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28 君を知る第一歩

 大人びた女子生徒と教師の姿を見て、メルクリオは安堵の息を吐いた。残る六人も顔をほころばせる。

「ユラナス!」

「ユラーっ!」

 メルクリオとヴィーナ以外が、彼女にわっと駆け寄った。

 一方、連れられてきたアストリア・カマリは、音もなく狼の前に立つ。いつもと違って静かにほほ笑んだ彼女は、帽子を取って眼前の獣に一礼した。

「『気高き森のたみよ。大地に生き、森羅万象をまぼりたまいし者よ』」

 普段は溌溂としている声が、荘厳な呪文を紡ぐ。それを聞いた生徒たちが、教師の背中に釘付けになった。

「『我ら、この地を踏み散らす者にあらず。万物の御霊に添い居り奉る者なり。汝ら損ない奉らねば、いかでか御覧じ許せ』」

 風もないのに、森が揺らいだ。

 木々の一本一本が、葉の一枚一枚が、語りかけるように、訴えかけるようにさわさわと音を立てている。

 目を細めたカマリは、ローブに覆われた両腕を流れるように差し出した。

「『乱れたまいたる御心みこころ、鎮まりたまえ、鎮まりたまえ――』」

 呪文の最後の一節は、吐息とともに消えてゆく。黙して佇む狼は、冷たい空気に溶けたそれをじっと見つめているようだった。

 気が遠くなるような、無音の時間。その果てに、狼が鼻を鳴らした。これまでのような荒々しい音ではなく、やわらかくて穏やかだった。

 佇むカマリと子供たちに一瞥をくれると、狼は黙って反転した。そのままのそのそと歩いて、木々のむこうへと消えていく。

 その影を見送り、完全に見えなくなったところで、カマリが帽子をかぶり直した。相棒の鳥を腕にとまらせ、生徒たちを振り返る。

「みんな、遅くなってごめんねー! 怪我はないかな?」

 明るく問いかけてくる姿は、いつも通りのカマリ先生だ。

 それを見たからか、生徒たちの顔から緊張が抜ける。一人ひとりが順番に手を挙げて「大丈夫です」と答えた。

 カマリは、大きくうなずく。

「それならよかった! もし具合が悪くなったら、すぐ医務室に行ってね」

 はーい、と双子とエステルが笑って答えた。

 一方、ユラナスは神妙な顔で教師を見上げる。

「にしても……あの狼は、一体なんだったんでしょう」

「彼はねえ、〈かくれの森〉にずっと住んでる狼だよ。群れのおさでもあるみたい。アエラを取り込みすぎた動物は興奮しやすいんだけど、彼は慎重で大人しいの」

「……とてもそうは見えませんでしたけど……」

 少女が目をすがめると、カマリも口を尖らせる。

「そうねえ。なんでだろ」

 顎に人差し指を当て、視線をわずかに上向けた。

「もしかしたら……外から魔族が入り込んだのかもね」

「魔族?」

 生徒たちの声が揃う。そこから不安の色を読み取ったのか、教師は笑って手を振った。

「俗に『妖精』って呼ばれるような、力の弱い魔族ね。ほら、彼らって悪戯好きな子が多いでしょ? 狼たちにちょっかいかけて、怒らせちゃったのかも」

 生徒たちは顔を見合わせる。

 ひとり輪の外にいたメルクリオは、それを聞いて『大きな黒山羊』の一語を思い浮かべた。しかし、黙ってかぶりを振る。

 直接実物を見ていない自分が、この場で山羊の話を出すのは不自然だ。あとでこっそり報告しておこう、と心に決めた。

「狼のことは、先生から学校に伝えておくね!」

 〈鍵の教室〉の生徒たち――メルクリオ含む――は素直にうなずく。

 カマリはチェロを飛び立たせ、軽やかに手を叩いた。

「それじゃ、今日の野外実習はここまで! みんなで学校に戻りましょー!」


 教師の号令を聞いた生徒たちは、落ち着いて動き出した。

 点呼して、整列。その先頭にカマリが立ち、〈かくれの森〉の入口を目指して歩き出す。狼と対峙した面々が足を速める魔法の反動で疲れ切っているため、その歩みはとても遅かった。

