34 きらめきの破片
「そんなこともできないのか」
彼女は、短い生の中で、何度もそう言われてきた。
いつも言い返せなかった。できていないのは本当だったし、なぜできないのかもわからなかったからだ。
物心ついたときからそうだった。
勉強やお稽古はそれなりにできる方だった。少なくとも、家の名前に傷をつけるほどではないはずだ、と彼女は思っている。実際、両親は勉強の成績についてはよく褒めてくれていた。
けれど、家族やほかの家の人々との交流がうまくいかなかった。
これは言うべきだろう、と思ったことを口に出すと、なぜか人々は嫌な顔をする。いきなり怒り出す人もいた。
父や母、きょうだいたちのようにはできなかった。それどころか、なぜ思ってもいないことを言わなければいけないのだろう、なぜいつも笑顔でいなければいけないのだろうと、ずっと戸惑っていた。
困惑し、それでも彼らの真似をしようとして、けれど真似にすらならなくて。そうして彼女が失敗するたび、両親は顔をそむけて、嘆くのだ。
「またやったのか」
「どうしてそんなこともできないの」
繰り返される問い。それはいつしか、彼女の中で呪いになっていった。
※
「ヴィーナさん。エステルさんはどうして怒ったんだと思う?」
同級生と衝突して。大まかな事情説明をした後、騒ぎの中心にいた二人は一人ずつ呼び出されて話をすることになった。
そのはじまりに担任教師がのぞかせた表情は、彼女に父親を思い起こさせた。だから、思わず身構えてしまった。
だが、彼は父親と違って、鋭い言葉を重ねることはない。どこかのんびりした調子で彼女が答えるのを待っていた。
彼女は視線をさまよわせたのち、浮かんだ言葉を形にする。
「わたしが……彼女のお父様を『犯罪者』と呼んだからでしょうか」
「ふむ。君の中で答えは出てるんだな」
「ですが、なぜそれで怒るのかがわかりません。シリウス・アストルムが悪いことをしたのは本当ですよね」
彼女が首をかしげると、教師はぽりぽりと頬をかいた。
「まあ、うん。そこは非常に複雑かつ繊細な問題だから、先生がどうこう言えることではないんだが」
歯切れ悪くそんなふうに言ったのち、彼は軽く咳ばらいをする。それから姿勢を正して、穏やかに切り出した。
「……ヴィーナさんには、大切なものがあるか?」
「大切なもの、ですか?」
「うん。物でなくても、好きなことでも、人でもいい。大事に大事にしている、自分と同じくらいか、もしかしたら自分よりも大切な宝物。君のそれは、なんだろう」
彼女はしばらく考えた。両親の顔、きょうだいの顔、いつも読んでいる本――いくつかのものを思い浮かべて、やがてひとつのものを拾い上げた。
「魔法、でしょうか。魔法の勉強をしているときは、夢中になれて、とても楽しいです」
「なるほどな。魔法が大好きなんだなあ」
「はい」
教師はうんうんとうなずく。そして、いくらかの間を取った後に言葉を繋いだ。
「じゃあ、考えてみよう。誰か――身近な人に『魔法は悪だ』『魔法を学ぶなんてくだらない』と言われたら、どんな気持ちになる?」
彼女は首をかしげる。
そんなふうに言われた経験は、ほとんどない。ヴェル・マーレ家の人々は魔法使いであることに誇りを持っている。だからか、子供が自分から魔法を学ぶと、基本的に喜ぶのだ。
けれど――それと少し近いことを言われたことは、あった。彼女はそのときのことを思い出す。知らないうちに、胸のあたりを押さえていた。
「ざわざわして、むかむかして、悲しくなりました」
「……そうか」
教師は、少し目を伏せて相槌を打った。けれど、直後――人差し指をぴんと立てたときには、いつもの表情に戻っていた。
「今回のこともそれと同じだと、先生は思うぞ」
「同じ……?」
「そう。お父さんを犯罪者と言われるのが、エステルさんにとって『ざわざわ、むかむかして、悲しくなる言葉』だったんじゃないかね」
彼女は口元に拳を当てて、わずかにうつむく。
