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26 怒りと傷と

 そよ風が木々をざわざわと揺らし、少年たちのローブをはためかせる。沈黙の中で、木の葉が踊って地に落ちた。

 メルクリオは、先ほどまでつかまれていた腕を見る。それから、ゆっくりと顔を上げた。

 何が起きたのか――何をしたのかを、ようやく自覚する。情報とともに、冷たいものがひたひたと頭の中を満たした。

 全身がこわばる。何か言わなければと、震える唇をひらく。けれど、彼が言葉を発する前に、マルセルがまなじりをつり上げた。

「……っんだよ。そんなに怒らなくたっていいだろ」

 拳を握って吐き捨てた少年は、わざと音を立てて身をひるがえした。鳶色の瞳が、メルクリオをにらみつける。

「もう知らねえ。おまえなんか二度と誘わねえよ!」

 憤然と叫んだマルセルは、大股で来た道を戻っていった。かすかにこぼれた声は、もう彼には届かない。

 メルクリオは、どうすることもできずに同級生を見送った。その姿が完全に見えなくなると、両手で頭を抱えてうつむく。静かだった呼吸の音が徐々に激しくなり、低いうめき声が漏れた。

 冷たい汗が全身ににじんで、顔がゆがむ。

『メルク』

「……る、さい……」

『メルク、大丈夫ですから。ちゃんと息をして』

「うるさい!」

 すぐそばで響く非現実的な声が、ひどく耳障りだった。あの日を想起させる音を振り払おうと、少年は引きつった声で叫ぶ。

 けれど、声はやまない。

『メルクリオ。あなたはもう、大図書館の番人です』

 淡い光がまなうらに差し込んで、夜の火のような温かさが全身を満たした。

 メルクリオは、灰青の瞳を見開いた。ひどく熱かった頭が冷めて、一拍ごとに呼吸が穏やかになってゆく。

 歯を食いしばる。隙間からまた、獣みたいな声がこぼれる。

 額から流れて頬を伝った汗が、ぽたり、と落ちて足もとを黒く染めた。

「……ごめん」

『……大丈夫ですよ』

 耳元でささやく声は、変わらず優しい。けれど、メルクリオはその場にくずおれた。

 うずくまり、情動のままに声を絞り出す。

 形にならない言葉が、色づいた木立の中に吸い込まれていった。



     ※



 茂みをかき分け木立の奥を覗いていた双子は、荒々しい足音を聞いて振り返った。鼻息荒く歩いてきたマルセルに手を振る。

「あ、マルセルー!」

 彼らが揃った声で呼びかけると、マルセルは顔を上げた。

「山羊は?」

「どっか行った」

 いつもよりやや低い問いかけに、少年たちはきれいな二重奏を返す。それを聞いたマルセルは、舌打ちして地面を蹴った。

「くそっ。やっぱり逃げられた!」

「なにカリカリしてんのさ」

 さすがに、カストルがじっとりと目を細めた。その隣でポルックスが身を乗り出す。

「あれ、メルくんは?」

 そう問われた瞬間、マルセルは双子の弟をにらんだ。それからすぐに顔を背ける。

「知らねえよ。あんな奴」

 カストルとポルックスは、琥珀色の目をしばたたいた。数秒顔を見合わせたのち、わかりやすい同級生に向き直る。

「ははーん。さては」

「けんかしちゃったな?」

 そっくりな二人に迫られたマルセルは、顔をしかめて後ずさる。

「け、けんかなんて……」

「ごまかしたって無駄だよ」

「無駄だよー。さっきまで『あいつも呼んでくる』って張り切ってたのにねー」

 目を細めた双子は、それから流れるようにマルセルと距離を取る。彼は怒ることなく、けれど相手の言葉を認めることもせず、もぞもぞと口を動かした。

「けんかじゃねえよ。あいつがいきなりキレてきて」

 彼の言い分をゆっくり聞くつもりでいた双子は、しかしその言葉に目を丸くする。

「キレた?」

「メルくんが?」

 マルセルは小刻みにうなずいた。その対面で、双子がまた顔を見合わせる。

「えー? ちょっと意外」

「でもさ、普段静かな人ほど怒ると怖いって言うよね」

 ささやきあった双子はしかし、そこでぴたりと口を閉じる。少しずつ近づいてきた足音に耳を澄ませ、音の方を振り返った。

「誰が怒ると怖いの?」

 さっぱりとした少女の声が、重い空気を一刀両断する。

 少年たちが見ていたのと反対側の木立から、ユラナスとエステルが顔を出した。

「なんだか気になる話が聞こえたんだけど」

「あ、ユラとエステル」

「意外な組み合わせ」

 頭の葉っぱを払った少女たちは、お互いを見て首をかしげる。「そうかな?」と碧眼を瞬かせたエステルに、ユラナスがほほ笑んだ。彼女は先んじて少年たちに歩み寄る。

「たまたま近くで観察してたんだよ。君たちもでしょ」

「うん。おれたちは――」

「でっかい山羊を見つけたんだ。逃げられちゃったけど」

 ユラナスが、へえ、と呟き、エステルは身を乗り出した。

「この森、山羊なんているんだ」

 楽しそうに頬を染めるエステルの隣で、ユラナスが顎に指をかける。

「山羊もすごく気になるけど……。その話がどう『怒ると怖い』に繋がるかも気になるな」

「あー。それはね……」

 引きつった笑みを浮かべた双子は、少女たちにこれまでのことを説明した。マルセルの言い分まで聞いたところで、エステルが「あちゃあ」と額を押さえる。一方のユラナスは淡白だった。

