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11 『魔法薬用植物総覧 第二巻』

 名無しの魔族が突然方向転換をしたとき、メルクリオは風向きが変わったことを悟った。少しでも足止めしようと鎖を放ち、風の魔法を通路中に広げて声を届ける。案の定、エステルが〈封印の書〉を見つけたところだった。

 封印されていた魔族は当然、自分の〈封印の書〉の気配に敏感だ。そして、人間がその〈書〉を手にするとほとんどの者が過剰に反応する。〈封印の書〉が魔法使いの手に渡れば封印される、と覚えているためだ。現在、彼らを封印できるのは大図書館の番人だけなのだが、この世界の詳しい状況を知らない魔族も多い。それに、理性が吹き飛んでいる者はそこまで細かく魔法使いを識別できない。――もちろん、名を奪われて()()が外れた猿の魔族もだ。

 だから彼は、矛先をエステルに向けた。彼女が〈封印の書〉を手放せば、多少は敵意も緩むだろう。声を届けた風魔法の消失を感じながら、メルクリオはほっと息を吐いた。

 だが、安堵したのもつかの間。あたりに強烈な風が吹いた。メルクリオの魔法ではない。もちろん、ルーナでもない。

「あいつ、何を――」

 顔を覆いながら呟いたメルクリオは、直後にぎょっと目をみはる。

 エステルが、天高く飛び上がっていた。そうかと思えば、どこかに落ちた。落下地点はおそらく、魔族の背中。

 果たして、少女は猿の上から顔をのぞかせた。身構えたメルクリオに向かって叫ぶ。

「題名! 『魔法薬用植物総覧 第二巻』!」

 その一語を聞いた瞬間、メルクリオの頭の中が切り替わる。

 灰青の目が細められる。隣で相棒が薄羽を張るのを見た。

「著者は!」

 叫び返すと、すぐに返答があった。

「え、えっと、確か、フレイヤ・テレス!」

「よし」

 メルクリオはすぐさまルーナに目配せする。ルーナは、答えるより先に目を閉じた。彼女の周囲のアエラが急速に渦を巻く。

『――検索完了。ありましたよ』

 ほどなくして、彼女は言った。同時、メルクリオの中に彼女が拾った情報が音として流れ込んでくる。瞑目してそれを記憶した少年は、すぐさま猿の方を見た。

 彼は再び暴れ出す。背中の異物に気づいたらしい。エステルは必死にすがりついていたが、抵抗むなしく振り落とされる。

「『風よ』!」

 メルクリオは、端的すぎる詠唱を放つ。それでもアエラは彼の思惑通り動き、やわらかな風が少女の体を受け止めた。

 その結末を見届ける前に、メルクリオは腕を掲げ――〈封印の書〉を召喚する。

「〈封印の書〉第百二十番、『魔法薬用植物総覧 第二巻』」

 力ある言葉に呼ばれた〈封印の書〉が、そらを通って現れる。メルクリオが巻物を手に取ると、紐がひとりでにほどけて巻物が広がった。メルクリオは、特に力の強い文章へと、素早く視線を走らせる。

「『マコウスミレは癒しの花。花弁が大きく常にほのかな光を放つ。刺激を与えると鈴のような音を発する。精神を鎮静させる香りを放ち、それは時に魔族をも鎮めるという』」

 薬学書らしい淡々とした文章をなぞっていく。声に合わせて文字が輝き、回転しながら名無しの魔族を取り囲んだ。異変を察したらしい魔族が暴れたものの、文字の檻は破れない。

「『今より五十年ほど前、名を失くした凶暴な魔族が世界を渡って逃げてきた。アエラにせよ香りにせよ濃いものを好む彼は、香りに惹かれてマコウスミレの群生地に踏み入った』」

 メルクリオは、かみしめるように言葉を紡ぐ。そのたび猿を囲む輝きは強くなり、檻を堅牢にしていく。――ふうわりと、嗅ぎなれない香りが漂ってきたのは、猿の動きが目に見えて鈍ったときのこと。

 メルクリオは驚きつつも、詠唱を続ける。

「『するとたちまち大人しくなり、しまいには眠ってしまった』」

 封印の呪文、最後の一文を読み上げると、文字たちがぎゅっと集まって光球となり、猿の姿を完全に覆い隠した。そして、紫色に変じた光の球は、甘い香りをまとったまま巻物の表面に吸い込まれていく。明かりと香りが完全に消え失せると、巻物は役目を終えたとばかりに巻き戻り、浮いていた紐が巻き付いた。

