14 助手の初仕事
鐘の音が軽やかに響き渡る。今日のすべての授業が終わったことを知らせる音色は、城のごときグリムアル魔法学校の全体に広がった。
同時、学校全体の雰囲気もふっとやわらぐ。屋内で授業を受けていた生徒たちは挨拶と同時に帰り支度を始め、屋外にいた生徒たちも早足で中に戻っていったり、その場で友達とはしゃぎはじめたりした。
エステルたち〈鍵の教室〉の一年生の授業は、数学だった。魔法関連の教科と比べてやや時間数が少ない、一般教養の教科である。
鐘が鳴ると、数学担当の女性教師と入れ替わりでコルヌがやってきた。今日も今日とてどことなく軽い担任は、短い連絡事項と挨拶を済ませるとすぐに出ていく。ほどなくして廊下から彼と生徒の話し声が聞こえてくるのが、いつもの流れだ。
再び教室の扉が閉まると同時、エステルは席を立った。今日の授業で一緒に問題について話し合ったヴィーナやティエラが、ぎょっと目をみはる。
「びっくりした。いきなり立ち上がらないでよ」
「あ、ごめん。待ちきれなくて、つい」
刺々しく注意してきたヴィーナを振り返り、エステルは頬をかく。頭の中で先日のリアン学長との会話を思い出し、はやる心をなだめた。
「何かご予定があるんですか?」
いつも以上にそわそわしているエステルの様子が気になったらしい。ティエラが小首をかしげた。ひとつにまとめられた亜麻色の髪が、左肩の上でさらりと揺れる。
「うん。ちょっとね」
振り返ったエステルは、ちらとほほ笑んで帰り支度に取りかかる。ついて回る視線を感じたが、さほど気にならなかった。これから待ち受けていることに比べれば些細なことだ。
みんながのんびりと荷物を取っている間に、エステルは荷造りを終えてしまった。けれど、動きが早いのは彼女だけではない。エステルが鞄を持ち上げたとき、すでに教室から一人、男子生徒の姿が消えていた。自然と笑みがこぼれる。それを堪える努力をしながら、彼女は鞄を持ち上げた。
今日は『番人の助手』エステルの、初仕事の日だ。
小さな出入口から校舎の外へ出て、敷地の北西方面へ向かう。無名の魔族との戦いのさなかに見た森を横目に、そばを通る細い道へと足を踏み入れた。外に出てからしばらくは人目を気にしながら歩いていたエステルだが、その道に入ると緊張を解いた。どう考えても人の気配がないからだ。
長く伸びた草木が道を覆い隠す。といっても、人の手が入っていないわけではなさそうだ。ほどよく整えられた枝葉の天蓋の隙間から、ところどころに淡い光の筋が差し込んでいた。
再び足を速めたエステルの頬を風がなでる。それは、入学の日よりも冷たかった。運ばれてくる香りも少し淡い。確かに時は流れているのだと、自然は少女に教えてくれた。
小走りで進むこと、しばし。視界の先に何かの影が見えた。建物だ。遠くから見てもわかるほどに大きい。そして、その方向から濃密なアエラを感じる。
「グリムアル……大図書館……」
エステルはつかの間足を止め、呟いた。近づいて確かめるまでもない。魔法使いならすぐにわかる。あれが伝説の図書館だ、と。
草をかき分け、慎重に建物へ近づいた。さすがに魔法学校の校舎よりは小さいが、それでも富豪の邸宅くらいはある。凝った装飾などはないものの、壁や屋根、窓のひとつに至るまで、清潔に保たれているようだった。正面に大きな両開きの扉があり、その上には『グリムアル大図書館』の看板と、金色に輝く紋章が打ち付けられている。そして、館全体からなんとなく覚えのあるアエラの気配が漂っていた。月光の精霊ルーナの結界だろう。
エステルは唾をのんで、一歩一歩、距離を詰める。視界に扉しか映らなくなった頃、ようやく正面に手を伸ばした。冷たい把手を握って、前に体重をかける。
