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ロシア 1

1942年11月19日 ロシア クレツカヤ


 その日の朝、ドン川河畔のクレツカヤには雪が舞っていた。

 それが止むと、白い霧氷が全てを包み込み、数メートル先さえおぼろに霞ませる。


 これまでロシア軍は、霧の中で砲撃することを避けてきた。

 火砲を撃っても、着弾点から射角や方位角を修正することができず、命中弾を得ることが難しいためだ。

 だから今日だけは静かな朝を迎えられると、誰もが緊張をわずかに緩めていた。


 その時、轟き渡る雷鳴が白い緞帳を引き裂いた。


 ロシア軍の3500門の重砲とカチューシャ・ロケット砲が、一斉に火を吹いた。

 兵員100万、戦車900両を投入した、天王星作戦の発動だった。

 連合国の反攻の第3弾の始まりだ。


 わずか4か月前の7月3日、ドン川上流のヴォロネジでロシア軍の防衛線を突破し、東岸を進撃したドイツ第2軍は、西岸を南下した第6軍とともに、ボルゴグラード近郊でロシア南西方面軍を包囲した。


 ヘルマン・ホート上級大将率いるドイツ第4装甲軍は、ロシア軍の退路を絶ち、補給ルートを遮断すべく、コーカサスの大平原を長駆し、ボルガ川がカスピ海に注ぐ河口の要衝、アストラハンを攻略する。


 装甲軍本隊を離れたドイツ第14装甲師団は、東へ敗走するロシア軍を追い、カスピ海北岸をさらに疾走してアティラウまで達した。


 だが、勝利の女神がドイツ軍に微笑んだのは、そこまでだった。

 例年より早く訪れた寒波がカスピ海を厚い氷で覆いつくし、兵站を支える水運を閉ざしたのだ。


 さらにまずいことに、寒気がわずかに緩んで凍結した地表が融けると、ロシアの未整備な道路はぬかるみと化し、トラックはタイヤがスリップして走行不能となり、陸路の輸送も途絶した。

 戦車すら、カタピラが泥にはまって悪戦苦闘する始末だ。


 1個装甲師団がアティラウで遊兵と化したのみならず、アストラハンの第4装甲軍本隊まで、身動きがままならなくなった。


 それに対して、ロシア軍の戦車のカタピラは、自国の気候に合わせて幅を広く設計してあり、この程度の泥濘で作戦行動が妨げられることはない。


 ロシア全軍に号令する最高司令官代理のゲオルギー・ジューコフは、この時46歳、山口多聞少将や宮崎繁三郎少将の4歳下、白石大佐やチャンドラ・ボースの1歳上という若さだ。


 3年前の1939年、ノモンハンで第57特別軍団を率いて日本軍を撃破、日露戦争以来の雪辱を果たして一躍名を揚げ、それからわずか1年半で参謀総長にまで昇り詰めた。


 1941年6月22日、ドイツが不可侵条約を無視しロシアへ向けて侵攻を開始すると、敵に出血を強いつつ後退して、ドイツ軍を引き寄せるだけ引き寄せて決戦することを主張する。


 ドイツとロシアでは鉄道のレールの幅が異なり、列車を直接乗り入れることができず、積み替え駅で輸送が滞ると読み、ドイツ軍の兵站線が延びきった所を叩こうとしたのだ。


 それには格好の場所があった。


 ドニエプル川とダウガヴァ川は、どちらも北ロシアを源流とするが、スモレンスクの西方で最も接近して幅50キロの地峡を作った後、ドニエプル川は南に流れて黒海に、ダウガヴァ川は北に流れてバルト海に注ぐ。


 それをはるか上空から見ると、北はバルト海から南は黒海まで、大陸を縦断する巨大な漏斗状をなしていて、注ぎ口に当たる地峡地帯で待ち構えていれば、大河に行く手を遮られたドイツ軍を次々と各個撃破することができる。


