ロシア 4
その日の朝、アゼルバイジャンのバクーは、乳白色の濃霧に包まれていた。
風もなく、ナタリア・シェフチェンコ少尉がいくら目を凝らしても、数メートル先すら見通すことができない。
少尉は現役の女子大生だ。
綿毛のようなブロンドの髪、ダークブルーの瞳、手足はすらりと伸び、武骨な軍服よりもプリーツスカートやヒールサンダルの方が似合いそうだ。
故郷がドイツ軍の侵攻を受け、家族を守るため志願して兵士となった。
女性の応募が多い、衛生兵ではない。
女性兵士の募集枠がある、戦闘機パイロットや戦車兵、重機関銃の射手でもなかった。
狙撃兵だ。
射撃クラブで抜群の成績を挙げ、ボロシーロフ優秀射撃手章と狙撃手資格証明を授与されていた。
胸に光るレーニン勲章は、飾りではない。
狙撃スコア「303」は、女性兵士の中では文句なしのトップクラス、並み居る男性の狙撃兵のエースと比較しても遜色のないものだ。
「あいつらを殺して。1人残らず殺して」
そう言ったのは、アンナだ。
オデッサ攻防戦で、重機関銃陣地への攻撃を命じられた時のことだ。
敵陣に近い丘の上の農家に入ると、そこに17歳のアンナがいた。
顔や手足のあちこちに痣があり、眼は泣き腫らして赤く、瞳は深い絶望に沈む。
少女が敵兵に何をされたのか、シェフチェンコ少尉には察しがついた。
狙撃銃をじっと見つめていたアンナが、小さな声でつぶやいた。
「銃を撃つのが、うまいの?」
「まあね」
底の見えない暗闇に、光が煌めいた。
「私の願いを聞いてくれる?」
「いいよ」
「やつらを殺して。1人残らず殺して!」
「わかった、そうする」
「神があなたをお許しくださいますように」
「あなたもね」
真夜中を過ぎた頃、木の葉や小枝を縫い付けたカモフラージュ・ジャケットを羽織り、村はずれの墓地に向かった。
あらかじめ下見をして選んでおいた、大木の枝を掴んでよじ登る。
手にしたモシン・ナガンM1891/30スナイパーライフルは、各国の同じクラスの狙撃銃と比べても、全長が10センチ以上長い。
嵩張るので、それ以外に携帯しているのは、銃弾を入れたポーチと、水筒、軍用ナイフだけだ。
ヘルメットは被らない。
砲撃で至近弾を受けてから聴力が落ち、微かな音を聴き洩らすおそれがあるからだ。
そうだ、忘れてはいけない。
ホルスターのトカレフ自動拳銃。
触れるだけで、心が落ち着く。
一般の歩兵なら、戦闘に敗れても、降伏し捕虜になるという道がある。
たとえ、零下20度にもなる厳冬のロシアで、荒野を鉄条網で囲っただけの、小屋もテントもない、名ばかりの「捕虜収容所」に押し込められたとしても、生き延びる可能性がなくはない。
だが狙撃兵は、捕まれば即座に殺されるというのが、ロシア軍であろうが、ドイツ軍であろうが、戦場に共通する不文律だ。
それに、女性兵士にはレイプという別の危険もある。
こみあげそうになる恐怖を鎮め、かろうじて平静を保っていられるのは、いざとなれば引き金を引くだけで、すべてを終わらせてくれるトカレフのおかげだ。
太い枝の上に立ち、ちょうど肩の高さの小枝にライフルを乗せて、夜明けを待った。
街道に沿って平屋が軒を連ね、その先には教会や学校の屋根が覗く。
MG34機関銃は、ひときわ大きな石造りの家の庭に置かれていた。
プリズム望遠照準器を装備し、大型の三脚に載せた重機関銃型で、有効射程距離3000メートルという、恐るべき性能を誇る。
日が昇ると、見張りが交代した。
一般の兵士は無視して、狙撃にふさわしい目標が現れるまで息をひそめる。
やがて、重機関銃隊の兵士が出てきた。
3名が分担して機関銃を点検し、ベルト給弾式の弾帯を装填する。
作業が一段落すると、兵士たちは銃座の近くに座り込んだ。
ライフルのボルトハンドルを上げて遊底を引き、静かに前へ押して薬室に銃弾を入れる。
風はなく、気温は17度くらいだ。
照準を調整する必要はない。
望遠照準器に瞳を凝らした。
T字型の黒い照準線に、リーダーとおぼしい兵士の頭が重なった。




