31 粉々の宝物
彼女は机の横を見た。
窮屈そうに立っている小さな本棚。その中に収まっているのは、実家から持ってきたわずかな書物。
魔法にまつわる本ばかり。けれど、分野はばらけている。その中でちらほらと目につくのは、同じ著者の名前だ。
シリウス・アストルム――その名を頭の中で読み上げて。
彼女は口を引き結ぶ。きゅっ、と小さな拳を握る。
ちょうど本が読めるようになった頃、彼のことを知った。彼のようになりたいと思った。
たゆまず、おごらず。魔法に、精霊たちにまっすぐ向き合って。大げさなことは言わず、ただ黙々と成果をあげる。そんな姿は、彼女にとって理想で、道標だった。
だから三年前、彼が逮捕されたと聞いたときには、しばらく動けなくなった。
動けるようになると、今度は全身を焼くほどの怒りが湧いた。
この本たちも捨ててしまおうかと思った。
――けれど、できなかった。
捨てるどころか、ここまで大事に持ってきている。
粉々に砕け散った宝石を丁寧に拾って、未練がましく残している。そんな自分が嫌だった。けれど、同時にほっとしているのだ。
※
「うーん……」
ある日の昼休み。軽やかで騒がしい生徒たちの間を縫って、メルクリオは歩いていた。その足取りは重く、眉間にはしわが寄っている。
「どうにもつかめないな、『宵の星妖精研究会』……」
『ですねえ』
彼の低い呟きに、姿なき精霊が応じる。
『今のところ、ちょっと変わってはいるけど害はない研究団体、という印象です』
続いた言葉に、メルクリオはうなずいた。
彼らが注視している謎の団体、宵の星妖精研究会。彼らが関わった著書は、学校図書館にもいくつか置いてあった。隙を見てそれらにひと通り目を通したメルクリオはけれど、余計に彼らの実態がわからなくなっていた。
全体的な印象は、先ほどルーナが言った通りだ。けれど、初心者向けと見える本の中に奇妙なほど詳しい魔族の記述があったりと、気になる点はある。
『こういうとき、実際に市井での評判などを聞けるといいんですけどね』
「そうだなあ……。ただ、下手に尋ねて回ると面倒事になりかねないんだよなあ」
『ですねえ……』
宵の星妖精研究会の話から、彼らがシリウス・アストルムについて調べていると他者に知られるのは困る。コルヌやリアンなどは気づいた上で見逃してくれているようだが、それにも限度はあるだろう。
「やっぱり、エステルにも少し手伝ってもらうか? いやでも、現状あいつが一番危険だし……」
ぶつぶつと呟きながら歩いていたメルクリオは、けれど途中で足を止める。自分と同じ方向に向かう大人の背中を見つけて、少し目を細めた。
一呼吸ののちに頭の中を切り替えて、少し声を張る。
「タウリーズ先生」
コルヌ・タウリーズが振り返った。彼もまた、教師として少年に手を振ってくる。
「やあ、メルクリオさん。きちんと休めたか?」
「はい、それなりに」
「結構、結構。このあとの授業はちと神経を使うだろうから、体力は回復させておけ」
そんなやり取りの後、どちらからともなく並んで歩き出す。しばらくはぽつりぽつりとたわいもない会話をしていた。けれど、目的地が近づいてきたところで、コルヌが表情を険しくした。
「ん……?」
メルクリオもその理由に気づいて、顔をしかめる。
アエラが、動いた。誰かの想いを察知して、そちらに集まっていくような――魔法を使うときの動き方だ。
「おやま、授業外で魔法を使う困ったちゃんがいるのかね? それとも――」
剣呑に光った緑の瞳。それはけれど、間もなく驚きの色に染まった。
「あ、いた! タウリーズ先生!」
引きつった声を上げて、女子生徒が駆けてくる。首までの長さに切りそろえられた茶髪に、知性を湛えた瞳――ユラナス・サダルメリクだ。いつも淡々としている彼女は今、少し焦っているようだった。
「ユラナスさん? どうした」
「すみません、急いであの子たちを――ヴィーナさんとエステルさんを止めてください!」
彼女の口から飛び出した名前に、メルクリオとコルヌは息をのむ。驚いた顔を見合わせたのち、ほぼ同時に駆け出した。
次の授業が行われる教室に駆け込む。踏み出したコルヌの横で、メルクリオは教室に視線を走らせる。
薄暗い部屋の隅。少女二人がいつになく険悪な様子でにらみあっている。そんな二人を顔面蒼白のティエラがなだめているようだが、まったく届いていないようだ。周囲には熱のこもったアエラが渦巻いている。きっかけさえあれば、いつでも魔法になりそうだ。
