30 謎と手がかり
大図書館の番人が口にしたのは、シリウス・アストルムが冤罪である可能性だ。
彼の前に立つ助手は、それを唖然として聞いていた。驚きが過ぎ去ると、相貌に少しずつ喜びの色が浮かび上がる。
「じゃあ、やっぱり、お父さんは禁術に手を出してなんかなくって……!」
「その線が濃厚になってきた。あくまで推測だけど」
メルクリオは重ねて念を押す。現段階であまり大きな期待を抱かせたくなかったからだ。
しかし、少女の顔は曇らない。それどころか碧眼は輝きを増し、頬が赤く染まった。
「それなら、なおさら三年前までの研究を調べないと! お父さんを助ける手がかりが見つかるかもしれないし!」
「……勝手に突っ走るなよ」
「うん! まずはこういう暗号探し、頑張るね」
エステルは父の研究書を手にしたままうなずく。
一方、メルクリオは苦々しく顔をゆがめて、頭を抱えた。この助手は絶対に「突っ走るな」の意味をわかっていない。そもそも話を聞いていない。こうなる気がしていたのでシリウスの話は慎重にしたかったのだが、今さら言っても仕方のないことだ。
それに――前向きな気持ちになっているところに、水を差したくなかった。
こわばっていた頬をふっと緩め、メルクリオは手を叩く。
「よし。それじゃあ、ひとまずシリウスの暗号探しはエステルに任せよう。何か見つけたら、なるべく早く報告してくれ」
「わかった」
「で、俺たちは『宵の星』とやらについて調べる」
メルクリオの一言に、エステルは目を瞬いて、ルーナは羽を緩やかに動かした。
『調べるって……何をするんです? 現状、この伝言しか手がかりがありませんよ』
「まずは文献を当たるところからだな。比喩表現や隠語であることも想定しつつ、近い意味の名前を持つ組織を探す」
腕を組んだメルクリオは、頭の中で情報を組み立てながら呟いた。
「それでもわからなかったら、人や魔族に聞くしかないさ」
「聞くって言ったって……」
「もちろん、相手は選ぶさ」
渋い顔をしているエステルに、大図書館の番人は不敵な微笑を向けた。
「あてはある。外の情報に詳しくて、大図書館と関係が深くて、口が堅いのが、一人。エステルとも面識がある」
少女と精霊は顔を見合わせて考え込んでいたが、ややして「まさか――」と口を揃える。メルクリオは無言でうなずいた。
そろそろ報告書をまとめないといけないな、などと考えながら。
※
あてにしていた人物が大図書館にやってきたのは、数日後の昼前だった。
館内にあまねく響き渡るハンドベルの音と、虹色の星々。メルクリオがそれらを辿って広間に行くと、彼は相変わらず静かな緑の瞳を番人に向けた。
「いつもと違う時間にお邪魔して、申し訳ない。今日もよろしく頼む」
「気にするなよ。こちらこそよろしく」
お堅い挨拶に肩をすくめて返したメルクリオは、いつも通りにクロノス・タウリーズを奥へと案内した。
その後の定期報告も、滞りなく進んだ。二人と精霊だけの時間である。
今日はグリムアル魔法学校の休日だ。だが、エステルはいない。街に用事があるとかで、大図書館に来ていないのだ。
応接室でクロノスに報告書を渡したメルクリオは、ふと思い立ったような態度で口を開いた。
「……そういえば。クロノスは『宵の星』って知ってるか?」
向かい側で書類を見ていたクロノスが、顔を上げる。怪訝そうに目をしばたたいた。
「『宵の星』? 日没前に見える輝きの強い星のことか」
「いや、そういう意味ではなく」
「それ以外は知らないな」
「そっか」
歯切れの悪い返答を聞いてか、大図書館監査員は書類を脇にどける。真剣なまなざしを対面の少年に向けた。
「どうしたんだ、突然」
「ちょっとな。趣味で読んでた本にそんな名前が出てきたから、気になっただけ」
