35 ふたりの記憶、二人の秘密
そこには、女神がいた。
彼は何も言わず、ただ彼女を見上げていた。
圧倒的なもの。静かなるもの。
その堂々たる佇まいは、その清らかな美しさは。
神聖さを形にしたようで、希望に命を与えたようで。
けれど、彼にとっては絶望の象徴だった。
『はじめまして。私の次なる契約者様』
彼女は夜のごとき声でささやいて、彼の顔をのぞきこむ。
『――お名前をうかがっても、よろしいでしょうか?』
満月を閉じ込めたような瞳には、深い深い、悲しみの色が満ちていた。
※
暗くて深い水底から、光り輝く水面を目指して泳いでいくような感覚だった。
浮上に伴うのは、重苦しさと、けだるさと、切なさ。
もう何も見たくない。そう悲鳴を上げる心に反して、体は目覚めへと向かっていく。
かすれた音。湿っぽい感触。握りしめた、薄い何か。それらすべてを他人事のように感じながら、彼は目を開けた。
見覚えのない天井、どこかで嗅いだことのある匂い。遠く聞こえる、正体のつかめない音。何もかもがわからない中で、彼は腕を持ち上げた。小さくて頼りない、子供の手が視界に入る。
「……ルー、ナ?」
触れたくないはずの名を必死に紡ぐ。渇き飢えた旅人が、水場を求めるかのように。
覚えのあるぬくもりは、すぐそばにある。そして、返答もすぐにあった。
『おはようございます、メルクリオ』
少女の声が優しくささやく。姿は見えないが、彼女がどこにいるのか、メルクリオには手に取るようにわかった。彼女がいるであろう方向に、なんとか頭を動かす。
「……おはよう」
『お加減はいかがですか?』
「あー……だいぶましになった。まだこの辺がむかむかするけど」
メルクリオは、胸をさすりながら呟いた。仰向けのままため息をつく。
「ひどい目に遭った……。アエラに当てられるのなんて、いつぶりだ……?」
『“仮契約”のとき以来じゃないですか?』
あっけらかんと返された答えに、メルクリオは目をみはる。
知らず、淡い嘲笑を浮かべていた。
「ああ、それでか」
『何がです?』
「なんでもない。ただの独り言」
訝しげなルーナに雑な返答を投げたメルクリオは、再び目を閉じた。
――アエラ中毒、というものがある。
人間や動物が、高濃度・高密度のアエラの中に身を置いたときに引き起こされる症状のことだ。
頭痛、めまい、吐き気からの嘔吐などが代表的で、まれに全身から出血することもある。最悪の場合、死に至る。
彼らは精霊や魔族ほどアエラに近くない。だから、濃すぎるアエラに体が耐えられない。それゆえにこういうことが起きる。
ただ、人間の中でも精霊契約者だけは、アエラ中毒には無縁だといわれている。彼らの場合、存在そのものが精霊寄りに変質しているからだ。
実際、メルクリオもルーナと契約してからは濃いアエラに当てられることなどなかった。それどころか、グリムアル大図書館で数多の強き魔族と暮らし、すっかりそれに慣れていた。
その彼が中毒症状を引き起こしたのは――
『今回は状況が特殊すぎましたね。ヴィーナさんの魔法はそこまで強力なものではありませんでしたけど、暴発してアエラを吸収しまくったせいで、災害級のアエラの塊になってしまったんですよ』
ルーナのささやく声を、メルクリオは目を閉じたまま聞いている。そのうち、あからさまなため息が聞こえてきた。
『そんな状況で、精霊と交信する魔法なんて使うから。さすがに体が耐え切れなかったんでしょう』
「……しょうがないだろ。『災害級のアエラの塊』を抑え込むには、あれしかなかった」
『……仰る通りです。無茶だとは思いますけど、英断でもありました』
「お褒めの言葉、どうも」
また、精霊が嘆息する。メルクリオは小さく笑って、薄目を開けた。
「それに、原因はそれだけじゃない。火おこしの魔法を暴発させていた呪文、あれを動かしたのは――」
『――ええ』
小さな光が舞い踊る。今度は、二人揃ってため息をついた。
「ああああくそおおお! どんどん面倒くさい事実が出てくるうううう」
『さすがの私も嫌になってきました……。なんでこんなになるまで放置したんですかね、リアンは』
「どうせ王国から圧力かかってたんだろ! 腹立つ!」
