33 月光の檻
魔法の火を灯した瞬間、小さな違和感を覚えて、メルクリオは顔を上げていた。その拍子に、少し離れたところにいるエステルと目が合う。
二人は鏡のように首をかしげあったあと、違和感の元を探して教室を見回す。そして、すぐに見つけた。
ヴィーナ・ヴェル・マーレ。なんの苦もなく火を灯した少女の周囲に、何かがまとわりついている。目に見えるものではない、けれど確かにあるもの。
メルクリオは、顔をしかめて一言呟き、魔法を消した。そしてヴィーナの方に目を凝らす。
「これは、アエラ? それにしては――」
『メルク!』
少年の思考を精霊の金切り声がさえぎる。さらに顔をゆがめたメルクリオは、けれど文句を言わなかった。それどころではなかったからだ。
『あの子をあの場所から遠ざけて!』
「は? 場所?」
『あれは――』
ルーナが何かを言おうとした瞬間、教室中のアエラが不自然に動いた。
メルクリオは考える前に床を蹴る。助手が同じように飛び出したことには気づいていたが、止めなかった。そんな余裕はない。
ヴィーナの指先にとどまっていたはずの火が、急激に燃え上がる。その勢いは彼女が尻餅をついても止まらず、見る間に大きな炎となった。それだけではなく、中心部のアエラがどんどん濃くなっていっている。――間もなく爆発するだろう。
「ヴィーナ!」
メルクリオよりいくらか壁側に近いエステルが、勢いよく飛び出す。ヴィーナに体当たりした彼女は、相手もろとも床を転がった。その背後で、膨れ上がった炎がじりじりと不穏な音を立てる。
「馬鹿っ――『我が力よ、広がり、包め』!」
悪態を途中でのみこんで、メルクリオは詠唱する。早口で紡がれた呪文に呼応して、アエラが教室中に薄い幕を作り上げた。直後、炎が勢いよく爆ぜる。生徒たちの悲鳴が轟音にのみこまれた。
ヴィーナを火から遠ざけたエステルも、彼女をかばうように背を丸める。
火の粉が降りかかることも覚悟していた。けれど、いつまで経っても熱さや痛みはやってこない。不思議に思って、エステルは顔を上げた。
「あ、あれ? 熱くない……」
呆然として呟いた彼女の目の前で、飛び散った火が幕に吸い込まれて消える。それはエステルたちのまわりだけでなく、教室中で起きていた。
「なん、で」
震え声が響く。そちらに顔を向けたエステルは、ヴィーナが青ざめていることに気づいて息をのんだ。
「ヴィーナ! 大丈夫――」
「なんで……こんなこと、したの」
顔面蒼白のまま、彼女は鋭い目でエステルをにらむ。にらまれた方はつかの間固まったものの、すぐに曖昧な笑みを浮かべる。
「わ、わかんない。なんか、気づいたら動いちゃってて」
ヴィーナは唖然として固まった。エステルが「それより、怪我はない?」と訊くと、その状態のままうなずく。
見た目にも傷はなさそうだと判断したエステルは、安堵の息を吐いて、同級生の手を握った。
「よかった。それじゃあいったん――」
離れよう、と言いかけた彼女の声にかぶさって、ぼうぼうと炎の音が響く。少女たちの近くで今なお燃える炎は、なぜかますます勢いを増していた。
悲鳴をのみこんだエステルの陰で、ヴィーナが口を開く
「『根源たる力よ、あるべきところへ還りたまえ』!」
よどみない詠唱は、確かにアエラへと届いた。炎がわずかに弱まる。けれどそれは一瞬のことであった。勢いを取り戻した炎は、ぼん、ぼん、と立て続けに爆ぜる。
「うわっ」
「うそ……。とまら、ない」
反射的に耳をふさいだエステルのかたわらで、ヴィーナが愕然と呟く。彼女は、全身を震わせると同時、うずくまった。
「ヴィーナ?」
「やめ、て……やだ、とまってよ……いや、い――」
悲鳴は途切れ、うめき声に変わる。ヴィーナに呼びかけようとしたエステルはけれど、何度目かの爆音を聞いて振り返った。炎がどんどん大きくなって、結果、彼女たちの方へ近づいていた。
エステルが、少女を抱く腕に力をこめる。
「『根源たる力よ、四散せよ』!」
――メルクリオが助手に追いついたのは、そんなときだった。
放り投げるような気持ちで放った打ち消しの魔法は、炎の中心部を叩いた。炎はわずかに弱まったが、まだその場にとどまっている。通常の魔法であれば一瞬で消し飛ばせるはずなのだが、ほとんど効いていないらしい。
「メルク!」
ヴィーナを抱きしめているエステルが、歓喜の声を上げる。メルクリオはそちらをひとにらみした。
