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27 森の猛者

「『地を蹴る足には力がみなぎる。それは羽根のごとく軽くなる』!」

 メルクリオたちの耳に早口の呪文詠唱が飛び込んできたのは、数分ほど走ったときだった。同時、凄まじい勢いで迫るアエラを察知した二人は、とっさに茂みの中へ身を隠す。そうっと顔をのぞかせて、思わず悲鳴をこぼした。

 同級生が一斉に走ってくる。そして、その後ろから狼が迫っていた。

 何をそんなに怒っているのか、狼は時折低くうなる。逃げる子供たちはみな必死の形相だ。明らかに脚力で劣る彼らが追いつかれていないのは、先ほどから発動している魔法で加速しているからだろう。

「『土よ、堅固な壁となれ!』」

 メルクリオは考える前に叫ぶ。狼の前の地面が低い音を立てて盛り上がった。それはたちまち一枚の高い壁を作り出す。メルクリオとユラナスが茂みから飛び出すと、同級生たちも足を止めた。

「メルク!」

「ユラあぁぁ、助かったああぁ!」

 エステルとポルックスが涙目で駆け寄ってきた。苦笑している少女のかたわらで、メルクリオはなんとなく頭をかく。ちらと視線を動かすと、荒く呼吸をしている少年と目が合った。彼は口を開きかけたが、状況を思い出したのか、すぐに顔を背けてしまう。

