ロシア 8
1943年1月23日 ロシア チュメニ
モスクワから東へ1700キロ、チュメニにある農業アカデミーの校舎は、帝政時代に建てられたもので、サンクトペテルブルク近郊のロシア皇帝の夏の離宮、エカテリーナ宮殿を彷彿とさせる瀟洒な造りだ。
もっとも、本家の宮殿は、ドイツ軍との攻防戦で破壊され、廃墟となっていたが。
その建物の2階にいたボリス・ズバルスキーは、正面玄関の呼び鈴が鳴る音を聞いた。
1階に降りて扉を開けると、そこには見慣れない将校が立っている。
彼は、カザフスタン軍の中尉を名乗った。
「これまで警備を担当してきた、内務人民委員部の部隊がボルゴグラード戦線の督戦に投入されることになり、交代を命じられた。引き継ぎに当たって、保管物を確認したい」と告げ、書類を示した。
ボリスが中尉の後ろに目をやると、完全武装の兵士の一団が控えている。
引継ぎなら前任者は来ないのだろうかとも思ったが、余計なことは聞かないことにした。
この国では、知らなくてもいいことを知ったばかりに、追放されたり、命を失ったりする例が数知れない。
それに何より、この居心地のいい生活を失いたくなかった。
ロシアのいたるところが戦場になり、多くの民衆が飢えと寒さに苦しんでいるこの時に、電気も暖房も完備した建物に住むことを許され、食料はもちろん、紅茶やケーキ、コニャックさえも、ふんだんに用意されているのだから。
ボリスは、言われるままに、中尉と兵士たちを2階へ案内した。
中尉は、目的の部屋に入るやいなや中央に据えられた水槽に直行し、カリウムアセテート、グリセリン、塩化キニーネの水溶液に沈む、インドゴムの包帯に包まれた保管物を念入りに点検した。
確認がすむと、中尉は振り向いて言った。
「我々は、日本軍の特殊部隊だ。これより、この保管物と建物およびその敷地を接収する」
「保管物」とは、戦禍を逃れ、モスクワのレーニン廟から疎開して来た、ウラジミール・イリイチ・レーニンの遺体だった。
クレムリンの会議室で、ロシア外務人民委員のモロトフが怒気を露わにした。
「日本は、ロシアの領土に侵入し、こともあろうに同志レーニンの遺体を略奪した。これは明白な中立条約違反であり、宣戦布告だ」
日本政府から全権を与えられた、参謀本部次長高山中将が口を開いた。
「一部の過激分子の仕業だ。お恥ずかしい話で恐縮だが、我々が青年将校の暴走に手を焼いているのは先刻ご承知の通り。お怒りはごもっともながら、ロシア軍が突入すれば、遺体もろとも自爆すると言っているのだから、ここはまず冷静になってほしい」
脇に控えた、次長付の白石大佐が付け加えた。
「もし日本軍にロシア領土通過を許していただけるなら、もちろん我々が責任を持って鎮圧いたします。ですが、殺戮の繰り返しに終止符を打ち、地に平和をよみがえらせたいという、若者の至情も理解できなくはありません。この辺りでドイツと停戦することは、考えられませんか?」
モロトフは怒りのボルテージを上げた。
「盗人猛々しいにも、程がある。無法をはたらいておきながら、仲介役面をしようというのか!」
高山中将が静かに指摘した。
「カフカスの会戦で、主力部隊が包囲されているのではないか?万一この部隊が壊滅したら、モスクワは風前の灯と聞いたが?」
「大祖国戦争は、勝利するまで終わらない」
高山中将が口調を一変させた。
「日本海軍が、大西洋の制海権を握っていることをお忘れかな?アメリカからの軍需物資輸送が滞っていると聞いた。インド洋経由の輸送は既に絶たれている。あとは、ウラジオストクからシベリア鉄道を経由するルートが残るだけだ。
どうしても戦争を続けるというのであれば、日本としては日露中立条約を破棄、シベリア鉄道を寸断し、ウラジオストクを陸と海から封鎖することになる」




