南太平洋 3
華奢な「ゼロ」とは対照的に、「鉄工所」の渾名があるほど堅牢なF4Fは、急降下に滅法強い。
空母「ホーネット」のF4F戦闘機隊のボウアー中尉は、急降下で「ゼロ」を振り切れば、確実に勝てると教えられていた。
急降下に入ると、速度はみるみるうちに上がる。
時速が600キロに近づいたところで、後方を振り向いた。
まだついてくる。
操縦技術に自信のあるベテランなのか。
650キロを超えた。
まだ、いる。
新型の「ゼロ」かもしれない。
700キロに達したが、依然として背後をとられたままだ。
何度も後方を確認するうちに、速度計の針は750キロを超えた。
F4Fは頑丈で空中分解の心配はないものの、大柄なため空気抵抗が大きく、このあたりが速度の限界だ。
「話が違うじゃないか。どうも様子がおかしい。とはいえ、ここで一気に急上昇すれば、強烈な負荷が機体にかかる。さすがに追いかけては来られないだろう」
ボウワー中尉は、操縦桿を引いた。
その瞬間、銃弾がF4Fに降り注いだ。
主翼が穴だらけになったかと思うと、コックピットの風防が砕け散り、激しくロールして錐揉み状態になった機体は、そのまま海面に激突した。
ボウワー中尉機を撃墜した日本機は、時速800キロをゆうに超えるスピードで急降下から急上昇に転じ、次の獲物へと飛びかかっていった。
この戦闘機は、「ゼロ」こと、零式艦上戦闘機ではない。
陸軍2式単座戦闘機「鍾馗」だ。
坂川敏雄少佐率いる独立飛行第47中隊で、陸軍がガダルカナル島の西部に急造した、戦闘機専用のティナ飛行場から飛来した。
この飛行場は規模こそ小さいが、敵の空襲から戦闘機を守る掩体壕を備え、密林で巧みにカモフラージュされた陸軍仕様の基地で、飛行機がむき出しのまま無防備に並ぶ、海軍のルンガ飛行場とは対照的だ。
他の陸軍機にとっても、「鍾馗」は見慣れない機体だった。
といって、これが初の実戦投入という訳ではなく、開戦早々、マレーシアやミャンマーの戦場に送られてはいる。
だが「鍾馗」は、航続距離が900キロと、3000キロ前後の海軍零式艦上戦闘機や陸軍1式戦闘機「隼」の3割しかないため、地上部隊の進撃が速く、飛行場から戦場が遠く離れてしまったマレーシアやミャンマーでは、ほとんど戦闘に参加できなかった。
そうこうするうちに、アメリカ軍が奇策に出る。
太平洋上の空母から、陸軍の長距離爆撃機B-25を発進させ、東京や名古屋、神戸など、日本の主要都市を爆撃し、そのまま東シナ海を飛び越えて中国蔣介石政権の飛行場に着陸するという、ドーリットル空襲作戦だ。
その狙いは、日本本土の軍事基地と軍需工場に打撃を与えるとともに、蔣介石政権に長距離爆撃機を届けることにあったが、緒戦から連戦連敗が続き、新聞にこっぴどく叩かれた米軍が、世論対策のためにひねり出した、多分にパフォーマンス的な色彩のある作戦だった。
実際にも、軍事的に意味のある戦果は、爆弾1発が小型空母「龍鳳」へ改装中の潜水母艦「大鯨」に命中し、工期を4か月遅らせたくらいのもので、爆撃による日本側の死者84名は逸れた爆弾に運悪く当たった民間人ばかり、それに対し米軍側は、投入した爆撃機16機全機喪失、3名戦死、8名捕虜という結果に終わる。
指揮官のドーリットル中佐は、爆撃機を1機も蔣介石政権軍に引き渡すことができず、軍法会議で作戦失敗の責任を問われると覚悟した。
しかし、米国の新聞が「米軍機日本を空襲」と報じると、「日本に一矢報いた」と世論が沸き立ち、機を見るに敏なルーズベルト大統領はそれに便乗、搭乗員たちに勲章を授与すると言い出して、失敗を成功と取り繕ったのだ。