 壮大な構想だが、この作戦案には、決戦場が首都モスクワから400キロしか離れていないという難点があった。


 緒戦の連戦連敗で動揺した首脳部は、ロシア国境に達する前にドイツ軍を食い止めるべく、ウクライナを決戦の場とし、キエフを死守することに固執する。


 ジューコフは、キエフではドイツ軍が兵站を維持できるため、最終防衛線を置くことは得策ではないと反論を試みた。

 だがロシアでは、首脳部の意向を忖度できない者に居場所はない。

 ジューコフは辞任を余儀なくされた。


 1941年9月26日、キエフは陥落、包囲されたロシア軍の精鋭60万が失われた。

 首都防衛に残されたのは、寄せ集めの応召兵だけだ。


 アメリカのルーズベルト大統領やイギリスのチャーチル首相など、事情に通じた各国首脳は誰もがモスクワ陥落は時間の問題だと考えた。


 ロシア首脳部自身、モスクワを捨て、臨時首都のサマーラへ移る準備を始める。


 だが、急遽呼び戻され、西部戦線司令官に就任したジューコフは、水際立った手腕でドイツ軍を押し戻し、首都を陥落の危機から救った。


 そのジューコフが、このチャンスを見逃すはずはない。

 直ちに天王星作戦を発動し、総攻撃を開始するよう命じた。


 ちなみに、ジューコフが世に出るきっかけを作ったのは、他でもない、関東軍だ。

 

 ノモンハン当時のロシア軍の主力戦車、BT-5やBT-7は、いずれも装甲が20ミリ以下と、97式中戦車の25ミリより薄く、しかるべき距離から撃てば日本軍の41式山砲や98式20ミリ高射機関砲で装甲を貫通できた。充分な量の徹甲弾を揃え、対戦車戦の訓練を積んでいれば、間違いなく勝機はあったのだ。


 敵情把握を怠り、準備不足のまま戦闘に入って大敗を喫し、いたずらに名を成さしめた。


 それを機に昇進を重ねたジューコフは、モスクワ防衛戦を成功させて米国政府の強硬派を勢いづかせ、穏健派の暫定協定案をハルノートに差し替えることにつながった。


 もしも彼がノモンハンで敗れ無名のままに終わり、別の凡庸な将軍が首都防衛に当たっていたら、モスクワは陥落しただろう。

 そうなれば、石油輸出の再開を認める暫定協定案が日本に示され、日米開戦は避けられた可能性が高い。


 歴史の皮肉の一言で片づけるには、あまりにも重い代償だ。


 ちなみに、ノモンハンはロシアにもう一つの奇跡をもたらした。

 関東軍との戦いで、投入した438両の実に6割近く、253両もの戦車を一挙に失い、その記録的な大損害に愕然となったロシア軍は、防御の抜本的な強化を迫られ、重装甲の次期主力戦車の開発に着手した。


 T-34だ。

 ロシアへの侵攻を開始したドイツ軍は、戦場に現れたT-34に驚いた。

 45ミリの傾斜装甲を備え、ドイツ軍の対戦車兵器では歯が立たなかったからだ。

 これを「T-34ショック」という。


 ロシア軍はノモンハンから学び、ドイツ軍を苦しめることになる。


 他方、学ばなかった日本軍は軽装甲の戦車を作り続けた。

 高出力エンジンの製造技術に課題があり、500馬力のT-34のような戦車は無理だったにせよ、130馬力のエンジンで装甲60ミリの車体を駆動するバレンタイン戦車の例もある。


 97式中戦車の重く嵩張る動力系を、98式軽戦車の軽量小型の130馬力エンジンにダウングレードし、浮いた重量を装甲の強化に充てれば、「主力戦車にも容易に撃破されない」重装甲の歩兵支援戦車を作れたのではないか。

 そんな戦車の必要性は、感じていなかったのかもしれないが。


 なお、日本軍の名誉のために付け加えると、陸軍航空隊は、ノモンハンで戦ったロシア軍の戦闘機I-16の優れた急降下性能に刺激を受け、2式単座戦闘機「鍾馗」を生み出すことになる。

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