「ですが、わたしは彼女のお父様を『悪だ』と言ったわけではありません」
「そうだな。でも、エステルさんは『悪だ』と言われたように感じたんだろう」
彼女はますます頭を傾けた。それを見て、教師は苦笑する。
「要は、人それぞれ何が大切か、何で傷つくかは違うということだ。君が魔法大好きなように、エステルさんはお父さんが大好きなんだろうな。だから、たとえ事実だとしても――事実といわれているからこそ、悪いようには言ってほしくない。先生にもそういう存在はあるからなあ。多少は気持ちがわかる」
彼女は、青みがかった紫色の瞳を見開く。相手の言葉を胸のうちで繰り返して、そこでふと、何かがつかめそうな気になった。けれど――その何かは、あっさり彼女の手をすり抜けてしまう。
「やっぱり、よくわかりません」
彼女が苦々しくそう言うと、教師は椅子に背を預けてほほ笑んだ。
「そうか。ま、理解しろとは言わない。言えないしなあ」
そんなふうに笑った彼はけれど、次の時には真剣なまなざしを彼女に向ける。
「でもな。人には、たとえ正しいことでも、言われたくないことがある――それは覚えておいた方がいい。じゃないと、ヴィーナさんはこの先、何回も他人と大げんかすることになりかねない」
「……それは、困ります」
そうだろう、と教師はまた笑った。そして、天気の話でもするかのような調子で続ける。
「その上で、エステルさんに何をすべきか、考えてみてはどうかな。……ま、その様子だと答えは出ていそうだが」
声色はいつもと変わらない。けれど彼の目は、彼女の心を見透かしているかのようだった。
彼女は思わず目を逸らす。耳の奥に、また両親の声が響いた。
※
嫌な夢を見た気がする。
その不快感から逃れたくて、ヴィーナは重い瞼をこじ開けた。半ば無意識でうめき声をこぼし、手近な布を引き寄せる。さらりとした手触りの布からは、ほのかに薬のにおいがした。
なぜだろう、と思ってヴィーナはあたりを見回す。白い天井と淡い萌黄色の壁、背の高い衝立が目に入った。
医務室だ。しばらく考えてから気が付いた。健康診断などで何度か来たことのある部屋だが、じっくり中を見たことはなかった。だからわからなかったのだ。
気だるさを抱えながら、おぼろげな記憶を辿る。いくつか、靄のかかった光景を思い出した。
どうにもできない魔法の炎。それを囲む優しい輝き。
そして――気が抜けるような、少女の笑顔。
『なんか、気づいたら動いちゃってて』
あのときの言葉を思い出す。
あのときの疑問がよみがえる。
「……なんで」
知らず、音の雫がこぼれ落ちた。
「なんで、そんなこと、できるの。宝物を傷つけたやつに、笑えるの」
掛布を力いっぱい引き寄せる。白い布はしわだらけになってしまったが、どうでもよかった。
「なんで、わたしはできないの」
掛布を頭からかぶる。そうして視界が白い闇に閉ざされても、少女の心は波立ったままだった。
それからいくらか時間が過ぎて。
さざ波のような音が、ヴィーナの耳に飛び込んできた。少し意識をすれば、それが人の話し声であることがわかる。
ヴィーナはさらに掛布を引き寄せた。今日はもう何も聞きたくなかった。失敗ばかりでみじめな自分のことなんて、放っておいてほしかった。
けれど、そんな彼女の願いをあざ笑うかのように、誰かの足音が近づいてくる。それがどうしても気になって、ヴィーナは少しだけ顔を出した。
すると、見慣れない女性と目が合った。
暗い金色の髪をきれいにまとめ上げた、穏やかな目をした人だ。彼女はヴィーナの方を見て灰色の瞳をみはったのち、ほほ笑む。
「あら、ヴィーナさん。目が覚めたんですね。よかった」
川のせせらぎのような声。それを聞いて、ヴィーナはこの女性のことを思い出した。ルシル・オフィークス、この学校の養護教諭の一人だ。普段はほとんど医務室にいるが、たまに授業をすることもある。
ルシルは少しかがんで、ヴィーナと目を合わせた。
「調子はどうですか? どこか痛かったり、気分が悪かったりしますか?」
