢者か――という認識だ。
そんな人物がグリムアル魔法学校で事件を引き起こしたとなれば、頭も痛くなるだろう。
「っていうか、俺も今まさに頭が痛いんだよな」
コルヌが頭を押さえてうなだれる。
「ほら。『あのとき学校にいて、筆記法を使いこなしてる魔法使い』っていう点だけで絞り込むと、俺や君が容疑者になるだろ? そのへんをちくちく言う奴がいてなあ」
「それは災難」
メルクリオは、頬杖をついてにやりと笑う。
その人柄と実力で教師にも生徒にも慕われているコルヌだが、軽薄とも取れる彼の言動を快く思わない人々もいるのだ。
「捜査関係者はなんて言ってんの?」
「俺が犯人ってことはまずない、とのことだ。『あなたの魔法文字はこんなに丁寧じゃないでしょう』って言われたよ」
「……けなされてないか、それ?」
呆れるメルクリオたちをよそに、コルヌは声を立てて笑っている。満足いくまで笑ったのち、ふと表情を改めた。
「君が犯人である可能性も極めて低い、と見ているようだ。君の文字なら月光の精霊のアエラが残っているだろう――というわけで」
そこで一度言葉を切ったコルヌは、顔をゆがめて「ただ、気になることもある」と続けた。メルクリオもうなずく。
「俺の方の本題も、そのことだよ」
一拍、間を置く。姿を見せた精霊を一瞥してから、続けた。
「――あの文字を刻んだのはおそらく、精霊契約者だ」
無音の部屋に、動揺のさざ波が広がる。
身を乗り出したコルヌが、目を白黒させた。
「精霊? 契約者? 呪文学の先生方は、『魔族のアエラに近い痕跡がある』って言ってたぞ」
彼には珍しいくらいに困惑している。普段なら笑いのひとつもこみ上げそうな様子だが、今のメルクリオはむっつりとしたままうなずいた。
「間違いではないと思う。精霊と魔族は双子並みに似てるからな。けど……あのときのアエラの反応は尋常じゃなかった。ただの魔法使いなら、あそこまで強くアエラに干渉できない」
少年は、再びかたわらの精霊を見やる。
「ルーナ並みの精霊と契約した魔法使いの仕業だと思う。契約してから精霊側が魔族に転化した可能性もあるし」
彼が口にしたのは、魔法史の中でも非常にまれな出来事――それが起きた可能性だ。
相槌のつもりか、ルーナが細かく羽ばたく。
『私もおおむね同じ意見です。だいたい、メルクリオが中毒症状で倒れた、という時点で異常事態ですからね』
固まっていたコルヌは、そこで半開きになっていた口を閉じた。呆然自失の状態からどうにか立ち直ったらしい。しかし、今度はうなだれて、自分の前髪をぐしゃぐしゃにした。
「つまり、敵は大図書館の番人と同等の魔法使い、ってことか? 俺、そんな奴と戦いたくないぞ」
「そんなタウリーズ先生に、もうひとつ悪いお知らせだ。俺たちの予想が的中していた場合、この学校の生徒たちも犯人の有力候補になる。見た目や年齢があてにならないからな」
「そのお知らせ、聞きたくなかったわー」
担任教師兼連絡役は、さらに肩を落とした。長々とため息をついた後、だるそうに頭を上げる。
「教え子は疑いたくないなあ」
「……ま、やるしかないだろ。犯人がわかるまで、と思って」
彼は番人の言葉に、不満そうにうなずく。それから、力いっぱい膝を叩いた。
「しかたない。学長先生にも話をして、生徒たちの経歴や身元を洗い直してみよう。で、番人殿と助手さんにもお願いしたいことがある」
「俺たちに? 何?」
「一年〈鍵の教室〉の子たちの交友関係をそれとなく調べてほしい。犯人は、うちの授業日程を知っていただろうから」
メルクリオは少し顔をしかめつつも、請け負う。
「わかった。やってみよう。……上手く聞き出せる自信はないけど」
「なあに。雑談のついで、くらいで構わんさ」
それが難しいんだけど、という一言をのみこんでうなずいた。
人間二人と精霊の会合は、そこでお開きとなった。
メルクリオは、やや急ぎ足で部屋を辞した。今日は、放課後に大仕事が控えているのだ。
同級生たちがいるであろう教室を目指して歩く。しかし、途中ではたと足を止めた。
「あ。大事なこと言うの忘れてた」
引き返すか、と考えて振り返り――かぶりを振る。もうコルヌも仕事に戻っているだろう。
「しかたない。リアンかエステルに伝言を頼むか」
『何を言い忘れたんです?』
再び姿を隠したルーナが、訊いてくる。メルクリオはやや投げやりに答えた。
「あのとき感じたアエラに関する、もうひとつの推測だよ」
『ああ――できるだけ早く伝えた方がいいですね。大図書館に戻る前に、リアンを捕まえますか』
「捕まるといいけど」
そんなやり取りをしながら、廊下を行く。よそ見をしながら歩いている生徒たちをかわしながら、メルクリオはあの日の炎を思い出していた。
周囲のアエラを吸い上げながら、燃え上がる炎。
その術者たる少女のアエラに混じった気配は――魔族たちを暴走させた『知らない誰かのアエラ』によく似ていた。