 〈封印の書〉が静まり、メルクリオの手に落ちてくる。念のため紐の結び目を確かめた彼は、静かに顔を上げた。

 裏門へ続く通路に猿の姿はない。崩れた箱の山とところどころに残る足跡が、獣が暴れたということを示すのみだ。メルクリオは、頭を抱えて息を吐く。

「この足跡、どうにかして消さないとな。学校の怪談になりかねない」

『それくらいは手伝いますよ』

 うめいたメルクリオの隣で、ルーナがくすくすと笑う。それから『お疲れ様です』と付け足した。いつも通りの言葉が胸の奥に染みわたる。

「ああ。ルーナもお疲れ様」

 ちらとほほ笑んで答えたメルクリオは、それから人間の少女の姿を探す。

 エステルは、猿から落とされたときと同じ場所にいた。座り込んだまま、呆然と虚空を見つめている。メルクリオは黙って彼女に歩み寄ると、目線を合わせて手を振った。

「おーい」

「…………はっ!?」

 わずかな間の後、エステルは肩を震わせ息をのむ。それから、わたわたと両手を動かした。奇妙な踊りのようにも見えるが、それをしている本人は本気で慌てているらしい。

「ご、ごめん。なんか、封印の瞬間がすごすぎて見とれてた」

「なんだそれ」

 メルクリオは呆れて立ち上がる。小さく息を吐いたのち、エステルに向かって手を差し出した。エステルはためらいがちに手を取って、ふらつきながらも立ち上がる。

「怪我はないか?」

「あ……うん。大丈夫」

「それならよかった」

 淡白に言ったメルクリオは、あいている方の手を腰に当てた。

「無茶するな。こっちの肝が冷えた」

「あう、ごめんなさい……」

 何について言われているのか、すぐにわかったのだろう。エステルはしょんぼりと背中を丸めた。しかし、そっぽを向いたメルクリオの隣でルーナが笑う。

『本当に。メルクリオ以外に、魔族によじ登る人間がいるとは思いませんでした』

 突如聞こえた少女の声に、エステルが目を丸くする。一方のメルクリオは、耳まで真っ赤にしてうつむいた。

「お、俺は仕事でやってるんだよ!」

『そうですね。魔族を再封印するためには手段を選んでいられませんものね。大図書館の番人さん?』

 ルーナの声は妙に弾んでいる。球体に楕円の目だけなので表情はわかりにくいが、楽しんでいることはうかがえた。

 分が悪くなった気がしたメルクリオは、わざとらしく咳払いする。それからエステルに向き直り、握ったままだった手を離した。

「それはともかく。今回はその、助かった。あんたがいなかったら、もっと時間がかかってたと思う」

 少々まごつきながらそう伝えると、エステルはさらに口を半開きにした。数秒ほど固まっていたが、呆けたような表情はじんわりと笑みに取って代わる。

「うん。ちょっとでもメルクを助けられたならよかった」

 頬を染めてほほ笑んだ少女は、両手を顔の前で握って楽しそうに口角を上げる。

「うふふっ。なんか嬉しくなってきちゃった!」

「……あんな目に遭ったのにか?」

 あんたほんとに変わってるな、と呟いて、メルクリオはそっぽを向いた。不思議と悪い気はしない。むしろ、暖炉の火に手をかざしているときのような温かさが、胸の中に灯っていた。

 二人はしばし達成感に浸っていたが、その中でエステルが目覚めたようにまばたきする。そして、メルクリオを――正確には彼のすぐ隣を見た。

「そういえば、さっきからメルクの横にいる……えと、ルーナ、さん?」

 そこでエステルは視線をさ迷わせた。どう続けていいのかわからないらしい。メルクリオとルーナも、顔を見合わせて少し悩んだ。

『はい。ルーナと申します。月光より生まれし精霊にして、グリムアル大図書館の館長です』

 結局、ルーナの方が口を開く。見られたならばしかたない、と開き直ったらしかった。

 エステルは彼女の自己紹介を聞き、両目をさらに見開く。

「精霊? 精霊って、あの?」

『はい。自我と顕現体けんげんたいを持つアエラ――学校で教えられている通りの、精霊です』

「は、初めて見た……!」

 エステルの碧眼が輝いた。メルクリオは「だろうな」と思いつつも口には出さない。ただ静かに、好奇心旺盛な少女とほほ笑む精霊をながめていた。

「それに、大図書館の館長さんって! 超えらい!」

『いえいえ。館長なんて名ばかりですよ。業務も決定も、行っているのはほぼ番人です』

 ルーナはそこでメルクリオに目配せする。本人はやはり、無言を貫いた。

『私の仕事は、大図書館に結界を張り維持することと、番人の補助です。今は本来の顕現体すがたではないので、やれることがそのくらいしかないのですよ。――まあ、小さな魔法なら使えますが』

「よく言う。名無しの魔族の攻撃をきっちり防いでおいて」

 メルクリオは口の端を持ち上げる。ちょっとおかしくなって、とうとう口を挟んでしまった。そこでエステルが、あっ、と声を上げる。

「もしかして、あの銀色の壁って――」

『ああ、あれは私の魔法です。間に合ってよかったです』

 こともなげに言って、ルーナは目を細めた。「あ、ありがとうございます!」と頭を下げたエステルにも、穏やかに対応している。

 メルクリオはそこで軽く手を叩いた。

「さて。自己紹介も済んだし、いったん戻ろう。授業には思いっきり遅れそうだけどな」

「――嘘っ!? やっちゃったあ」

 エステルが情けない声を上げて頭を抱える。表情をころころ変える少女に、番人と精霊は生温かいまなざしを注いだ。

「落ち着け。今から戻ればサボり扱いにはならない。コルヌには俺から説明して適当にごまかし――」

 エステルをなだめようとしたメルクリオはしかし、途中でぴたりと口を閉じる。つい、眉間にしわを寄せた。

 覚えのある気配と足音が近づいてくる。

「メルク?」

「あらあら、いけませんよ。遅刻の理由はきちんと説明しないと」

 怪訝そうなエステルの呼びかけにかぶさって、つややかな声が響く。この場の誰のものでもない音に、少女の表情が凍りついた。

 高い靴音が、拍子を刻んでやってくる。メルクリオたちが振り返った先、校舎の方から一人の女性が歩いてきていた。白いローブをまとっており、その袖からは細い腕がわずかにのぞいている。冷たさと気品が漂う相貌には、真意の見えない微笑が浮かんでいた。

「学長先生……!?」

 エステルがひっくり返った声を上げる。女性は彼女の方を一瞥したが、その場では特に何も言わなかった。代わりに、メルクリオの方を見る。

「アエラがざわついていたので、様子を見にきたのですが……この様子なら、心配は不要でしたわね」

 鋭い視線を受け止めたメルクリオは、軽く鼻を鳴らした。

「ずいぶんと遅いお出ましだな、リアン」

 学長――ヴェルジネ・リアンは、薄紫色の長髪を払って目を細めた。

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