 メルクリオは小さくため息をついた。

 一方、ユラナスは腕を組んで土の壁を見上げる。

「なんで狼に追っかけられてるのさ」

「それがわかんないんだよ! あの後、ヴィーとティエラが来たと思ったら、マルセルの後ろからあいつが出てきてさあ!」

 ポルックスが涙声でまくし立てる。名前を出された少女が紫色の瞳を剣呑に細めた。

「わたしたちが狼を呼んだみたいな言い方、やめてよね」

「へ? あ、ごめん……そういうつもりじゃなくて……」

 ぜえぜえと息をしながら言い合った二人は、疲れた顔をユラナスに向ける。彼女は険しい表情で考え込んだのち、先ほど話に出たもう一人の少女を見やった。

 目配せに気づいたティエラは、自分たちが『変なアエラ』を追ってきたことを打ち明ける。それを聞いて、メルクリオとユラナスは無意識に顔を見合わせていた。

「変なアエラ、か」

「発生源はあの狼だろうな」

()()()()()()()もそう思う?」

 確認された少年は、黙してうなずく。「だよねえ」と呟いたユラナスが、再び壁を振り仰いだ。けたたましい衝突音が響いたのは、そのときである。

 カストルとポルックスが抱き合った。

「ひっ! き、来た!」

「こりゃ突破されるな。――走れ!」

 メルクリオは、小刻みに震える壁を見て、一瞬で状況を判断した。とっさに声を張り上げて反転する。

「こーら。非常時にふてくされない」

 響く足音に混じってエステルの声がする。誰に向けられたものかは確かめるまでもない。居心地の悪さを覚えつつも、メルクリオは振り返らなかった。

「先生は気づいてるだろうか」

 隣に並んだユラナスが、顔色一つ変えずに呟く。メルクリオは彼女を一瞥して答えた。

「おかしな狼がいることには気づいてると思う」

「それにあたしらが追いかけられてるとは、まあ思わないよね」

 苦笑まじりの返答にかぶさるようにして、轟音が響いた。狼が壁を突破したらしい。舌打ちしたメルクリオは、急停止して身をひねる。

「しかたない。先生を呼んでくるか」

「いや、メルクリオさんはここに残って。その方が生存率は上がると思う」

 ユラナスが声を張って切り返す。メルクリオだけでなく、残る六人もぎょっと顔をこわばらせた。茶髪の少女は全員を冷静に見渡して宣言する。

「あたしがカマリ先生を呼んでくる。だから、それまでなんとか持ちこたえて」

 メルクリオを除く六人の相貌に不安の影が差す。しかし、ユラナスは静かに言い切った。

「大丈夫。みんなならできる」

 同級生たちは、唇を引き結んで互いを見た。

 ――その瞬間、彼らの中でどんな思いが渦巻いたのか、メルクリオは知らない。

 彼はただ、ため息をひとつついて、身構えた。

「それなら、ちょっとは隙を作らないとな。――『風よ』!」

 彼が大喝すると、背後から突風が吹きつけた。それは子供たちの頭上をすり抜けて狼の方へと流れていく。

 その場の誰もが唖然としたが、ユラナスはすぐに口の端を持ち上げた。

「助かるよ、っと!」

 すぐさま反転した彼女は、短い単語を連ねたような呪文を唱えて跳躍した。すると、その体は高く高く舞い上がって、視界から消える。

「い、今のって、飛行魔法か!?」

「ううん。多分、浮遊魔法を何度もかけてるんだよ。器用だなあ」

 素っ頓狂な声を上げたマルセルの隣で、エステルが何度もうなずく。いつの間にやら浮遊魔法と飛行魔法の見分けがつくようになってしまったらしい。

 メルクリオが苦笑していると、乾いた音がその場に響いた。両手を叩いた双子が、青ざめた顔に笑みを浮かべる。

「さてさて、こっからは持久戦だな」

「持久戦だ! がんばろー!」

 双子が空元気を見せた直後、黒い影が迫ってくる。やや遅れて、吠え声が響いた。応じるように詠唱を始めたのは、最後尾にいたエステルである。

「『森の木々は枝を伸ばす。そのかいなは絡み合い、猛る獣を留めんとする』」

 空気を打ち据えた呪文詠唱は、道沿いの木々に行き渡った。枝が自然ではありえない方向に伸びはじめ、背後の道をふさいでいく。

 それを見るなり、ヴィーナが「走って!」と叫ぶ。みんなが動き出すと、早口で詠唱を始めた。メルクリオとユラナスが最初に聞いた呪文だ。メルクリオはひとつうなずいて、気づかれぬように指を躍らせる。刻まれた古代文字が輝いて、ぱっと散った。ヴィーナの魔法を邪魔しない範囲で、同系統のものを重ねがけしたのだ。