「…………えーと、どういう状況だ? これ」
メルクリオは、らしくもなく呆然としたのち、乾いた声で呟いた。
※
時は少しさかのぼる。
昼食を終えたエステルは、同級生と合流して次の授業が行われる教室に入った。適当な席を陣取ったところ、ヴィーナとティエラの近くになった。
特に何を話すわけでもなかったが、ふいに響いたため息がその沈黙を破った。エステルは隣を振り返る。ティエラが、憂鬱そうに開いた本を見つめていた。
「どうしたの、ティエラ?」
小声で話しかけると、王女はぱっと顔を上げた。頬を染め、戸惑った様子で頭をかく。
「あ……すみません。次の授業、ちゃんとできるかなあって考えていたんです」
「次? 元素魔法の実践だよね? えーと、ぞくせいひょうしゅつを見るってやつ」
「はい。外界のアエラを使って元素魔法を発動させた場合、現れる元素属性にどのような偏りが出るか――それを体感するという話ですね」
「私、そういうの考えたことなかったよ。ここに来るまでは使う機会も少なかったし」
アエラを操り、自然に干渉する――火を灯す、その場に風を起こす、などといったことを行う魔法。それが元素魔法だ。ある意味もっとも広く知れ渡っている魔法だが、認知度の割に魔法使いたちが好んで使うことは少ない。結果が気候や場所に左右され、威力も安定しないからだと、少し前の授業で先生が言っていた。今まで〈鍵の教室〉の面々が魔法を使ったときのことを思い返せば、その意味もなんとなくわかる。ただ、エステルなどにはまだ実感が薄かった。
次の授業は、「結果が安定しない」ことを体で感じるためのものらしい。
「うーん。もともと『不安定な魔法が出る』って前提の授業だし、そんなに気にしなくてもいいんじゃないかな?」
「それはそうなんですけど」
首をひねるエステルの向かいで、ティエラが縮こまる。
「私の場合、元素の偏り以前に魔法が失敗しそうなので……」
「え、そうなの?〈かくれの森〉ではすっごい壁作ってたのに」
「あれは、あのときはうまくいったんです。でも、まだ安定してなくて……」
「そ、そうなんだ」
エステルは、ティエラの体質について詳しいことを知らない。が、何か複雑な事情がありそうなことは察していた。
エステルが眉を寄せて考え込んでいると、高い声が割り込んでくる。
「そんなの当たり前じゃない。わたしたち、一年生よ?」
話を聞いていたらしいヴィーナが、なぜかいらだたしげにこちらを見ていた。彼女は二人の視線を受けて、両目を細める。
「最初からなんでもできるユラナスさんやメルクリオさんがおかしいのよ。それに今年、上の学年でも暴発がいっぱい起きてるじゃない。魔法の不安定さなんて、気にしても馬鹿馬鹿しくなるだけだわ」
相変わらず刺々しい、とエステルは頬を引きつらせる。一方のティエラは、ぽかんとした後、照れ臭そうにほほ笑んだ。
「そう、ですね。緊張しすぎてもよくありません。……ありがとうございます」
「……別に」
エステルは、ほほ笑ましくそのやり取りを見守っていた。が、少し遅れて違和感を覚える。普段から魔法の精度を高めることにこだわっているヴィーナが、そんなふうに言うのは少し意外だ。単にティエラへの激励のつもりかもしれないが、それにしても引っかかるものがある。
エステルは少し眉を寄せたが、『もやもや』はすぐに引っ込んでしまう。ティエラの元気な声を聞いたからだ。
「できる限りの予習もしましたし! 頑張ります!」
「そ、そうそう、その意気だよ! 一緒に頑張ろう!」
王女の意気込みに乗っかったエステルはけれど、ふと目を瞬いた。ティエラが本を閉じた拍子に、『基本を極める アエラの制御と安定』という大きな表題が目に入る。
「あれ、その本、見たことある」
「わあ、エステルさんもご存知なんですね。でも、確か学校にはないですよね?」
ティエラが首をかしげた。エステルも、つい同じようにしてしまう。
答えをくれたのは、またしてもヴィーナだった。
「お家にあったんじゃないの? その本、シリウス・アストルムも執筆に参加しているはずよ」
二人して、え、とこぼして固まった。慌てて著者一覧を確かめたティエラが「ああ、確かに!」と目をみはる。エステルもそれをのぞき込んで、感嘆の息を吐く。
「おお、ほんとだ……。こんなところにもお父さんの本があった……いや、お父さん一人で書いたものじゃないけど」