「無茶するな。火傷したらどうするんだ」
「あー……ごめん」
エステルが引きつった笑みを浮かべる。
そのとき、小さな謝罪に重ねるようにして、別の声が響いた。
「『根源たる力よ、集束せよ』――」
教室の中央付近。エリザ・アルタが、ほかの生徒をかばうように立っている。彼女は異様な炎にも動じず、淡々と詠唱を繋げた。
「『重なり築くは守護の壁。あらゆる災禍を打ち払い、我を囲みし魔の砦』」
詠唱の余韻が消えた直後。半透明の壁が現れて、ぐるりと彼らを取り囲んだ。小さく息を吐いたアルタは、もう一人の教師を仰ぎ見る。
「ヴェル・マーレさんたちの保護をお願いしてよろしいですか、タウリーズ先生」
「もちろん。アルタ先生は彼らを頼みます。飛び火しないよう善処しますんで」
「わかりました」
軽やかな応酬の後、コルヌは大きく踏み込む。短い詠唱をいくつも連ね、氷の刃を放った。それらはすべて炎にのみこまれたが、使い手は顔色を変えない。「そりゃ、まあなあ」と呟いて、少年少女のもとに駆け寄った。
「みんな、無事か」
メルクリオは無言でうなずく。エステルも「私は大丈夫です!」と元気よく答えた。が、直後に顔を曇らせる。
「でも、ヴィーナさんの様子がおかしくて……」
むっと眉を寄せたコルヌは、うずくまったままの少女をのぞきこもうとする。しかし、それを阻止せんとばかりに炎がうなった。渦巻いた炎は、意志があるかのように彼らへ迫ってくる。
「『岩土は起きて天へと背を伸ばす』!」
床に両手をついたコルヌが早口で詠唱する。床を突き破って盛り上がった土の壁が、かろうじて炎を防いだ。しかし、紅蓮の波が衰えることはない。
壁が、衝撃に震えてみしみしと音を立てている。
「やれやれ。消火が先かな」
「……いや」
呟いたコルヌの隣で、メルクリオが首を振る。
「今の状態でいくら火消しをしようとしても意味がありません」
「ん? それはどういう――」
コルヌが首をかしげたとき、ぱらり、と土の欠片が落ちる。壁の端に小さなひびが入った。
「うわっ」
彼がうめいたその瞬間、メルクリオは踏み出した。
「『現出せよ。ここに示すは天の威なり』」
ひびが広がり、繋がり、亀裂となる。少年はそれを見ても眉一つ動かさず、詠唱を続けた。
「『白き楔は打ち込まれた。輝ける闇は、あらゆる干渉を拒絶する』」
壁が崩れる。同時、メルクリオの全身が薄い光を帯びた。彼が炎に向かって手を突き出すと、いくつもの光が伸びて、柵のようにそれを取り囲む。
「『満ちる、満ちる、月が満ちる。月光は、眠りしものに降り注ぐ』」
光は伸びて、交差し、鳥籠に似た檻を作り上げる。その中で炎の勢いは少しずつ弱まっていく。――だが、やはり消えることはなかった。
メルクリオは、檻を維持したまま声を絞り出す。
「タウリーズ先生……! 魔法のもとを探してください!」
唖然として檻を見ていたコルヌが、頬を打たれたように震え、少年を振り返った。
「もと? どういうことだ」
「ヴィーナさんはさっき、魔法を消そうとしました。にもかかわらず、あの炎は消えるどころか燃え続けている。彼女や周囲のアエラを吸い上げて。ということは――」
「――ヴィーナさん以外に、魔法を動かしているものがある、と?」
コルヌは、メルクリオの推論を静かに引き取る。緑の瞳が、刃のような光を帯びた。
それを聞いていたエステルが、腕の中の少女を見下ろす。そのヴィーナはぐったりとしていたが、まだ意識はあるようだった。
「ひょっとして、ヴィーナが苦しそうなのって、今もアエラを使って……吸われてるから?」
「そういう……ことだ。早く止めないと、色々、まずい」
メルクリオは檻の方をにらんだまま答える。
囚われた炎は今なお激しく燃えていて、まるで檻を打ち破ろうとしているようだった。獰猛なアエラは、彼の内側を容赦なくかき乱す。全身が震え、額ににじんだ汗が幾筋も流れ落ちた。
大図書館の番人のそんな様子を見て、いよいよ大事だと判断したのだろう。コルヌが険しい表情であたりを見回している。いつもは明るい冗談を飛ばす口が、真剣な思考を形にした。
「今の今まで、不審な詠唱は聞こえてこなかった。ということは――」
ヴィーナの周辺を探っていた視線が、ある一点で止まる。
「ちょっと、前を失礼」
言うやいなや、コルヌはやや身を低くしてメルクリオの前を横切った。壁の前で立ち止まると、その表面をなでる。
「やっぱり、これか」