扉はかなり重い。エステルが全力を出しても少ししか動かなかった。
「え、ええ……どうやって入ろう……」
荒々しく息を吐きだして、少女はぼやく。とりあえずもう一度挑戦してみよう、と顔を上げ――絶句した。
今までびくともしなかった扉が、ひとりでに開きはじめたのだ。両方の扉が、軋みを上げながら内側に動く。さながら怪談の一場面のようだ。が、幽霊が出てくることもまがまがしい空気があふれ出すこともなく、グリムアル大図書館の入口はそこに現れた。
「あ。これ、もしかして魔法仕掛け?」
しばらく呆然としてから、ふいに気づく。何しろ、魔族が眠り、あの大図書館の番人が住む場所だ。魔法のひとつやふたつ、十や二十は使われていてもおかしくない。
納得すれば冷静にもなる。エステルは今度、落ち着いた足取りで扉の先へ足を踏み入れた。
靴音が反響し、外の風とは違う冷たさが身を包む。
そして少女の眼前に広がったのは、これまでとはまったく違う世界だった。
まず見えるのは、円形の空間。受付らしき長机以外に物はなく、高い天井も相まってかなり広々としている。そこを支える数本の柱の先には、ただひたすら本棚があった。壁一面を埋め尽くし、ずっと億まで続く本棚の森。棚のひとつひとつに書物がびっしり収められている様は、圧巻の一言だった。
広さも本の数も、学校図書館――校内にある、誰でも入れる図書館――とは比べ物にならない。
エステルは、口を開けてその光景に見入っていた。だから、気がつかなかった。すぐそばに人ならざるものが忍び寄っていることに。
ほんのわずか、アエラが揺らぐ。エステルの意識がそれを察知する直前、耳元でかちかちと奇妙な音が鳴った。
「ぎゃっ!」
肩を震わせ飛びのく。振り返ると、すぐ前に骸骨がいた。エステルはさらに悲鳴を上げて、尻餅をつく。無意識のうちに後ずさりしていた。
かちかちかち。また、音が響く。それは、骸骨が顎の骨を鳴らしている音だった。エステルは声も出せずに『彼』を見上げる。
震える少女を前にして、しかし骸骨はそれ以上動かない。顎の骨を鳴らし続けているだけだ。かちかちかち。小さな音を聞いているうち、エステルは、その響きがどこか楽しげなことに気づく。
「わ、笑って……る?」
エステルが震え声で呟くと、骸骨は顎を鳴らすのをやめた。くるりとエステルに背を向け、長机の方に行く。そして、すぐに取って返してきた。右手に大きめのハンドベル、左手に古めかしい本を持っている。おびえるエステルにそれを掲げて見せた彼は、まずハンドベルを振った。
すると、澄んだ音が図書館じゅうに響き、ハンドベルに埋め込まれた虹色の石が輝きだした。その石と同じ色の小さな星がベルの中からいくつも飛び出して、図書館の奥へと吸い込まれていく。その輝きが見えなくなると、音も消えた。
幻想的な光景に見入っていたエステルは、つかの間骸骨のことを忘れていた。しかし、再び彼にのぞきこまれると、恐怖がよみがえる。ひっ、と悲鳴を上げて後ずさった彼女に、骸骨は左手の本を突き出した。
ずいぶんと古い本だ。表紙の文字が少しかすれている。
「な、何……? ティル・ファル……ファラ?」
なんとか判読できたが、今度は慣れない言葉に困惑した。もっとよく見ようと顔を近づけたとき、エステルは濃密なアエラの気配に気づく。はっとして、本のむこうの骸骨を見た。
もしや、彼は――
「『ティル・フアラ怪異録』。〈封印の書〉だ」
静かな声が降ってくる。
聞き慣れているはずなのに、この場所で聞くとまったく知らない音に思えた。