「あ……いえ、大丈夫、です。ちょっと、ぼうっとしますけど」
「そうですか。何かあったらすぐに教えてくださいね」
「はい」
優しくほほ笑んだ彼女は、一瞬戸口の方を見る。それから、寝物語を聞かせるような口調で問いかけた。
「〈鍵の教室〉の子がお見舞いにいらっしゃっていますよ。お話ししますか?」
「お見舞い……?」
ヴィーナは掛布を握りしめたまま、養護教諭の言葉を繰り返す。
まだ世界は色あせていて、頭にも靄がかかっている。だから、よく考えないまま、わからないままにうなずいた。
嬉しそうに歩いていったルシルの姿を追うように体を起こす。そうして待っていると、すぐに忙しない足音が聞こえてきた。衝立のむこうから、黄金色の輝きが飛び込んでくる。
「あ、ヴィーナ起きてる!」
「……エステル、さん?」
ヴィーナは力の抜けた声で、現れた少女の名を呼んだ。
唖然としているヴィーナの様子を、エステルはさして気にしていなかった。目が覚めたばかりならぼうっとしていてもしかたがない、と、事実とはややずれた認識をしていたからである。
噛み合わない少女たちを見守っていたルシルが、小さく笑って身をひるがえした。
「それじゃあ、ごゆっくり。私はあちらで仕事をしていますから、何かあったら呼んでください」
「はい! ありがとうございます」
エステルは、養護教諭に勢いよく頭を下げる。それから、寝台の横にあった丸椅子を引き寄せて座った。
「体、平気? だるかったりしない?」
「……平気よ。さっき先生にも言ったけど」
「そっか! よかったあ」
刺々しい返答を気にすることなく、エステルは安堵の息を吐きだした。が、その直後、慌てて口もとを両手で覆う。
「あ、大声出しちゃいけないんだった。メルクがまだ寝てるから」
ヴィーナは弾かれたように顔を上げた。
「メルクリオさんが? どうして?」
「メルク、あの炎が広がらないように魔法で止めてくれてたんだけど、その後に倒れちゃったんだ」
白い五指が、掛布を強く握る。ヴィーナは、エステルをにらむように見据えた。
「それは――アエラの使い過ぎ、ということ?」
「ううん。ちょっと違う理由みたい。詳しい話も聞いたんだけど……難しくてよくわからなかった」
エステルは、ごめん、と言って頭をかく。笑顔が少しひきつっていた。
「……そう」
ヴィーナはそれだけ言って、またうつむく。
思い出すのは朧な光景。炎を囲む、輝くもの。確かに、あの光からヴィーナは少年のアエラを感じていた。
彼と仲がよかったわけではない。それどころか、関わりたくないとすら思っていた。
一年生ながら息をするようにあらゆる魔法を使い、それを誇ることもせず、当然のような顔をして過ごす天才児。みんなと距離を置いているのかと思えば、知らないうちにエステルと仲良くなっていて。最近ではマルセルたちと話している姿をよく見るようになった。
ヴィーナが持っていないものを、欲した物を、何もかも持っている男の子。
それがなぜ、倒れるような無茶をして、自分を助けてくれたのか。ヴィーナにはわからなかった。わかりたくなかった。――それは、エステルにしても同じことだ。
「――あのさ、ヴィーナ」
沈黙の中、声が落ちる。
窮屈そうに座るエステルが、碧眼をまっすぐヴィーナに向けていた、彼女は無意識のうちに上半身を引く。
「な、何?」
「その……昼間は、ごめんなさい」
静かな言葉。それとともに、少女は深く頭を下げる。もう一人の少女は、目と口を開いて彼女を見ていた。
「なんであなたが謝るのよ」
「なんでって……えっと……」
うろたえるヴィーナの問いに、エステルも困ったように笑う。
「――確かに、お父さんをあんなふうに言われたことには怒ってる。許してないし、当分許せないと思う。だけど、私もやりすぎたなーって思って。ほら、つかみかかったり、魔法使おうとしたりしたでしょ?」
「それは……わたしだって、やったじゃない」