その様子を見ていたエステルが、首をかしげる。
「何を見つけたんですか?」
「呪文だな。それも相当古い魔法だ」
「なっ……!?」
エステルが奇妙に裏返った声を上げる。それを聞いたヴィーナがわずかに瞠目したことには、この場の誰も気づかなかった。
不敵にほほ笑んだコルヌは、右手の指を壁に添えて、静かに滑らせた。
「そうとわかれば話が早い。上書きさせていただきますよっと」
一部の魔法使いが聞けば白目をむいて絶句しそうなことを呟いたコルヌは、そのまま指を躍らせる。指先に灯った光が軌跡を描き、壁に彫られた文字の上に新たな文字を記した。
「これをこうして、こうして――はい、無効化、っと」
書き終わりに文字の端を軽く叩く。すると、光る文字が弾けて壁を覆った。
その光が消えると同時、教室中に乾いた破裂音が響く。生徒の多くが悲鳴とともに耳をふさいだ。
その眼前で、炎が散って、消える。その後には白い煙がもうもうと立ち昇っていた。
熾火のひとつもないことを確かめて、メルクリオが手を下ろす。すると、檻を形作っていた光が静かにほどけた。その魔法をともに支えていた精霊が、人知れず羽の力を抜いた。
部屋が暑くなるほどに熱されていたアエラが、ゆっくりと冷えて自然の状態に戻っていく。その変化を肌で感じた現役の魔法使いたちは、細長く息を吐きだした。
「……なんとか、なったか?」
「……なりました。ありがとうございます」
「それはよかった」
コルヌの確認に、メルクリオはあくまで生徒として答えた。返答を聞いた教師はひらりと手を振り、頭をかく。それから、アルタの方を振り返って「もう大丈夫ですよー」と呼びかけた。
途端、教室中の空気が緩む。アルタが防御魔法を解くと、あたりは一気に騒がしくなった。
「な、なんかすげーものを見た……」
「なあ、これってちまたで話題の魔法のぼーはつってやつだよな」
「ぼーはつってやつだよ」
「うちの教室でも起きるとはね」
「ヴィーナさんは大丈夫ですか!? エステルさんは!?」
涙目で駆け寄ってくるティエラを見て、エステルが「私はへいきー」と手を振った。
しかし、直後にヴィーナの体がずるりと倒れる。反射的にそれを受け止めたエステルは、大慌てで彼女の顔をのぞきこんだ。
「ちょ……ヴィーナ?」
いつも抜き身の剣のような目をしている少女は、目を閉じて動かない。今にも脆く崩れてしまいそうな様子だった。
「ヴィーナってば、しっかりして!」
「気を失っていますね。医務室で診ていただかないと」
そこへやってきたティエラが、同級生の相貌を見下ろして不安げに呟く。どうやって彼女を運ぼうかと四苦八苦している少女たちのもとに、アルタがすぐさま駆けつけた。
一方、メルクリオはその騒ぎを他人事のように見ていた。床に座り込んで、だらりと両足を投げ出している。そんな彼のもとには、少年たちがやってきた。
「メルクリオ!」
まっさきに彼のもとへ飛んできたマルセルが、大声を出す。ぼんやりと振り返ったメルクリオの肩を勢いよくつかんだ。
「うわっ」
「なんだよ、さっきの魔法! おまえまじで何者!?」
「い、いや。何者と言われても困る……」
本気で返答に困る、とメルクリオは視線をさまよわせた。そこへ双子がやってきて、弟の方が身を乗り出した。
「ていうか、メルくんも大丈夫か? ひっどい顔だけど」
それを聞いて、興奮していたマルセルがぴたりと動きを止める。鳶色の瞳がいっぱいに見開かれた。
「うわ、ほんとだ。顔まっ白。休んだ方がよくね?」
「んー。多分、大丈夫……」
ぼうっとしたまま答えたメルクリオは、両手を床につく。そのまま立ち上がろうとして、けれど大きくよろめいた。
「お、おい! 危ねえって!」
マルセルが、とっさにそれを支えた。彼はその後も何事かを話しかけ続けたが、メルクリオの耳には何も届いていなかった。
目の焦点が定まらず、音もはっきり聞こえない。その上、腹のあたりから何かがせり上がってきていたのだ。
「だいじょうぶ……じゃ、ないな、これ……」
吐き気をこらえきれず、とっさに口を押さえる。それを見た少年たちが青ざめた。
「冷静に言いなおしてる場合か馬鹿!」
「せんせー。こっちにも医務室送りの人がいまーす」
騒がしい彼らの声も、今のメルクリオにとってはわずかな雑音でしかない。彼はただ、気分の悪さから逃れるように目を閉じる。
窒息しそうな暗闇の中、丸い月を見た気がした。