吐き捨てたメルクリオは、掛布を頭からかぶった。気持ち悪さが悪化した気がする。
「もうやだ。本当にやだ。ずっとこうしていたい」
『……まあ、現実逃避できるうちはしてもいいんじゃないですかね。その体調で大図書館に戻っても、魔族に付け込まれるだけですし』
白い団子と化した契約者に、精霊が小さな呟きを落とす。珍しいことに、その声には疲労の色がにじんでいた。
その後数十分間、メルクリオは団子になったままでいた。しかし、眠気が一切来ないとわかると、諦めて掛布を剥ぐ。
自分の身なりと寝台を整えて、慎重に床へと下りる。
まだ足もとがおぼつかない。それでも、物につかまりながらゆっくりと足を出せば、歩くことはできた。
衝立から顔を出すと、書類の束を手に取っていた養護教諭が振り返る。
「あら、メルクリオさん。起き上がって平気ですか?」
「……一応は……」
「まだ寝ていてもいいんですよ?」
「いえ、あの、そろそろ教室に戻りたいなあ、と……」
ルシル・オフィークスはメルクリオの正体を知っている。それでも、どことなくやりにくい相手だった。
ルシルは少し考え込むそぶりを見せたが、しぶしぶとばかりにうなずいた。
「わかりました。無理はしないで、おかしいところがあったらすぐ周りの人に知らせてくださいね」
「あー、はい」
「――それじゃあ、あなたも一緒に戻りますか?」
ルシルがメルクリオではない方へ声をかける。彼女の正面の椅子に座っている女子生徒が、「はい」とうなずいた。メルクリオは、そこで初めて生徒の姿に気づいて、目をみはる。
「ヴィーナ……さん?」
「彼女、メルクリオさんが起きるのを待ちたい、ってお願いしてきたんですよ」
ほほほ、と笑うルシルの向かいで、ヴィーナが気まずそうに立ち上がった。
一緒に医務室を出た少年と少女は、しばし気まずい沈黙の中にいた。やがて、それに耐え切れなくなった少年の方が深呼吸する。
「…………あの、ヴィーナさんは……」
「ヴィーナでいい」
意を決して口にした一言を予想外の方向から粉砕される。メルクリオは一瞬ひるんだが、すぐに言い直した。
「ヴィーナは、なんで俺が起きるのを待ってたんだ?」
ヴィーナは前を見たまま歩きつづける。二人分の靴音は、学校の喧騒にのみこまれる。一組の生徒が駆け去った直後、少女の声が落ちた。
「言いたいことと、訊きたいことがあったから」
「言いたいことと……訊きたいこと?」
彼女の言葉を繰り返し、メルクリオは首をかしげる。ヴィーナはうなずいて、立ち止まった。そうかと思えば、彼を射抜くように見すえる。
「わたしの魔法を止めてくれて、ありがとう。それと……迷惑をかけて、ごめんなさい」
メルクリオはまじまじと相手を見つめる。精霊のかすかな笑い声が、左右の耳を通り抜けていった。
「どうしても、これを伝えたかったの」と、ヴィーナはなぜか不機嫌そうに続ける。
我に返ったメルクリオは、わたわたと両手を顔の前で振った。
「いや、最終的に魔法を停止させたのはコル……タウリーズ先生だし。俺は時間稼ぎをしてただけだし。というか、そういう話ならエステルにだな」
「エステルさんとも話はしたわ」
「あ、左様ですか」
即座に切り返されて、メルクリオは立ち尽くす。そのまま呆然としてしまいそうだったが、ヴィーナが再び歩き出したので、慌てて後を追った。
先ほどよりも周囲が静かになった。だからか、続く少女の言葉も朗々と響く。
「時間稼ぎをしてただけ、とあなたは言うけれど。その時間稼ぎがなければ、先生だってあれを止められなかったでしょ。そもそも、暴発した魔法を抑え込むだけでも十分な大仕事よ」
「うん、まあ、それはそうだけどな」
メルクリオは頭をかく。それから、改めて口を開いた。
「あー、その。どういたしまして。ヴィーナが無事でよかった」
そう言うと、ヴィーナは少し視線を逸らした。
「あなたも、エステルさんと同じことを言うのね」
「ん?」
「なんでもない」
少し歩調を緩めた彼女は、またメルクリオの方を振り返った。
「それで、訊きたいことだけれど」
「あ、うん」
青みがかった紫色の瞳は、うなずいたメルクリオをよそに、左右を見た。ひと気がないことを確認するように。
そして、少女は再び立ち止まる。少年と向き合って、わずかに目を細めた。