エステルは慌てて振り返る。案の定、そこにはメルクリオがいた。見慣れた制服ではなく、白と群青色を基調とした大仰なローブをまとっている。随所に施された金色の装飾が、館内の明かりを弾いてきらきらと光っていた。二階から下りてきたところなのか、空中に浮いている。その困ったような表情を見て、少女は一気に脱力した。どっと安心感が押し寄せる。
「メルク!」
「その様子だと、さっそくギャリーさんの洗礼を受けたな」
「ギャリーさん」
知らない名前を繰り返し、エステルは骸骨を振り仰ぐ。そのとき初めて、彼が紳士服を着ていること、頭だけが骸骨で、体は普通の男性であることを知った。
「この……人? やっぱり魔族なの?」
恐る恐る問うと、メルクリオは宙に浮いたままうなずく。
「ああ。人をおどかす魔族だ。けど、それ以外は基本的に温厚で、生き物を傷つけることはめったにない。だから、俺がいないときには見張りをやってもらってる」
メルクリオの紹介を受けた骸骨――ギャリーは、右腕を折り曲げて力こぶを作る。確かに、凶暴な魔族ではなさそうだ。なるほど、とうなずいて、エステルは立ち上がった。
「ええと……エステル・ノルフィネスです。よろしくお願いします、ギャリーさん」
エステルがぺこりと頭を下げると、ギャリーは片足を引いて右手を胸に当てた。流れるような紳士の礼だ。彼はそのまま、その右手を差し出してくる。エステルはためらったが、目玉のない眼窩から何かを期待する子供のような感情を読み取ると、恐る恐る握手を交わした。大きくてがっしりした手はけれど、やけに冷たい。その冷たさが、彼が魔族であるという事実を突きつけてくるようだった。
少女は顔をこわばらせる。対照的に、顎の骨を鳴らす紳士は嬉しそうだ。エステルが戸惑いつつも半歩下がると、様子を見ていたメルクリオが近づいてきた。
「ま、これから慣れればいい。感覚をつかめば会話もできるようになるだろうし」
「え、そうなの?」
エステルは驚いて大図書館の番人を振り返る。どう見ても言語での意思疎通が難しそうな骸骨と、番人以外が話せるものだろうか。
エステルの不安と疑問を、メルクリオはからりと一蹴した。
「できるよ。あんたなら」
誇張も気負いもない。メルクリオの一言はやはり、エステルの中にすんなりと入ってきた。
彼女がひとつうなずいたとき、少年はやっと地に降り立つ。床を叩いた靴の先が、軽やかな音を響かせた。
「さて。まずは中をざっくり案内するか。それから仕事の話といこう」
「あっ――よ、よろしくお願いします!」
エステルはまた、弾むように頭を下げた。メルクリオは「今さらそんな堅苦しくしなくていい」と手を振る。それから、思い出したように振り返った。
「ああ、それと」
「ん?」
首をかしげたエステルに、メルクリオは笑いかける。
今まで見てきたどの表情とも違う。穏やかで、厳かで、底知れない力を感じる微笑。
「グリムアル大図書館へようこそ、若き魔法使い。我々はあなたを歓迎する」
それはまさしく、偉大なる魔法使い――大図書館の番人としての顔だった。
※
そんなわけで、エステルはメルクリオの案内で大図書館の深部へ踏み込んだ。最初の広間から柱の先へ行くと、天井が吹き抜けになっていることに気づく。そしてもちろん、その壁際にも本棚が見えた。本棚はどれも濃い茶色だが、規則的に設けられている大きな窓から陽光が差し込むため、館内は思ったほど暗くない。
何はともあれ、まずは一階だ。終わりの見えない本の迷宮を歩きながら、メルクリオが振り返る。
「ここが一般書架の区画。認可生や来客が入れる場所だ。歴史的・学術的に価値の高い書物や世間にあまり出回ってない研究書、それから危険性の低い魔法書なんかがある」
「私たちから見たら十分危険だよ……」
「ま、壊したり汚したりしないようには気をつけてくれ」