――嘘ではない。シリウスの研究書の調査は、大図書館の業務ではない。メルクリオが個人的な理由でエステルに協力しているだけなので、趣味、と言えなくもないだろう。
メルクリオは、淹れたばかりのお茶に口をつける。それを見たクロノスが、ふむ、とうなって顎に指をかけた。
「それは比喩表現か何かか? それとも固有名詞?」
「んー、多分、後者だな。団体の名前っぽかった」
少年がカップを揺らしながら答えると、男は「失礼」と言って、鞄をテーブルの上に乗せた。重そうな鞄の中から分厚い紙束を取り出し、残像ができそうな速度でめくっていく。
メルクリオとルーナは、興味津々でその様子をながめていた。やがて、紙の動きがぴたりと止まる。紙面を指でなぞったクロノスは、平然と顔を上げた。
「こちらのことだろうか? 大図書館とも関係がありそうだが」
「お、何だ何だ」
『何を見つけたんです?』
身を乗り出したメルクリオのかたわらで、ルーナが羽を張って全身を輝かせる。
クロノスは、食い気味なふたりに紙束を渡してきた。メルクリオは、目に飛び込んできた名を口に出す。
「『宵の星妖精研究会』?」
「ああ。名前の通り妖精――魔族を研究している団体のようだ。一方で、人々に書物を広めるといった活動もしている」
「初めて聞いた……いや、何回か奥付で名前を見た……ような……?」
メルクリオは低くうなりながらこめかみを押さえる。そうしたところで記憶にかかった靄が晴れることはなかったが、ひとつ指針は見えた。
「まあ、少し調べてみるよ。ありがとう」
「役に立てたのならよかった。俺も何か手伝おうか?」
クロノスの申し出に、しかしメルクリオは手を振る。
「いや、いいよ。あくまで『趣味』だし」
「……そうか」
監査員はわずかに眉を寄せたが、次の瞬間にはいつもの無表情に戻る。淡々と書類をしまうと、自身の前のカップに手を伸ばした。
「宵の星……妖精研究会?」
エステルは、机に本の山を置くなり首をかしげた。隣で別の山の選別をしていたメルクリオは、淡白にうなずく。
「そういう団体があるらしい。魔族にまつわる本の出版や監修もしてるみたいだ。調べた限りだと、ほとんどが一般向けの本だな」
「ふうん」
少女は金色の眉を寄せて椅子をひいた。すぐ前に話題の団体の本が置いてあることに気づいて、軽く目をみはる。
「なんか名前からして怪しいねー」
「意外と辛辣……」
番人と精霊は揃って呟く。一方のエステルは、聞こえなかったらしく、手元の本を軽くめくっていた。
「あ、でも本の内容はちゃんとしてる……。ほんとに気をつけなきゃいけないところなのかなあ」
「まだ断定はできないな。そもそも情報が少ないし」
「だよね」
エステルがため息をつく。鬱屈としている少女をわき見したメルクリオは、軽く手を振って彼女の名を呼んだ。
「エステル。あとは俺がやっとくから、好きなことしといてくれ」
「ほんと?」
目を瞬いたエステルは、弾むように立ち上がる。
「じゃあ、暗号探ししてるね!」
「おー」
ゆるい返事をした番人は、走り去る助手を見送ってから手元に視線を落とした。
――その助手が勢いよく戻ってきたのは、およそ三十分後のことだった。
「メルク、メルク! たいへん!」
異常のない本を戻しにいこうとしていたメルクリオは、立ち上がりかけた姿勢のまま声の方を見る。
「なんだなんだ。何した?」
「何もしてない! けど、メルク宛てっぽい文章見つけた!」
甲高い声を上げながら戻ってきたエステルは、古ぼけた薄い本を持っている。それがシリウスの研究書だと気づいたメルクリオは、眉を上げた。
「なんて書いてあった?」
「それが、読めないんだ」
メルクリオはルーナと顔を見合わせる。そうしている間にも、エステルは本を開いていた。伝言が書いてあったというページを指さす。