「確かに意外だ。あんまりそういうことはしない子だと思ってた」

「そうでもないよ。私、結構怒られたことある」

 エステルの証言に、全員が目を丸くした。視線を一身に浴びた少女は、作り笑いを浮かべて頭をかく。

「あ、でもね。大体私が悪いんだ。やりすぎちゃったり、無茶しちゃったり」

 双子とユラナスが納得した様子でうなずく。一時期、二人が毎日のように言い合いをしていたことを思い出したのだ。

 そして、彼らの視線はそのままマルセルに移る。見られた本人は当然、不快そうに眉を寄せた。

「な、なんだよ」

「いや。マルセルは何しちゃったのかなーって」

「なんもしてねえよ! 山羊を追っかけようって誘っただけ!」

「……それ、シュエットさんは行くって言ったの?」

 堂々巡りのやり取り。そこに、ユラナスが割り込んできた。赤毛の少年の顔がわずかにこわばる。目を泳がせた彼は、胸の前で手を組んで、ごそごそと動かした。

「……いや。あんまり乗り気じゃなくて……」

 かたい沈黙が落ちる。

 エステルが頬をかき、ウィンクルムの双子はかぶりを振って両手を挙げた。ユラナスは「なるほどね」と呟いて、遠くを見る。

「シュエットさんと会ったの、どこ?」

 唐突な問いかけに、マルセルがつかの間固まる。しかし、静かな黒茶の瞳に見つめられると、慌てて来た道を指さした。

「こ、この奥だよ。赤いちっちゃい花がたくさん咲いてるとこ」

「わかった。ありがとう」

 うなずいたユラナスは、マルセルが指さした方角に足を向ける。エステルが慌ててその背中に呼びかけた。

「ユラナス、どこ行くの?」

「シュエットさんの様子を見てくる。怒って冷静じゃなくなってる人を森で一人にするのは危険でしょ」

 踏み出したユラナスは「観察、続けてて」と言い残して、そのまま奥へ歩いていく。

 四人は、去りゆく背中を呆然と見ていた。

 少ししてポルックスが「ユラは大人だねえ」と呟く。その声で我に返った面々は、気まずい顔を見合わせた。

「で、おれたちはどうしようか」

「と、とりあえず。このあたりで観察を続けない?」

 わたわたと提案したエステルに、双子が「さんせーい」と返す。マルセルも、むっつりとしたままうなずいた。

 しばらくの間、ほとんど無言で観察を続ける。目的の動植物はいくらでも見つかったが、四人の間には息が詰まるような空気が漂っていた。

 沈黙に耐えかねたエステルが口を開きかけたとき、二人分の足音が響く。ユラナスの帰還に期待して、少女と双子が顔を上げた。しかし、やってきたのは別の同級生たちである。

「なんだ、あなたたちか」

「みなさんお揃いだったんですね」

 ユラナスと反対の方向から歩いてきた少女たちが、意外そうな顔をする。エステルたちも、驚いて立ち上がった。

「ティエラにヴィーじゃん」

「二人も一緒に観察中?」

 手を振るカストルを一瞥して、エステルが問いかける。予想に反して、二人はかぶりを振った。