「メルクリオさん。――あなた、何と契約しているの?」
どこか冷たい問いは、メルクリオの身心を凍りつかせた。
彼が言葉に詰まっている間に、ヴィーナは鋭く言葉を繋ぐ。
「あなたが魔法を抑えていたとき、わたしは気を失いかけてたと思う。だからほとんど見えていなかったし、声も聞こえていなかった。けれど、わたしの魔法を押さえつけるアエラは感じていたわ。あなたのものと、もうひとつ。あなたの隣――いえ、あなたのアエラに潜むようにして、人じゃないもののアエラが動いていた」
そこで一旦言葉を切ったヴィーナは、腰に手を当てた。
「チェロちゃんのような生易しいアエラじゃなかった。『隣の世界』にいるような強い魔族か――精霊のものでしょう」
メルクリオは息をのむ。彼の胸中を察しているかのように、ヴィーナは半歩踏み出した。
「答えて、メルクリオ・シュエットさん。あなたは契約魔法を使ったの? その相手は、何者?」
たじろいだ少年は、眉間にしわを寄せて頭をかいた。どう答えたものか、と考えかけて、すぐにその思考を打ち消す。どのみち、彼がヴィーナに贈れる答えは決まっているのだ。
「……契約は、してる。確かに」
「それは――」
メルクリオは、前のめりになったヴィーナを手で制した。
「けど。相手については、教えられない」
彼が強く言い切ると、ヴィーナは眉間にしわを寄せてにらんでくる。誰がどう見ても不満そうだった。
「どうして?」
問いかけは低く、妙にゆっくりだった。嫌な汗が吹き出すのを感じながら、メルクリオは答えを絞り出す。
「あーっと、その……約束! 学長先生との約束なんだ! 入学したばっかりのひよっこが魔族やら何やらと契約してたら、それだけで注目されるだろ。だから言わないように、って」
正体を知られないようにしろ、と学長から言いつけられているのは確かだ。その「正体」には実質、精霊との契約のことも含まれている。メルクリオが口にしたのは、完全な真実ではないが、事実ではあった。
だからか、ヴィーナもそれ以上の追及はしてこなかった。「……そうなの」と呟くと引き下がる。
「それならしかたないわね。ひとつ答えが聞けただけでいい、ということにしておく。ありがとう」
ちっとも納得していなさそうな表情で、そんなことを言った。メルクリオはうなだれて「どうも」とだけ返す。
それからほどなくして、同級生たちがいる教室の前に到着した。
先に入っていていい、とメルクリオが言うと、再び湿っぽい視線が突き刺さった。理由を聞きたそうなヴィーナに「お手洗いだよ」と苦しい言い訳をして、一度教室から離れた。
幸い、通路に人はいない。柱の陰に逃げ込んだメルクリオは、その場にへたり込んだ。
「………あっ……ぶなかった……!」
盛大に息を吐いた彼の目の前で、光の粒が舞う。
『……まあ、あのくらいなら記憶を消さなくてもいいでしょう。上の学年には、魔族と契約している生徒もいると聞きますし』
「よかったよ。本当に」
『何より、エステル以上の反撃をしてきそうですからね。彼女』
そんな大事にしてまで消す記憶でもありません、と言うルーナは、きっと羽を張ってふんぞり返っている。どうでもいいことを頭の隅で考えながら、メルクリオは頭を抱えた。
「だから魔法学校の生徒は怖いんだよ……!」
『詠唱を聞かれていたら、精霊だと見抜かれていたかもしれませんね』
「もう隠し通せる自信がない」
『諦めないでください、番人さん』
メルクリオは、ひと通り落ち込んでから柱にすがりつくようにして立ち上がる。
「まあ、相手がヴィーナで幸運だった、ということにしよう。他人の秘密を言いふらす人ではないと思うから」
『――そうですね』
小さな光に乗って、ふ、と音が弾ける。メルクリオは目を瞬いた。
「何笑ってんだ、館長」
『いえ。少し嬉しくなっただけです』
「なんで」
ルーナは答えなかった。メルクリオは顔をしかめたが、すぐに色々と諦めて、柱にもたれかかる。
近くの窓から見える景色をながめながら、ふたりは少し時間が過ぎるのを待った。
わずかにのぞく空は青い。
今日は色々なことがあった。けれど――
まあ、悪い日ではないな、とメルクリオは心の中で呟いた。