淡々としたメルクリオの言葉が脅し文句に聞こえる。エステルが肩を震わせると、彼は小さく声を立てて笑った。それから、立ち並ぶ本棚の先を指さす。
「ここからずっと奥に行くと、番人の居住空間がある。今は俺の部屋だな。いわゆる応接室もそこにあるから、俺の居場所がわからないときは、とりあえずあっちを目指してくれ」
「……めっちゃ遠そうなんだけど……」
「近づいてくるのがわかったら、俺の方から迎えにいく」
「遠い」ということはメルクリオも承知しているらしい。たじろいだエステルを見て、すぐさまそう付け足した。そのあと体を半回転させ、振り返る。
「次はこっちだ。――ちょっと距離あるから、つかまって」
メルクリオは楽しげに手を差し出してきた。エステルは首をかしげながら、その手をとる。すると、大図書館の番人はなめらかに詠唱を始めた。
「『我が体は空を舞い、我が足は風を蹴る』」
長いローブがぶわりとひるがえり、少年の体が浮き上がる。それに引っ張られてエステルも宙に浮いた。彼女が絶句しているうちに、メルクリオは前へ飛び出した。本棚の狭間を風のように駆けていく。その頃になってやっと、エステルは驚きを口にした。
「まさかこれ、飛行魔法!?」
「今気づいたのか」
「今気づいたよ!」
きょとんとするメルクリオに、エステルはたまらず叫ぶ。
「なんで使えるの? 三年生で習うような魔法だよ?」
「こちとら、エステルが入学する前から大図書館の番人やってるんでな」
そんな会話をしながらも、メルクリオはすいすいと飛行を続ける。角を曲がるときも、高度を変えるときも、まったく体がぶれなかった。そうして、あっという間に大図書館の端へと辿り着く。平然と着地したメルクリオは、そのまましゃがみこんだ。エステルが緊張のせいで乱れた呼吸を整えている横で、床板に手をかける。すると、床板の一部が持ち上がった。その下に四角い穴が開いている。
「わっ、すごい」
感嘆したエステルを仰ぎ見て、メルクリオがその穴を指さした。
「この下にあるのが〈封印の書〉を保管している部屋だ。一人で入ってもらうことはないと思うけど、覚えといてくれ」
「わかった」
エステルは力強くうなずく。風景を頭に入れようと、その場でぐるりとあたりを見渡した。
その後、いくつかの部屋を紹介してもらってから、最初の広間に戻ってきた。
「じゃ、さっそく仕事をしてもらうか」
そう言って、メルクリオは長机のもとへ歩く。その上に置いてあった箱を持ち上げて、助手に示した。
「ここに入っている本を元の棚に戻してくれ」
エステルが隣に歩み寄ると、メルクリオは箱を開けた。中には大きさも厚さも様々な本が数冊入っている。『アエラから見る人体の話』『呪文の歴史と変遷』など、どれも魔法に関係がありそうな題名だ。
「これって……」
「貸し出したのが返ってきたんだ」
「え、借りに来る人がいるの?」
「たまに」
こともなげに答えたメルクリオは、大図書館の奥へと視線を投げかける。
「全部魔法関連の学術書だから、十番から二十番の書架だな。初めてだから、俺も説明ついでについていく」
「……お願いします」
胸をなでおろしたエステルに、メルクリオはさりげなく箱を手渡してきた。エステルも何気なくそれを受け取り――手と腕にのしかかってきた重みでつんのめった。
「重っ!」
「そりゃ、そこそこ厚い本が五冊入ってるからな」
間違っても落とすなよ、と釘を刺して、メルクリオは歩き出してしまった。エステルは慌てて後を追う。もちろん、箱を抱えているので走れない。
「おっ……もい……! これ、私が運ぶの……?」
「当たり前だ。いつも俺がついてやれるわけじゃないんだから」