「いえ。私たちは別々の場所で観察をしていたんですけど……」

「こっちの方から変なアエラを感じたから、様子を見にきたのよ」

 控え目なティエラに続いて、ヴィーナが尖った声で言う。それを聞いた四人は、思わず首をかしげあった。

「変なアエラ……って、なんだろう?」

「あ。さっきの山羊かな」

 む、とエステルが目を細めた直後に、カストルが手を叩く。ほかの三人が納得しかけたところで――どこかの茂みが大きく鳴った。

 後から来た少女たちが、一斉にマルセルの方を見る。そして、顔をこわばらせた。視線に気づいた少年は、草をかき分けていた手を止めて立ち上がる。

「なんだよ」

「う、うしろ――」

「だ、だめです。振り返らないで」

 震えるヴィーナを制止するように、ティエラが言葉をかぶせた。首をかしげたマルセルは、王女の忠告を聞かずに後ろを見る。

「え」

 そして、凍りついた。

 マルセルの真後ろの茂み。そのむこうには、巨大な狼がいて。うなりながら、ぎらついた目で子供たちをにらんでいた。



     ※



 メルクリオは、大木の下で膝を抱えて座っていた。

 丸まって、顔を膝の間にうずめる。何も見えず、木々のそよぐ音だけが聞こえるこの状態が、今は一番心地よかった。

『……落ち着きました?』

 うかがうように、ルーナが問うてくる。メルクリオはその姿勢のままうなずいた。

 ややあって、口を開く。

「あのさ」

『はい』

「……さっきは、当たってごめん」

 授業の最中であるから、ルーナは姿を隠したままだ。けれど、彼女が羽を震わせる様が、少年には容易に想像できた。

『気にしないでください。私が声をかけるのが逆効果だということは、よく知っていますから』

 メルクリオは答えない。答えようがない。

『ほかに誰もいなかったので、つい口を出してしまいました』

「別に、いい。しかたないだろ」

 言いながらも、さらに顔を押し付けた。

「嫌になるよ」

 くぐもった声は、自分の耳には大きく響く。

 それは刃となって、彼の胸を引っかいた。

「……何十年も前のことをずるずると引きずって、ついには他人ひとにぶつけてさ」

 ルーナは今度、何も言わなかった。

 風が吹く。息を吐きだす。のろのろと、顔を上げた。

 謝らないと。

 そんな思いがひらめいて、我知らず草の上に手をついた。しかし、立ち上がることはできない。体に力が入らない。

 いら立って、情けなくなって――その後で、ふと目を瞬いた。

「……何考えてるんだ」

 関係を修復する必要などないではないか。

 メルクリオが魔法学校の生徒をやっているのは、潜入調査のためだ。マルセルと決裂したところで、調査には何も影響しない。

 そして、調査が済めば彼は大図書館の番人に戻る。メルクリオ・シュエットという偽りの生徒の記憶は、子供たちの中から消えるだろう。メルクリオが記憶を消さずとも、ほかの誰かがやるはずだ。