「この魔法、速く走れるのはいいけど、あとでめっちゃ疲れるんだよね」

「狼に食べられるよりいいでしょ!」

「仰る通りで! 感謝しますわヴィーナ様!」

 ぼやいたカストルにヴィーナが噛みつく。メルクリオはやり取りを聞き流していたが、声が途切れるとヴィーナの方を見た。

 繰り返し呪文を呟く彼女の横顔は、ひどく切羽詰まっているように見える。この状況下では当然のことだろうが、窮地ゆえの焦りだけではない何かがにじんでいる気がした。

「……ねえ、メルク!」

 すぐ隣で響いた声に思考を引き戻される。メルクリオは、はっとしてその方を振り返った。いつの間にか、エステルが並走していた。

「あれってもしかして、魔族?」

 彼女は後ろを指さして、不安げに問う。メルクリオはかぶりを振った。

「いや。あれはただのアエラを取り込みすぎた狼」

「それはただの狼じゃなくない!?」

「魔族ってのは、精霊が変質した種族だろ。アエラの感じからして、あいつは違う。普通に親の腹から生まれた野獣だ」

 メルクリオは、あくまで淡々と事実を述べた。しかし、エステルは納得できないというふうに眉を下げる。

 いつもなら議論か講義に発展するところだが、今回はそうならなかった。二人ともが、はっと顔をこわばらせたからだ。

 再びアエラの異様な動きを感じた。――そして、もうひとつ。

「――ヴィー!?」

 双子が悲鳴を上げている。振り返れば、ふらついたヴィーナを彼らが両脇から支えていた。ほかの面子と比べて明らかに疲弊している。魔法の使い過ぎだ。

 しかし、ヴィーナは双子の腕を押しのけて頭を持ち上げる。

「いいから……魔法、持たせないと……」

「だめだめ、ちょっと休め!」

「そうだよ! なに無茶してんの!」

 すぐさま立ち上がろうとするヴィーナを、カストルたちが慌てて制止している。その様子を見たメルクリオは、思わず自分の頭を小突いた。

「何やってんだ、俺は」

 毒づいた彼の隣で、アエラが揺れる。

『私も気づけませんでしたよ。狼とそのまわりのアエラに気を取られすぎましたね』

 ささやく声はやや沈んでいる。けれど、それのおかげで少し冷静になれた。細く息を吐きだしたメルクリオは、正面をにらむ。

 アエラが濃い。

 狼の咆哮がすぐそばで響き、空気が震えた。

「追いつかれ――」

 ティエラの悲鳴を聞いて、少年少女は震えあがる。

 メルクリオは再び反転し、彼らをかばうように進み出た。

「しかたない、迎え撃つ」

「わ、私も!」

 すぐさまエステルが駆け寄ってきた。マルセルも「しかたねえな」と吐き捨てて、足もとに落ちていた木の枝をひっつかんだ。

 ――狼は、そんな彼らを睥睨していた。

 おそらく、一般的な個体の三倍はあるであろう巨体。そこにまとわりつくアエラはねっとりと濃く、〈かくれの森〉のそれとは思えない。体同様に大きな目はぎらついていて、吐息のぬるさがメルクリオたちに伝わるほど息遣いが荒かった。

「手加減できそうにないな、これは」

『ですね』

 メルクリオの独白にルーナが応じた瞬間、狼が足をたわめた。少年も口を開く。

「『風よ、衝け』!」

 再び、強い風が狼めがけて吹き抜ける。

 彼は顔の前で勢いよく両手を合わせ、詠唱を繋いだ。

「『生命の源泉よ、万物の苗床よ』」

 足もとの土がいくつかの塊となって浮き上がり、徐々に湿り気を帯びる。

「『混ざり合え』、『泥の弾丸前へ飛び、狙い撃つは荒ぶる獣』!」

 流れるような詠唱の直後、泥と化した塊が狼めがけて射出される。それらは巨体を勢いよく叩き、怒り狂っていた狼をわずかにひるませた。

「すげ……」

 双子が唖然として呟く。しかし、それに応える人はいなかった。

 狼が、背を丸めて低くうなる。気おされはしたものの、こちらへの敵意は緩んでいないらしい。

 マルセルが舌打ちして木の棒を構えた。

「くそ、俺だって――」

「待って!」

 踏み出そうとした彼を、エステルが鋭く制する。反論が飛び出す前に、彼女は大きく息を吸った。

「『黒き雲よ、集いてここに雨をもたらせ』」

 凛とした詠唱が天を衝く。狼が、耳をぴんと立てて上を見た。間もなく空が暗くなり、どこからか湧いた灰色の雲が視界も霞むほどの雨を降らせた。しかも、彼らのまわりにだけ。

 ずぶ濡れになったポルックスが、ヴィーナに覆いかぶさりながら叫ぶ。

「わー! エステル、やりすぎだ!」

「これでいいの! マルセル、行って!」

「おっ――おう!」

 名を呼ばれた少年が、背中を押されたように飛び出す。木の枝を低く構えた彼は、素早く狼との距離を詰めると、枝にアエラをまとわせる。狼の右前足に狙いを定め、それを鋭く突き出した。

 狼と枝の間で赤い火花が散る。しかし、火花として表出したアエラはすぐに霧散し、耳障りな破裂音が響く。

 細かい樹皮が舞い散る中、狼がいらだたしげに左の前足を振り上げた。次の瞬間、泥が噴水のごとくしぶきを上げ、少年の体が吹っ飛ぶ。

 いくつもの悲鳴が重なった。メルクリオはとっさに呪文を刻み、マルセルめがけて弾く。その体が地面に叩きつけられる直前、白金色の円板が現れて彼を優しく受け止めた。

「いっ……てえ……」

「マルセル、大丈夫!?」

 エステルが飛びつかんばかりの勢いでマルセルのもとへ駆け寄る。彼は、右手を振って笑った。その手のひらは皮が剥けて真っ赤になっている。

「へーきだ。右手以外は」

 エステルは目をみはり、「わ、大変」と悲鳴を上げた。けれど、すぐに両手で口もとを押さえて固まる。生温かい吐息に気づいたのだ。

「二人とも、下がれ!」

 メルクリオは、叫びながら右手を構える。再び虚空に呪文を刻もうとしたが――


「『我が根源たる力よ、七彩の壁を築きたまいて、我らを守りたまえ』」


 ――その直前に、清らかな詠唱が響いた。

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