「これ、ここ」と急かすような言葉を聞いて、メルクリオは身を乗り出した。不自然に書いてある文章に目を通して、納得する。
「あー……サリティ語だな」
「何それ?」
「ようは外国語。ずっと南の方の国々で使われてる」
エステルが読めないのも当然だ。魔法で文章を隠すだけでなく、限られた人にしか読み解けない言葉を使うとは、相当な念の入れようである。
ため息をついたメルクリオは、しかしその文章に目を通す。あっさり解読したそれを、頭の中で整えた。そして――息をのむ。
『彼らは〈災厄の魔人〉を狙っている』
「〈災厄の魔人〉――」
言葉は、無意識のうちにこぼれ落ちた。それを拾ったらしいルーナが体を震わせる。
『なんですって?』
「え、何? どうしたの?」
彼女の悲鳴を聞いて、エステルが飛びあがった。
メルクリオは、ふたりの声で我に返って顔を上げる。
「メルク、大丈夫? 顔色悪いよ?」
碧い瞳がのぞきこんでくる。長い金髪のひとすじが、少年の頬をくすぐった。
メルクリオは、目もとを覆って深呼吸する。それから、心配そうなふたりを振り返った。
「シリウスを嵌めた奴らは……大図書館に収蔵されている、ある〈封印の書〉を狙っているらしい」
「えっ!? な、なんで?」
「わからない。――いや、いくつか思い浮かぶことはあるけど、確証はない」
メルクリオは呟く。問いに答えているというより、己に言い聞かせている状態だった。
うつむいたままでいた番人はしかし、顔を上げてはっとした。変わらずこちらを見ていた少女が、唇を引き結び、両手を握りしめている。にじみ出る不安をかき消すように、メルクリオは自分の頬を軽く叩いた。
「……とにかく。これはアストルム家だけの問題じゃない。いや、グリムアル大図書館がシリウスを巻き込んだ、といってもいい」
「そんな――」
「だから責任は取る。さしあたり、伝言にあった『宵の星』が本当に宵の星妖精研究会かどうかを探る」
エステルの悲鳴をさえぎって、メルクリオはぴしゃりと言う。そして、ぽかんと口を開けている助手を見つめた。
「エステルは今まで通り過ごしてくれ。きちんと学校に行って、できるときに大図書館の手伝いをして、好きなだけ父親の研究書を読めばいい」
「で、でも……それでいいの?」
「いい。いつも通りにしてくれるのが一番助かる」
メルクリオは口の端を持ち上げる。対するエステルは探るように目を細めていた。――が、彼の言葉は本心からのものだ。
シリウスが組織的な犯罪や陰謀に巻き込まれたとするならば、彼の妻子にも監視の目がついている可能性が高い。特に、『大図書館に入る』と息巻いてグリムアル魔法学校に飛び込んだエステルは、子供とはいえ警戒されているだろう。
であれば、下手に目立つ行動をとらない方がいい。――すでに遅いかもしれないが。
メルクリオが目を逸らさないでいると、やがてエステルはうなずいた。
「……わかった」
完全に納得したわけではなさそうだが、碧眼に灯る光は強く、揺るぎない。メルクリオは安堵して「ありがとう」と返した。
「あっ。じゃあとりあえず、この本返してくる」
「ああ。いってらっしゃい」
父親の研究書を掲げた少女に、番人はひらりと手を振った。遠ざかる足音を聞きながら、メルクリオは深く息を吐いた。
〈災厄の魔人〉。その一語が、頭の中を繰り返し巡る。
「……まいったな」
メルクリオはぽつりと呟く。月光のアエラがわずかに揺らいだ。その持ち主は、聞こえているだろうに、何も言わない。
その沈黙に甘えて、彼は目を閉ざす。
伝言は確かに見た。インクで書かれた、シリウスの字だった。
まごうことなき現実だ。
けれど――夢であってほしかった。