 どうせ忘れられるならば、友達ごっこなどしない方がいい。

「入れ込みすぎるな」

 いつかの館長の忠告を繰り返し、メルクリオは静かに嗤う。

『……メルク』

 彼女の声に応えることなく、再び膝を抱えた。

 しばし、静寂の中に身を置く。そのうち、彼の耳はかすかな音を捉えたが、彼の頭はそれを認識しなかった。

 気づいたのは、すぐそばで呼びかけられたときだ。

「――シュエットさん?」

 息をのんで、顔を上げる。茶色い髪を肩口で切りそろえた女子生徒が、じっとのぞきこんできていた。

「ユラナスさん」

 恐る恐る呼ぶと、ユラナス・サダルメリクは口元に笑みを刻んだ。

「やっと気づいた。何回か呼んだんだけど」

 え、とこぼしたメルクリオは、それから灰青の瞳を見開く。

「ごめん。家名で呼ばれるの、慣れてなくて」

『シュエット』というのは、大図書館の番人であることを隠したいときに使う姓だ。だからか、その名で呼ばれるとすぐに反応できないことがあった。

 もちろん、ユラナスにそこまで打ち明けるわけにはいかない。だが、彼女はメルクリオの少ない言葉から何かを読み取ったらしい。小さくうなずいた後、口の端を持ち上げた。

「エステルと似たようなことを言うね」

「……あー。エステルも、家名まわりでは色々あったみたいだからな」

「ああ、なるほど。だからか」

 ユラナスは感心したように、拳で手のひらを叩いた。

 メルクリオは、少女たちの間でどのようなやり取りがあったかを知らない。ゆえに、頭を傾けてその様子をながめるしかなかった。

 ほどなくして、少女の視線がメルクリオの前に戻る。

「にしても、安心したよ。思ったより落ち着いてて」

「どういうことだ?」

「マルセルと喧嘩した、って聞いたから。一応、様子を見にきたんだ」

 メルクリオは、小さくうめいて顔をしかめた。気まずさをごまかすように、頭をかく。

「それは……世話をかけた」

「いいよいいよ、あたしが好きでやっただけだ」

 軽く手を振ったユラナスは、大木の幹にもたれかかる。

「何があったの? マルセルからは、山羊を追いかけないか誘った、ってところまでは聞いたんだけど」

「そっか」

 少し黙ったメルクリオは、心を固めてから息を吸う。

「俺は、あんまり見にいきたくなくてさ」

「うんうん」

 ユラナスの相槌は、ほどよく静かだ。

「そのことを伝えはしたんだけど、マルセルも引き下がらなくて」

「なるほど」

「それで、その……」

 言いよどんだメルクリオは、少し前につかまれた方の腕を握った。

「嫌なことを、されて。取り乱して、怒鳴っちゃったんだ」

「嫌なこと?」

 ユラナスが身じろぎした。ローブがこすれる、乾いた音が響く。

「その話は出てこなかったな」

 彼女の声が低くなったことに気づき、メルクリオは慌てて言葉を繋いだ。

「マルセルは気づいてないと思う。悪気はなかっただろうし」

「……ははあ。繊細な話だね、どうも」

 少女はおどけたように、あるいは困ったように返す。メルクリオも、いたたまれなくなってうつむいた。

 重苦しい空気を打ち払うように、ユラナスが声色を明るくする。

「取り乱すほど嫌なことなら、怒鳴ってしまってもしかたがないよ。あたしだって、ネズミを目の前にお出しされたら、泣きわめいて怒り狂う自信があるもの」

 思いがけない言葉に引かれ、メルクリオはユラナスを振り仰ぐ。

「ユラナスさんはネズミが苦手なのか」

「うん。だいっきらい」

 彼女はぐっと目を狭め、顎を突き出した。メルクリオはつい吹き出してしまう。ユラナスも、小さく笑った。

 それから、茶目っ気たっぷりに片目をつぶる。

「……謝りにいくのは、明日以降をおすすめするよ」

「え? いや――」

 戸惑ったメルクリオに向かって、ユラナスは人差し指を軽く振った。この実習の担当教師がよくやるように。

「マルセルは、まだぷんすか怒ってるからね。頭が冷えてからの方がいい」

 彼にだって非があるのだし、と言う声は妙に凪いでいた。十一、二歳の発言とは思えない。メルクリオは苦笑してうなずいた。

 ユラナスは満足したようだ。うん、と呟いて上体を起こす。

「さてと。それじゃあとりあえず、エステルと双子ちゃん(ジェメリ)のところに戻るか。メルクリオさんはどうする?」

「……俺も行くよ。エステルが心配して突撃してくるかもしれないし」

 冗談めかして言ったメルクリオは、ゆっくりと立ち上がる。まだ足の感覚はおぼつかなかったが、なんとかよろけずに済んだ。

 ユラナスが手を差し出してくる。メルクリオは手を取ろうとして――途中で、止めた。

「……ん?」

 ユラナスも眉をひそめて、空を仰ぐ。

 アエラが妙に騒がしかった。どこか一か所に集まろうとしているようにも思える。

「なんだろう、これ」

「わからない。けど――」

 メルクリオはかぶりを振る。それから、空をにらんだ。

「――嫌な予感がする」

 ユラナスも同意見らしい。険しい顔でうなずくと、メルクリオの手を取って駆け出した。

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