南太平洋 2
アリューシャン列島からニューカレドニアまでの距離は、8000キロを超える。
8000キロは、東京から東に向かえばサンフランシスコ、欧州へ向かえばスウェーデンのストックホルム、中東ならイラクのバグダッドという、途方もない距離だ。
1つ1つの上陸作戦には、それなりに軍事的意義があるとはいえ、船舶が不足し、兵站を支える輸送船のやりくりにも苦労する中、8000キロもの長大な戦線へ兵力を分散する、無謀な作戦だった。
この兵站軽視の姿勢は、「食糧が残り少なくなったら、撤退すればいいじゃないか」という海軍の意見に沿ったものだが、船に乗る水兵にとってはたやすいことでも、絶海の孤島に上陸した陸兵は、敵に反撃されると補給も撤退もままならない、という視点が抜け落ちていた。
こうも杜撰な作戦を承認するとは、軍令部も、連合艦隊も、そして山本大将も、何かに酔っていたのだろう。
ちなみに、最後に追加されたアリューシャン作戦とは、第1航空艦隊から空母「龍驤」と「隼鷹」の2隻を分派して、アマクナック島のダッチハーバーにある米軍基地を空襲し、アッツとキスカの2島を占領するというものだ。
もしもこの2隻を分派せず、第1航空艦隊が正規の戦力でミッドウェー海戦を戦っていたとしたら、第2次攻撃隊が直掩機の払底で足止めされることもなく、母艦が被弾する前に離艦し敵空母に向かっていたかもしれず、海戦の様相は一変した可能性もある。
ともあれこの作戦で、1機の零式艦上戦闘機が潤滑油の冷却装置に被弾した。
エンジンの油圧が低下し、母艦まで帰ることが難しくなった被弾機は、救助に当たる潜水艦が待つ無人島を目指すことになった。
新庄飛行兵曹の操縦する被弾機と2機の僚機が、アクタン島の着陸予定地点に達すると、そこには緑に覆われたのどかな草原が広がっていた。
だが、僚機のパイロットは、葉陰にちらちらと光るものが気になった。
「水たまりが日光を反射しているのではないか。下が固い地面ならよいが、水の浮いた湿地帯だとしたら、主脚を出して着陸するとぬかるみに嵌るおそれがある。胴体着陸する方が安全だ」
しかし、まだ19歳と若く、飛行経験に乏しい新庄飛曹は、湿地帯の可能性に気付かないのか、あるいは胴体着陸に自信がないのか、普段通り主脚を下ろして着陸態勢に入った。
警告したくても、零戦の無線電話は雑音がひどく、危険を知らせることができない。
欧米の戦闘機のように、エンジンの点火プラグが発する電磁ノイズを低減、シールドする対策がとられていないため、高速回転するエンジンの電波雑音で、音声がかき消されてしまうのだ。
はらはらしながら見ていると、最初こそうまく着地したものの、しばらく滑走するうちに主脚がぬかるみにとられ、機体はゆっくりと横転して裏返しになった。
敵地に不時着した機体は、機密保持のため、パイロット自身が焼却する規程となっている。
パイロットが戦死した場合は、僚機が銃撃で破壊しなければならない。
2機の僚機はしばらく旋回していたが、新庄飛曹が出てくる気配はなかった。
燃料も残り少なくなり、これ以上待つ余裕はない。
といって、まだ生きているかもしれない20歳前の若者の身体に、銃弾を撃ち込む気にはどうしてもなれなかった。
新庄飛曹が脱出することを信じて、僚機は母艦に帰投した。
日本軍が、米軍基地のあるダッチハーバーから50キロしか離れていないアクタン島を緊急避難場所に選んだのは、米軍の哨戒線から外れていたからだ。
だが、ある日、偶々強風に流された哨戒機が、新庄機を発見する。
米軍が上陸して機体を調べると、新庄飛曹はシートベルトを締めたままの姿で絶命していた。
遺体は現地に埋葬し、機体は米国本土へ運び、詳しく調べることになった。
その結果、機体には損傷がなく、保存状態も良好で、修理すれば飛べることが判明する。
そして、米軍の標識をつけ、見違えるような姿になった「アクタン・ゼロ」は、テスト飛行を繰り返し、詳細なデータが収集され、徹底的に分析された。
米軍機に比べて構造部材の強度が低く、時速600キロ以上の速度で急降下するとトラブルが多発すること、横転のスピードは左方向に比べて右方向が遅いことなど、「ゼロ」の弱点が次々と明らかになる。
結論自体は、太平洋戦線で「ゼロ」と渡り合うベテランパイロットの経験知とさして違いはなかったが、客観的なデータに基づいた詳細な分析結果が、新人を含めて、あらゆる米軍パイロットに広く共有されていった。
ボウワー中尉は、それを聞かされていたのだ。




