15 厄介な仕事
メルクリオはひとり、大きな扉の前に立つ。グリムアル魔法学校のあちこちで見かける、暗い茶色の分厚い扉。把手にぶら下がっているノッカーを引くと、鈍い音がした。ややして、くぐもった返答がある。メルクリオは慎重に扉を押し開けた。
出入り口の重厚さに反して内部は小ぢんまりしており、温かみがある。執務机と背の低い本棚、窓辺の小さな植木鉢に、部屋を淡く照らす陽光、そして――一人の男性教師がメルクリオを出迎えた。
「ようこそ、大図書館の番人殿。それにルーナ様も」
メルクリオがいる〈鍵の教室〉の担任にして、大図書館と魔法学校の連絡役。コルヌ・タウリーズは緑の双眸を悪戯っぽく光らせる。
肩をすくめたメルクリオのかたわらに月光の精霊が現れ、薄羽を細かく揺らした。
『様はよしてくださいよ。むずがゆい』
「魔法使いとして、精霊に敬意を払わないわけにはいかんでしょう」
くすぐったそうにからだを震わせるルーナに対し、コルヌはそんなことを言う。他方、メルクリオはじっとりと目を細めた。少し意地悪をしたくなる。
「大図書館の番人には、敬意を払わないのか」
声を低めてみたが、コルヌは大して動じない。肩をすくめて笑っただけだった。
「今は、番人以前に〈鍵の教室〉の生徒だからな。それに君、かしずかれるの嫌いだろ」
「よくご存じで」
メルクリオも、両手を挙げて苦笑した。茶番も一段落したところで、抱えていた紙束をコルヌの方へ突き出す。一枚目には昨日の日付と『報告書』の文字があった。
「はいこれ。今回の調査初の報告書だ」
「どうも。じっくり拝見するよ。楽しみだ」
「そう楽しいものじゃないよ」
学生と教師にしては堅すぎる、仕事にしてはやや軽いやり取りを経て、報告書はコルヌの手に渡る。彼はメルクリオに椅子をすすめたのち、執務机の前で報告書をめくった。ほどなくして、眉をひそめる。
「やっぱり、魔族の暴走が続いているのは気になるな。それと、君が感じた『知らない誰かのアエラ』というのも」
コルヌが指摘したのは、オグルと無名の魔族のこと。そして、後者の暴走のときに一瞬感じたアエラの気配のことだ。
メルクリオも顔をしかめ、口もとに指をかける。
「覚えのないアエラではあったけど、なんとなく知ってる気もするんだよな。どこかでうっすら感じたことがあるような……」
「君の古い知り合いでもいたのかね?」
「だとしたら幽霊だな」
軽口めいた問いかけに、メルクリオも冗談めかして返す。けれど、すぐに真剣な表情に戻った。
「……確かなのは、膨大なアエラの持ち主があの場にいたってことだ。これが幽霊でも精霊でもなかったら、よろしくない状況だな」
「それなりの魔法使いが〈封印の書〉に手を出した、ってことか」
コルヌがうなって、机を指で叩く。その音を聞きながら思考を巡らすメルクリオのかたわらで、ルーナが『そういえば』と声を上げる。
『最近は、魔法の暴発は起きてないんですか?』
「ええ。不自然な事故の報告は、今のところないですよ。新入生のかわいい間違いくらいで。――いつ何が起きるかは、わかりませんがね」
それはそれで不気味な話だ。大図書館の番人が出張ったとたん、魔法の暴発が魔族の暴走に置き換わったような。
コルヌもそれは感じているのだろう。答え、報告書をめくる彼の顔は険しかった。しかし、次の一枚に目を通したとき、その目もとがふっと緩む。
「『助手』とはうまくやれてるみたいだな」
「……まあ、それなりに」
からかうように言われたメルクリオは、思わずそっぽを向く。コルヌの妙に爽やかな笑声が響いた。
エステル・ノルフィネスを番人の助手とすることに、コルヌも当初は難色を示していた。しかし、ここ数日のエステルを見て問題なさそうと判断すると、一転して協力的になった。良くも悪くも彼らしい。
そのコルヌが、ふっとほほ笑む。何かをたくらむような表情に嫌な予感を覚えて、メルクリオは身じろぎした。
「人手が増えて、番人殿の仕事も少しは楽になったかね?」
「馬鹿言うな。そんなすぐに変わるものじゃ――」
反射的に言い返したメルクリオは、しかし途中で言葉を止めて、相手をにらみつけた。
「今度は何をさせる気だ?」
「鋭いなあ。……言っとくけど、俺が持ち込んだ仕事じゃないからな?」
コルヌは苦笑して立ち上がる。そして、手元の紙片を少年へ差し出した。
「本の復元の依頼が来た」