「ま、魔法で、軽くしたり、とかは……」
「エステルは重量操作の魔法が使えるのか?」
「むり……呪文わかんない……」
「じゃあそのまま頑張れ。体力づくりだと思って」
大図書館の番人の返答はそっけない。結局エステルは、目的の場所に着くまで慣れない肉体労働をする羽目になった。メルクリオが歩く速さを合わせてくれたのが、せめてもの救いだ。
重量操作の魔法はなるべく早く習得しよう、と決意した。
「書架は本の種類、扱っている分野ごとに分かれてる。その中で、本は著者名順に並んでいる。どれが何番書架にあるかってのは、最初はわかりにくいけど、慣れれば覚えてくるから」
淡々とした説明と助言を受けながら、エステルは本を元の場所に返していく。幸いにも、エステルが魔法を使わずに戻せるところに入っていたものばかりだった。――メルクリオは、それを把握したうえで彼女にこの仕事を振ったのかもしれない。
本棚の上にはそれぞれ、番号が刻まれた看板がある。メルクリオが先ほどから言っているのは、この番号のことだった。
とはいえ、すぐに覚えられる自信は、エステルにはない。とりあえず今日は「アエラの本は十番書架」だけでも覚えよう、と先ほどから書付を取っていた。
「よし、できたな。それじゃあ次」
戻された本を確認したメルクリオが、さっさと身をひるがえす。エステルは慌てて紙片と筆記用具をしまい、追いかけた。
メルクリオが足を止めたのは、七番書架の前だった。一階の上端にまで迫る本棚を振り仰ぎ、エステルは感嘆の息を漏らす。対するメルクリオは、いつもの調子で指示を出した。
「この書架の本を点検してくれ。順番通りに並んでいるか、本に大きな汚れや破れがないか、そういうのを見るんだ」
エステルは前のめりになって彼の説明を聞いた。その一語一語を一生懸命頭の中で復唱する。
その後メルクリオは「はい、これ嵌めて」と、どこに持っていたのか手袋を差し出してきた。そして、踵を返す。
「俺は自分の仕事があるから行く。何かあったらルーナに言ってくれ」
彼がそう言うと同時、空中に白金色の光が集まった。その中から、薄羽を持つ光の球体が現れる。
『こんにちは、エステルさん』
「ルーナさん! 今までどこにいたの?」
『ルーナでいいですよ。――ずっとメルクリオの隣にいました』
ルーナはエステルの鼻先にまで飛んできて、にこりと笑う。どうやら、姿を隠して二人のやり取りを見ていたらしい。そのまま少女のまわりを飛び回る。何やら楽しげな精霊を、メルクリオが振り返った。
「それじゃあ、お願いしていいか。ルーナ」
『はい。お任せください』
ぱたぱたと羽ばたいたルーナに手を振り、メルクリオはどこかへ飛んでいった。
残されたエステルは、ルーナから助言をもらいながら本の点検をしていく。ひとまずは下の数段、エステルの手が届く範囲だけでいいというのを聞いて、本人は心底ほっとしていた。
異常がなかった本は棚に戻し、何かが見つかった本は選り分ける。エステル自身で判断できない部分はルーナに確認を取る。そんな作業をしばらく繰り返した。
もう何冊目になるかわからない本を棚に差した後、エステルは息を吐く。
「これ全部、メルクは一人で見てたのか……。すごすぎる……」
『毎日少しずつ点検しているんですよ。時間だけはありましたからね』
横で浮いていたルーナがのんびりと言葉を返してきた。エステルは、目を瞬く。
「そうなの? なんか忙しそうに見えるけど」
『忙しいときと暇なときの差が激しいんです。来客も封印の緩みもないときはとことん暇なんですけど、そういう予定や出来事が一度に重なると……ああなります』
ルーナが「ああなる」と言っているのは、ここ最近のメルクリオの様子だろう。寝不足の上に徹夜を重ねた少年の姿を思い出し、エステルは「あー」と苦笑した。