瞳を輝かせるエステルをティエラが温かく見守る。少しして、彼女はいま一人の少女を振り返った。
「ヴィーナさんはどうしてご存知だったんですか?」
「どうしてって……うちにもその本、あったから」
「そうなんですか! いい本ですよね」
ティエラの笑顔が、温かなものから輝かしいものに変わる。それをわき見したヴィーナは、顔をつんと逸らした。
「悪くは、ないわね。でも――シリウスが書いた章はあまり読んでない」
声色がほんの少し冷たくなる。気づく人がどれほどいるだろう、というほどのわずかな変化。けれどそれは、確かに空気を変えた。
虚を突かれて固まったティエラが、こわごわと口を開く。
「そ、そうなんですね。文章が合わなかったとかですか?」
「文章は読みやすかったわよ。でも、犯罪者が書いたものって信用できないじゃない」
無造作でさりげない、生徒たちの話し声に溶け込んで消えてしまいそうな声だった。だから、少女たちはその一言をすぐには理解できなかった。呆然としていた二人の顔色は、時計の針が進むごとに変わっていく。片や真っ赤に、片や真っ青に。
「ちょっと――」
「ヴィ、ヴィーナさん。言いすぎですよ」
エステルが顔をゆがめたのを目に留めて、ティエラが慌てて立ち上がった。しかし、二人を見たヴィーナは心底不思議そうに首をかしげる。
「言いすぎ? なんで? 事実とわたしの意見を言っただけよ」
その反応には善意も悪意もない。物心がついたばかりの子供が、疑問を大人に問うかのような調子であった。
ティエラは今度こそ唖然として、何も反応できなかった。そんな彼女を押しのけるようにして、エステルがヴィーナの前に立つ。机を叩いた彼女は、怒りを湛えた碧眼を紫色の瞳に向けた。
「……お父さんを馬鹿にしないで」
「馬鹿にしたわけではないわ。犯罪者なのは事実でしょう」
「それを言うなって言ってんだよ!」
エステルの声が一気に高くなる。教室が一瞬静まり返った。それぞれの世界に没頭していた同級生たちの視線が、エステルたちの方に集まる。
「犯罪者、犯罪者って、あんたが決めつけるな!」
「はあ? いつわたしが決めつけたのよ。逮捕されたのは本当でしょう?」
「まだ悪いことをしたって決まったわけじゃない!」
エステルは怒鳴りながら、自分で自分に戸惑っていた。なぜこんなに熱くなっているのかわからない。父が犯罪者と呼ばれるのは、今に始まったことではないのに。とうに慣れたと思っていたのに。
なぜ、と問うと思い浮かぶのは、最近見たものたちだ。
懐かしい暗号。魔法で隠された文章。外向きのものではない、温かい父の文字。
それらは今、エステルの感情をざわざわと掻き立てる。
――気づけば彼女は、ヴィーナにつかみかかっていた。
「このっ――」
「エステルさん、だめです! 落ち着いて!」
優しいあの子の制止も、外野の叫び声も遠い。
すべてを無視したエステルは、激情のまま腕に力を込めた。
その瞬間、向かい合う二人の間で火花のようなものが爆ぜる。周囲のアエラが一気に熱を帯び、渦巻いた。軽く弾き飛ばされたエステルは、机の縁に体をぶつける。痛みをねじ伏せて顔を上げると、むっつりとしているヴィーナと目が合った。
「わたしに八つ当たりしないでよ。文句があるなら警察か法務局に言ってよね。――まあ、言ったところで聞いてはくれないでしょうけど」
刺々しい反応は、少女の神経を逆なでする。エステルは、考えるより先にアエラを手もとに集めていた。それに気づいたらしい何人かが何事かを叫んだものの、彼女たちには届かない。
二人のアエラが大渦を巻き、今にも飛び出しそうになったとき――教室の扉が開いた。
「『魂の雫を糸として、縒りて結びて縄とする』『縛り留めるは形なき神秘』『暴かれしその果てに、天地は静まり、海は凪ぐ』」
長大な呪文詠唱はけれど、早口で唱えられたこともあって、一瞬で教室に行き渡った。次の瞬間、少女たちのまわりで躍っていたアエラが弾き飛ばされ、もとのところへ還っていく。
「はいはい、そこまでだ。授業と『やむを得ない理由』以外で魔法を使うのは禁止だぞ」
誰もが呆然としている中、誰もが聞き慣れた足音が響く。
教室に入ってきたコルヌ・タウリーズは、教え子全員に軽くほほ笑んだのち、奥にいる少女たちを見やった。
「さて、そこの三人。まずは事情を聞かせてくれ」