コルヌが端的に告げる。瞬間、メルクリオとルーナは、揃って「うわあ」とうめいた。
※
「あれ、メルクは?」
気持ちの良い挨拶とともに教室へ入ったエステルは、部屋中を見回して首をかしげる。いつも彼女より早く来ているはずの少年の姿が見当たらなかった。
エステルの疑問に答えたのは、荷物をしまっている最中のマルセルだ。
「休みだってさ」
「え、休み?」
エステルが目を丸くすると、マルセルは「しかも何日か休むって」と追い打ちをかけてきた。ますます驚いたエステルは、その場に立ち尽くしてしまう。
「ついに風邪でもひいたのかな」
「ここんとこ、元気なかったもんな」
すでに着席しているポルックスとカストルが、独り言にしては大きな声で言う。前の席でそれを聞いていたヴィーナが、鼻を鳴らした。
「自業自得でしょ。ちゃんと体調管理をしないのが悪いんだわ」
馬鹿にするようなその一言を聞いて、エステルは眉をつり上げる。教室に入ってあいている席に荷物を置くと、ヴィーナの方をにらんだ。
「ちょっと、ヴィーナ」
「あら。わたし、何か間違ってた?」
「間違ってはないかもだけど、言い方ってものがあるでしょ」
互いが互いをにらみつける。少女たちの間に火花が散った。ちょうどその中間に入るティエラが、気まずそうに肩をすくめる。エステルはそれに気づいていたが、自分の方から退く気にはなれなかった。おそらく、メルクリオが休んだのは、大図書館の仕事が立て込んでいるからだ。そういう事情がわかるからこそ、彼について好き放題に言われることが我慢ならなかった。
しかし、張り詰めた空気を破るように、乾いた音が響く。エステルとヴィーナだけでなく、教室のほぼ全員がそちらを見た。
端の席で教科書を広げていたユラナスが、両手を合わせている。先ほどの音は、彼女が手を叩いた音だった。
「はい、そこまで」
ユラナスは、同級生の視線を一身に浴びても動じず、淡々と二人をなだめる。彼女たちが同時に顔をしかめると、少女は茶髪を軽く振って、言い添えた。
「ここにいない人のことで喧嘩しないの。シュエットさんに迷惑だよ」
そう言われると反論できない。エステルは肩をすくめて身を引いた。ヴィーナも、不服そうではあるものの、エステルから目を逸らす。
〈鍵の教室〉の空気が少し緩んだとき、学校のはじまりを告げる鐘が鳴って、先生が入ってきた。
エステルが担任のコルヌに声をかけられたのは、その日の放課後のことだ。何事かと思って振り向くと、彼は口もとに人差し指を当てる。
「ちょっといいか?」
コルヌはささやいて、そばの曲がり角を手で示した。内緒話だと察したエステルはうなずいて、彼の後ろを歩く。ひと気のない場所に来たところで、コルヌは体ごと振り返った。
「君にお願いしたいことがある」
「私に、ですか?」
エステルは目をしばたたいた。コルヌはうなずいて、大きな袋を差し出してきた。
「これをメルクリオさんのところに届けてほしいんだ」
エステルは、驚きつつも袋を受け取った。おもな中身は紙のようだが、それ以外にも何か重たい物が入っている。
「ええと……これ、なんですか?」
「今回の仕事に関する書類と、差し入れ」
仕事と聞いてエステルは息をのむ。やはり、メルクリオの欠席は体調不良が理由ではなかったのだ。そうとわかれば、エステルのやるべきことはひとつだけ。
「お願いしていいかな」
「はい、もちろん」
うかがうようなコルヌの言葉に、ためらいなくうなずく。曇りのない返答を聞いた担任教師は、声を立てて笑った。
「ありがとう。それじゃあ任せたぞ、助手さん」
「はい!」
エステルは笑顔でコルヌと別れ、急いで廊下を突っ切る。その足取りは弾んでいた。最近、「助手」と呼ばれると、どうにも胸が高鳴るのだ。
人目を忍んで校舎を出て、草木が生い茂る学校の外れへ向かう。最初は緊張したこの道程にもだいぶ慣れてきた。足取り軽く進んだエステルは、順調に大図書館へと辿り着く。ひとりでに開いた扉をくぐると、骸骨頭の紳士が出迎えてくれた。――今日はおどかされない日のようだ。
「こんにちは、ギャリーさん」
挨拶して頭を下げると、ギャリーも流麗にお辞儀をする。一時期学校を騒がせた骸骨男は、想像していたほど怖くない。それどころか、とても親切で優しい。名無しの猿魔族の方がよほど恐ろしかった。
ほのぼのと挨拶を終えた二人の頭上に、光が灯る。大図書館の明かりとは違う、小さくも神々しい光だ。そして現れたのは、ルーナだった。