「お腹すいたー。今日のお昼、何があるかなあ」

「肉食べたいなあ。肉ー」

「そうだね。お昼までには校舎に辿り着こう。お肉ものはすぐなくなるから」

 のんびりとした会話が聞こえてくる。

 メルクリオは、列の一番後ろを黙々と歩いていた。生徒たちから少し距離を取り、森の様子に気を配りながら足を進める。

 すぐにわかるような魔族の気配はない。アエラの動きも正常だ。ここまで何もないと、少年たちが見た山羊はただの大きな山羊だったのではないか、という思いも湧いてくる。

「……ま、俺が考え込んでもしかたないか」

 メルクリオは、この森の生態系すべてを把握しているわけではない。そのあたりの調査は森に詳しい教師たちに任せるべきだろう。

 ――ふいに、人の気配が近づいてくる。

 メルクリオが隣を振り返ると、いつの間にか赤毛の少年がそこにいた。整列したとき、彼は真ん中あたりにいたはずだ。わざと歩みを遅くして、列から外れたらしい。

 メルクリオはどきりとした。

「なあ、メルクリオ」

 彼の名を呼んだマルセルは、わずかに目を伏せる。

「その。さっきは、ありがとな」

「……へ?」

 思いがけない言葉に、メルクリオは素っ頓狂な声を上げてしまう。マルセルは、赤毛をかいて唇を尖らせた。

「俺が狼に吹っ飛ばされたとき、魔法で受け止めてくれただろ」

「気づいてたのか」

 少年は目を丸くする。マルセルは「当たり前だろ」と胸を張った。

「俺だって魔法使いだからな。詠唱が聞こえなくたって、それくらいわかるっつーの」

 聞こえなかったのではなく、詠唱しなかったのだが。

 律儀に説明するわけにもいかない。メルクリオは曖昧な相槌を打った。

 マルセルはすぐにメルクリオから視線を逸らし、もごもごと口を動かす。

「それに、魔法のヒントもくれたしな……」

「ヒント? なんのことだ?」

「な、なんでもねえ! こっちの話!」

 メルクリオが聞き返すと、マルセルは顔を赤くして叫んだ。小さく鼻を鳴らした彼は、つかの間、足を止める。

「それと……わ、悪かったよ。しつこく誘ってさ」

 メルクリオも、思わず立ち止まりかけた。前で弾けた笑い声で我に返り、足を前へ出す。

「それは――」

「山羊を見にいこう、って言ったときのことだよ」

「あ、いや、うん。わかってる」

 なぜかしどろもどろになってしまう。額を押さえて深呼吸したメルクリオは、ばつが悪そうに黙っているマルセルを見据えた。

「俺も……ごめん。いきなり怒鳴って、乱暴なことして」

 頭の隅でずっと考えていた謝罪は、いざ口に出してみると無味乾燥に思える。もっと言いようがあるのではないかと、メルクリオは灰青の瞳を曇らせた。

 一方のマルセルは静かに首を振る。

「大きな動物、ほんとに苦手なんだな」

「ああいや、苦手なのは大きな動物じゃなくて」

 メルクリオは慌てて両手を振った。何やら誤解されているらしい。

 マルセルは、不思議そうに頭を傾けた。

「……じゃなくて?」

「あ、えと」

 反問はどこまでもまっすぐだ。どうしたものかとうろたえたメルクリオは、うつむいて言葉を探す。自然とローブの袖を握りしめていた。

「……腕、強く引っ張られるのが……だめ、で」

 声が震えた。顔を上げられない。

 返ってきたのは沈黙だった。

 メルクリオは、うつむいたまま必死に言葉を繋ぐ。

「腕だけじゃなくて、肩をつかまれたり、引っ張られたりするのも、すごく怖いんだ。だから、あのとき取り乱しちゃって」

 また、声が聞こえる。