彼女を弾き飛ばした、アエラの火花。それを思い出しながらヴィーナは言葉を絞り出す。しかしエステルは、きょとんとして頭を傾けた。
「そうだっけ?」
「――は?」
「あ、あー! あのバチッってなったやつか! 忘れてたよ」
手を叩いて、そんなことを言う。もちろん声は潜めたままだ。
一方のヴィーナは完全に固まっていた。呆れや驚きを通り越して、頭が真っ白になっていた。
「……ヴィーナ、ヴィーナ? おーい?」
何度か手を振って呼びかけられ、ようやく彼女は我に返る。深呼吸ののち、掛布の上に突っ伏した。
「あなたって、ほんとに……なんで、そうなの……?」
「えっ、何? 私、また何かまずいこと言った!?」
あたふたする同級生をよそに、ヴィーナは敷布の下から長いため息をこぼす。そして、背中にのしかかるような疲労感を覚えながらも、ゆっくりと体を起こした。
「……わたしも」
なけなしの勇気を振り絞って、彼女を見る。
「わたしも、間違ったことを言ったとは思ってない。なぜあなたが怒ったのかは……わかるようで、きっと、わかっていない」
「……ヴィーナ」
「でも。あなたの大切な人を、あなたの宝物を傷つけてしまったことには、変わりないから。それについては、ごめんなさい」
静かに頭を下げる。
彼女は生まれて初めて、心からそうしたいと思って、そうした。
――しばらく、答えは返らなかった。
耳が痛くなるような沈黙が続いたのち、そよ風よりも小さなささやきが少女の耳を撫ぜた。
「顔、上げて。ね」
戸惑いの色がにじむ声。それに引きずられるようにして、ヴィーナは相手を見上げた。
エステルは、きまり悪そうに頬をかいて、呟く。
「えっとね。私も、ヴィーナと永遠に喧嘩していたいわけじゃないんだ。授業だってどうせなら楽しく受けたいし、一緒にご飯食べたいし、読んでる本の話とか、魔法の話とかもしたい」
彼女は細く息を吸って、吐く。それから、まっすぐにヴィーナを見据えた。
「だからね。お父さんのことを、私やお母さんの前で悪く言わないでくれたら、それでいいよ」
思いがけない言葉に、ヴィーナは、え、とこぼした。つい身を乗り出してしまう。
「そんなことで許していいの?」
「だから、許したわけじゃないって。それとこれとは別問題、というか」
「あなたのいないところで、シリウスの――あなたのお父様のこと、また『犯罪者』って呼ぶかもしれないわよ?」
「それは――嫌だけど、しょうがないよ。世の中の人たちから見たら、今は本当のことだから。それに」
前のめりになった勢いで、ヴィーナの体が傾いた。倒れそうになった彼女をすんでのところで支えたエステルは、いつものようにほほ笑んだ。
「ヴィーナは、私の気持ちを考えてくれたでしょ? わからなくても、なんでだろうって思ってくれたんでしょ。それで十分だよ」
どうしようもなく厭わしくて、たまらなくまぶしい微笑。
それに対してどんな表情をすればいいのか、ヴィーナにはわからなかった。だから、顔を背けた。相手の顔を見ないまま、優しい腕を押しのける。
「何それ。あなた、甘すぎよ。頭の中にマコウスミレでも咲いてるんじゃないの?」
「うわっ。急にいつものヴィーナだ。なんか安心する」
「なんでよ!」
思わず叫んでしまい、ヴィーナははっと口もとを押さえた。それから大きく息を吐きだし、表情を改める。
にこにこしている同級生に向き合った。
「……わかったわ。もう、あなたのお父様のことを『犯罪者』とは言わない。ヴェル・マーレの名にかけて誓います」
エステルは、呆気にとられて彼女を見つめた。それから「ありがとう」とほほ笑む。
ヴィーナはそっぽ再びを向いたが、我慢できずに口もとをほころばせた。
思い出すのは、手放せなかった何冊かの本。未練がましく拾い集めた、きらめきの破片。苦い思い出の象徴であるそれが輝きを取り戻すことも、あるのかもしれない。
寮に帰ったら、久しぶりにあの本たちを開いてみようか。
彼女はふと、そんなことを考えた。