『こんにちは、エステル。迎えにいこうかと思っていたんですけど、その必要はなかったみたいですね』
「ルーナ、こんにちは!」
周囲を飛び回る精霊にも、元気よく挨拶する。けれどもその後、エステルは首をかしげた。
「迎えにって……何かあったの?」
『いえ。メルクにそう頼まれていたんです』
エステルは、頭の角度をますます急にする。
学校を休んだ日に助手を呼び出した。そのことがどうにも引っかかった。一体どれほど忙しいのだろう。
しかし、どのみち大図書館に来ることになったのは変わりない。エステルは、大きな袋を軽く掲げた。
「そうだったんだ。私は、タウリーズ先生からお届け物を頼まれて」
『コルヌから? それならちょうどよかったですね』
ルーナは急停止したのち、エステルの顔の前まで戻ってくる。そして、こともなげに続けた。
『では、奥まで転移しましょうか。今のメルクにこの距離を移動させたくないですし』
エステルはぎょっと目を剥く。
「転移!? 私バラバラになっちゃわない?」
色々気になるところはあったが、そんな問いが口を突いて出た。ルーナはかすかに笑う。
『大丈夫ですよ。短い距離ですし、私の転移ですし』
「ど、どういうこと?」
『そういうものなんです。さあ、いきますよ』
説明を省かれてしまった。言えないことなのか、言うほどのことでもないと思っているのか。
困惑するエステルをよそに、ルーナは羽を震わせる。虹色が二人を囲んで、包み込んだ。
――結果として、転移後もエステルの体は形を保っていた。気分が悪いわけでも、どこかが痛むわけでもない。
それを確かめてほっとしているエステルの横で、ルーナが声を張り上げた。
『メルク! 助手さんがいらっしゃいましたよ!』
「――気づいてる。あんまり大きな声出さないでくれ」
足音とともに、声が響く。エステルにとってはすっかり聞き慣れた声だ。が、いつにもまして覇気がない。不思議に思ったエステルは足音の方を振り返り――絶句した。
『大声出さないと聞こえないじゃないですか。今のあなたならなおさら』
「頭に響くんだよ……」
ルーナの言葉に顔をしかめたメルクリオは、ひどくやつれていた。顔色は青白く、目の下にはいつかのようにクマがあり、髪はぼさぼさのままだ。部屋着だろうか、襟と裾に小さな模様の入った水色のシャツを着て、生成りのズボンを履いている。足もとも長靴ではなく、足だけを覆う革靴だ。
うめいて頭を押さえた彼は、それからエステルを見た。その瞳はどんよりしていて、ふとしたときに眠り込んでしまいそうな雰囲気だ。
「ああエステル……呼び出してごめん……」
「あ、いや。私はタウリーズ先生に頼まれて来たんだ。これを届けてくれって」
声をかけられてようやく我に返ったエステルは、メルクリオにも袋を見せる。担任教師の名を聞いて、彼は眉を寄せた。
「コルヌから? なんの荷物だ?」
「えっと……仕事に関する書類と、差し入れだって」
メルクリオは「ああ」と曖昧な声を上げて目をしばたたく。本当に眠そうだ。
「わざわざ悪い……書類はもらうとして、差し入れはどうするか……」
『応接室に置いてもらったらどうです? ちょっと重そうですよ』
ぼんやりしている少年に精霊がそう声をかける。メルクリオがゆっくりうなずくと同時、エステルは扉の方につま先を向けた。
「じゃ、じゃあ、置いておくね。あのテーブルの上でいい?」
「お願い……」
力ない返答を背に受けて、エステルは扉を開けた。何度か入っている応接室に袋を置き、紙束だけを持って踵を返す。それを少年に手渡した。のろのろと紙をめくるメルクリオを見ていたエステルは、そっとルーナに目配せする。
「ええっと……何があったの、これ?」
『ご心配をおかけしてすみません。でも、たまにあることなので』
ルーナはため息まじりに言って、そのまま続けた。
『とびきり厄介な仕事が入ったんです』
「厄介な仕事?」
『はい。ある本の内容の復元――そして、その写本を作ることです』
エステルは碧眼を瞬く。
「写本? って、あの写本?」
『はい』
思わず問い返すと、ルーナは疲れたように肯定した。
写本――人の手で複写した本――を作るには、正しく情報を写すための技術と集中力が欠かせない。メルクリオが写本をしていたのなら疲れるのは当然だが、一日でここまでやつれるのは相当だ。ルーナの「とびきり厄介」という言い方も気にかかる。