 たすけてと叫ぶ声が。

 それを追い払いたくて、メルクリオは必死に目をつぶった。

「ごめん……ほんとに」

 か細い謝罪を絞り出し、その場でただ、声を待った。自分がまた立ち止まってしまったことにも気づかずに。

 葉擦れの音が耳元をそっと撫ぜる。少しして、さくり、とかすかな足音が響いた。

「そっ、か」

 少し気まずそうな一言を聞き、メルクリオはそろりと顔を上げる。

 いつの間にか、マルセルの顔がすぐそばにあった。彼は太い眉を下げ、頬をいくらか動かしたのち、少し口角を上げる。

「ごめんな。気づかなくて」

「いや……俺が黙ってたんだし……」

 メルクリオは力なくかぶりを振る。すると、彼のものより大きな手が、震える背中を何度かさすった。そこで初めて、彼は自分が震えていたことを自覚した。

「これからは気をつける。……俺、すぐにああいうことやっちまうからなあ。ほんと注意しねーと」

 頬をかいて呟いた少年に、メルクリオは小さくうなずいた。「ありがとう」とささやいて、ローブからそっと指を離す。

 彼から少し離れたマルセルが、ふと両目をしばたたいた。瞳には、疑問の色が浮かんでいる。

「そういや、タウリーズ先生とかって、よく肩叩いてくるだろ。あれは大丈夫なのか?」

「先生たちには話してあるんだ。できるだけ声をかけてもらうようにしてる。あとは、触る前にこう、手を見せてもらったり」

 メルクリオは、時折つっかえながらもそう答えて、顔の前で右手をぱっと広げた。マルセルが拳で手のひらを軽く打つ。

「ああ! 先に『触るぞ』って宣言しとくのか!」

「そうそう。そしたらこっちも構えられるし、相手が誰かもわかるからな」

「なるほどなあ」

 しきりにうなずく少年は楽しそうだ。メルクリオはそっと胸をなでおろした。

 そんなとき、前方からさっぱりとした少女の声が響く。

「二人ともー! 置いてっちゃうよー!」

 気づけば、列はかなり前まで進んでしまっていた。メルクリオとマルセルは、焦った顔を見合わせる。

「歩けるか?」

「……うん」

「んじゃ、行くか」

 マルセルが、ためらいがちに手を差し出してきた。メルクリオは、大丈夫、の意味を込めてうなずき、それに応える。

 小走りで列に追いつくと、二人を呼んだユラナスが悪戯っぽく目を細めた。

「君たちが遅れるなんて珍しいね。仲直りの儀式でもしてたの?」

 からかうように訊かれた二人は、ぎょっと顔をこわばらせた。

「ちょ……ユラナスさん」

「おま、あんまでかい声で言うなよ!」

「――おやおや? あなたたち、けんかしてたの?」

 ユラナスの声を聞きつけたカマリが、振り返って帽子のつばをつまむ。こちらを見定めるような教師の笑みに、メルクリオはたじろいだ。言葉に詰まった彼に代わり、マルセルが前へ出る。

「し、心配ご無用っす! ほら、もう解決したんで!」

 大声の主張は小径じゅうに響いた。メルクリオはそれに便乗して、何度もうなずく。同級生たちからは疑わしげな目を向けられたが、カマリは大笑いして手を叩いた。

「どうやらそのようね! よきかなよきかなー!」

 底抜けに明るく言ったカマリは、前を向きなおして軽やかに進んでいく。少年たちは、揃って安堵の吐息をこぼした。それからふと互いを見て、小さく吹き出す。

 理由もわからず笑いあう時間。メルクリオには、それがなんだか心地よかった。

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