『今は学校にも行かないとですし、暇な日は少ないですね。大図書館にいるときは、飛び回っているか地下に籠るか、死んだように眠っているかのどれかです』
ルーナの言葉からは、ほんのりと哀愁のようなものが漂っている。その姿はエステルに、助手としての原点を思い出させた。と言っても、あれからほんの数日しか経っていないのだけれど。
「私、ちゃんと『助手』できるように頑張るよ」
『ふふ、ありがとうございます』
ルーナは羽をぱたぱたさせ、エステルのまわりを一周した。
指定された段の本を点検し終えた頃、メルクリオが様子を見にきた。エステルはしどろもどろになりながら状況を報告し、先ほど選り分けた本を渡す。受け取ったメルクリオは、目を丸くして少しの間それを見つめていた。
『将来有望ですよね』
少年は、笑いを含んだルーナの声がけで顔を上げる。曖昧にうなずいたのち、エステルに「ありがとう。お疲れ様」と労いの言葉をくれた。そして、手を差し出してくる。
「エステル、まだ時間あるか?」
「うん。今日は宿題もないし」
「じゃ、ちょっと奥に来て」
エステルは首をひねった。
「まだお仕事があるの?」
「いや」
彼女の問いに短く返し、メルクリオは頭をかいた。
「お給金は出せないけど、お茶くらいは出そうかと」
エステルは虚を突かれて硬直する。けれど、遅れて言葉を理解すると――顔を輝かせた。
再び、メルクリオの飛行魔法を駆使して大図書館の中を駆ける。
辿り着いたのは、一番奥だ。白い壁をくりぬくように長方形の扉があって、そのあたりだけは本棚がない。その代わり、扉の横の壁に球が飾られていた。見る角度によって色が変わる、不思議な球だった。
「こっち」
球に見入っていたエステルに、メルクリオが声をかけてくる。振り返ったエステルは、彼にうながされて扉をくぐった。
扉のむこうには小ぢんまりした部屋があった。円形の大きなテーブルが置いてあり、それを囲むようにして数脚の椅子がある。そのむこう、奥まったところにもう一枚扉が見えた。壁際には小さな棚があり、その上に花が飾られている。
勧められるまま椅子に腰を下ろしたエステルは、そわそわとメルクリオを見上げる。見られた当人はいつも通りの調子だった。
「ちょっと待ってろ」
それだけ言って、先ほどの扉とは別の出入り口の方へ足を向ける。その方をまじまじと見たエステルは、この部屋といわゆる台所が繋がっていることに気がついた。小さな部屋だと思っていたが、そう考えると案外広いのかもしれない。
メルクリオがそちらに去ったときには、すでに温かな空気が流れてきていた。ほどなくして、お茶の甘い香りも漂ってくる。エステルは、こわばっていた心がほぐれていくのを感じていた。
少しして、メルクリオが戻ってきた。自分の体ほどもあるトレイを器用に持っている。先にカップを受け取ったエステルは、少しの間それを見つめてしまった。琥珀色の水面には、かたまった自分の顔が映っている。
「どうぞ」
「あっ……いただきます」
のんびりと自分の分を用意しているらしいメルクリオが、そんなふうに声をかけてくる。エステルはあたふたと手を合わせ、慎重にカップを持った。甘さと渋みがほどよいお茶は、飲んだ瞬間からじんわりと体に染みわたる。後からりんごの香りが鼻に抜けた。
しばらくの間、二人でふうふういいながらお茶を飲んだ。温かいものを体に入れたおかげか、エステルの変な緊張感も少しずつ消えていく。
「……とりあえず、仕事はできそうだな。しばらくは今日みたいな感じで様子を見よう」
ふいに、斜め前から声がかかった。いったんカップを置いたメルクリオがこちらを見ている。エステルは小さくうなずいた。