エステルが考え込んでいたとき、メルクリオが顔を上げた。
「そうだな……頻繁に入る仕事でもないし、エステルにも見せておくか」
メルクリオは、書類を脇に抱えて少女を手招く。エステルが素直についていくと、背を向けて歩き出した。
本棚の森の中で何度か角を曲がり、直進した先。小さな扉の前でメルクリオは立ち止まる。扉の横には『写本室』の看板があった。最初に大図書館へ来た日、エステルも少しだけのぞかせてもらった部屋である。
「今日は散らかってるから、外から見るだけな」
そう前置きして、メルクリオが扉を開けた。暗い部屋の中から、けれど橙色のかすかな明かりが漏れる。その明かりのおかげで、なんとか中の様子をうかがうことができた。
確かに散らかっている。部屋に鎮座する大きな机の上には、冊子と何枚もの紙、それから数本の鉄筆とインクが置いてある。そして、冊子のそばには銀色の台座があって、その上に不思議な輝きを放つ球が置かれていた。
エステルは、あっ、と目をみはる。その球は、いつもなら応接室の扉の横に飾られているものだ。思わずメルクリオを振り返った。
「あの球、飾りじゃなかったの?」
「ああ。あれは魔法が込められた道具だ」
メルクリオは淡白に答えて、淡い光を放っている球を見た。
「〈記憶の球〉っていってな。紛失したら困る情報を閉じ込めておくことができる。あれには、貴重な書物のことが大量に記録されてるんだ」
その説明は、エステルの好奇心をくすぐった。少し身を乗り出した彼女に、メルクリオが苦笑する。
「グリムアル大図書館における本の復元ってのは、〈記憶の球〉の中から求められている書物の情報を引き出して、それを冊子にまとめる作業のことだ。あれに記録されている書物ならなんでも復元できるんだけど……情報を引き出すのに、めっちゃ神経とアエラを使うんで……疲れるんだよ……」
途中まで淡々としていたメルクリオの声が、頼りなくしぼんでいく。そこまで聞いて、エステルもようやく彼がこんな様子である理由に思い当たった。言ってしまえば、今日一日ずっと魔法を使い続けていたようなものなのだ。それは疲れもするし、学校を休まないと身が持たない。
「そ、それは、その……お疲れ様」
写本室から体を離したエステルは、引きつった笑顔をメルクリオに向ける。気の利いた言葉を思いつけない自分が情けない。
メルクリオはうなずいて、写本室の扉を閉めた。眠そうな目がエステルを見る。
「そんなわけで、写本ができるまでは学校を休む。今回復元を頼まれたのはそんな長い本じゃないから、遅くても来週には復帰できると思う」
「わかった。……その、無理はしないでね?」
念のため、エステルはそう言い添えた。メルクリオが、学校に戻るために根を詰めて作業しそうな気がしたので。
彼は一応うなずいてくれたが、その表情から心のうちは読み取れなかった。
不安に眉を曇らせたエステルだが、すぐにあることに思い至って、表情を改める。
「私を呼んでたのって、それを伝えるため?」
「それもあるけど。エステルに頼んでおきたいことがあるんだ」
答えて、メルクリオは歩き出す。エステルも彼の隣に並んだ。
「ひとつ。俺がいない間、学校内に怪しい人がいないか見ておいてほしい。授業のついでで構わないから」
そのお願いは、あまりにも唐突なものに思えた。首をかしげたエステルはけれど、すぐにひらめく。
「あ、『異変』の調査?」
「そう。『知らない誰かのアエラ』のことがあるからな。学校の生徒や教師の動きにも注意しておきたい」
メルクリオが魔法学校に入った目的は、初日のお茶会のときに聞いていた。
魔法の暴発と、魔族の暴走。エステルとしては、この不気味な事件に学校の人が関わっているとは思いたくなかったが、自分や同級生が危険な目に遭う方が怖い。「わかった」と力強く請け負った。
メルクリオもうなずいて、続ける。
「ふたつ。万が一、俺がいない間に学校内で魔法の暴発が起きたら、コルヌから詳しい話を聞いておいてくれ。――本当は現場まで行って様子を見てもらうのが理想だけど、今回はそこまでしなくていい。エステル一人で行くのは危険だからな」
「わかったよ。無理はしない」
すぐさま答えて、エステルは胸の前で拳を握る。右の拳で胸を叩いた。
大切な仕事を任された。そう思うと、なんだかとっても誇らしくて、心が弾む。
その様子を見て、メルクリオが口もとをほころばせた。