「うん。頑張るね」
「まあ、あんまり気張らなくていい。学業優先だからな」
「あ、ハイ」
淡々と言う少年に、いつかの学長の笑顔が重なった。ぎこちなく返事をしたエステルは、気分を逸らすようにお茶を一口飲む。
「そ、それにしても、グリムアル大図書館って広いねー。普通に歩き回ってたら日が暮れちゃいそう」
強引に話題を切り替える。幸い、メルクリオはそれに乗ってくれた。
「そうだな。本を借りるだけならともかく、仕事をするなら飛行魔法か転移魔法が使えないと厳しい」
「求められる能力が高すぎる……!」
人や物を浮かせる、飛ばすたぐいの魔法は、エステルが指摘した通り三年生で教わる魔法だ。自分や物を少し浮かせることは、ほとんどの魔法使いにとって難しいことではない。
ただし、『飛行』となると話は別だ。長距離の飛行は大量のアエラを消費する。さらに、安定して飛ぶには集中を切らさないようにしなければいけない。そんなわけで、飛行魔法を使いこなせる魔法使いは少ないのだった。
転移魔法にしても、危険すぎて普段使いができない。――普通なら。
「ほんと、メルクはどうなってるの……!?」
「大図書館の番人だからな」
卓上で拳を握りしめたエステルに、メルクリオは淡白な答えを寄越す。揺るぎない。
自分のような学生では到底敵わない気がして、エステルはうなだれる。だが、すぐに思い直した。まだ一年生だ。色々とやることはあるにせよ、学ぶ時間はこれからいくらでも作れる。あきらめるにはまだ早い。
「できる範囲で勉強してみる! 飛行魔法……と、重さを変える魔法!」
「……うん。まあ、頑張れ」
意気込むエステルに適当な相槌を打ったメルクリオは、ほどよく冷めた紅茶を口に運んだ。
※
ちょっとしたお茶会を楽しみ、ついでに話すべきことも話して。エステルは元気よく寮の方へ帰っていった。
彼女を見送ると、グリムアル大図書館は急に静まり返る。そう感じた自分を自分で不思議がりながら、メルクリオは館の奥へ戻った。大きな机と向かい合い、その上に積んだ本へと手を伸ばす。先ほどエステルが選り分けた本だ。
装丁や中身を見て、破損具合を確かめる。魔法で直せそうな破れなどは、その場で修復していった。
今日はアエラの乱れも封印の緩みもない。平和だ。
『エステルはいい子ですね』
作業のさなか、ルーナがぽつりと呟く。メルクリオは視線だけを精霊の方に向けた。
「仲良くなるの早いな」
『話しているうちに意気投合しまして』
ひとに「入れ込みすぎるな」と言っておきながら、彼女は早々に打ち解けたらしい。
メルクリオは気のない相槌を打って、本の方に視線を戻す。汚れを除いた本を少し離れたところに置き、次の一冊に手を伸ばした。ページをぱらぱらとめくっていき、かすれて読めなくなった文字を見つける。その本だけは、修復済みの本の反対側に置いた。あとで道具を持ってきておこう、と頭の中に予定を書き込む。そして、ため息をついた。
――わかっているのだ。自分が外の人々に入れ込むのと、ルーナがエステルと仲良くするのはまったく別の話だと。
それでも、言語化できない不快感は胸の中に残り続ける。
『……メルクリオ』
「なんだ?」
『エステルが使うあなたの呼び名、素敵ですよね』
修復済みの本を手に取って、メルクリオは黙った。ルーナは構わず、その場で薄羽を羽ばたかせる。
『私もメルクと呼んでいいですか?』
「……好きにしろ」
ため息まじりに答え、メルクリオは立ち上がった。呪文を唱えて床を蹴る。
今だけだ。こんなふうに――「普通の人」のように過ごすのは。
自分にそう言い聞かせながら、彼は七番書架を目指した。




