インパール 6
第55師団の北を進む、第18師団とインド国民軍第1師団は、タムーに達した。
ミャンマーからインパールへ向かう道路はいくつかあるが、その中でもこのタムーからのルートが最も短く、わずか100キロしかない。
しかも雨季の豪雨に耐える大容量の排水路を備えた、幅20メートルの軍用舗装道路が延びる。
それだけにイギリス軍は、要塞のような防衛陣地をタムーに築いた。
堡塁のみならず、宿舎、倉庫に至るまで、分厚いコンクリートに覆われている。
歩兵では歯が立たないと判断した師団長の田中中将は、野戦砲兵と師団砲兵に命じて、集中砲火を浴びせた。
砲撃が終わり、歩兵部隊が突撃すると、イギリス軍守備隊はあっさり撤退した。
しかも、第2次防衛線と予想されたモレーではなく、一気にシボンまで下がる。
日本軍がシボン周辺の高地を占領すると、今度は西のシェナムへと後退した。
戦意を喪失し、ずるずる後退しているようにも見えたが、実はそうやって日本軍を誘い込むのが作戦だった。
シボンとシェナムの間には、テグノパールという村があり、周囲の高地や稜線に、500メートルから1キロ間隔で陣地や銃座が構築され、要塞と化している。
主たる兵器は、迫撃砲だ。
軍用道路の反対側の斜面に配置し、砲弾の弾道は大きく弧を描いて稜線を越え、真上から落下して広範囲の兵士を殺傷する。
反撃しようにも、山砲などの平射砲では射線が稜線で遮られる。
日本軍を死地におびき寄せ、一方的に砲弾を浴びせて殲滅する作戦だ。
野戦重砲兵や師団砲兵の榴弾砲が頼みの綱で、それを失えば袋叩きにされてしまう。
虎の子の榴弾砲を闇に紛れて運び込み、道路の飯場小屋に隠してカモフラージュした。
テグノパールを守るインド第23師団は、南北4キロに7つの主要陣地を構築していた。
第18師団は、野戦重砲兵第3連隊の96式15センチ榴弾砲と、師団砲兵の91式10センチ榴弾砲で準備射撃を行い、それが終わるやいなや第55連隊と第56連隊が敵正面に突撃を開始した。
それと同時に、第114連隊第3大隊は大きく迂回し、南西高地の陣地を奇襲する。
敵の意表を突いた南西高地への攻撃はまんまと成功したものの、作戦正面のイギリス軍の反撃は凄まじく、戦況は一進一退を繰り返した。
3日かけて北側稜線の石切山陣地を攻略、その翌日に南側の稜線の三角山陣地、2日後には北側の摺鉢山陣地と南側の掩蓋山陣地を奪取する。
1週間かけて、残り2陣地でテグノパール突入というところまでこぎつけた。
ところが、そこから先は、イギリス軍の反撃も苛烈を極め、テグノパールの真北に当たる、一軒家陣地1つを攻略するのに、さらに1週間を費やしてしまった。
道路事情に恵まれた第18師団は、必要なものは随時補給するから、極力身軽にして迅速に進撃せよとの軍司令部の指示を守り、食糧は3週間分しか携行していない。
このままでは、インパールどころか、その手前のパレルにすら到達できず、食糧が底をつく。
補給が途絶えていた。
補給を求めて軍司令部に矢の催促をしていたが、送ったという返事は来ても、肝心の食糧はいつまでたっても届かなかった。
インパールを守るイギリス第4軍団司令官ジェフリー・スクーンズ中将が、ジャングル戦に長けた特殊部隊を日本軍の後方深く送り込み、食糧を運ぶ輜重隊を襲わせていたのだ。
なかなかの着眼点だった。
同じ輜重隊でも、武器弾薬を輸送する部隊に比べて、食糧を運ぶ部隊の戦闘力は劣る。
しかも峨々たる山岳地帯、輜重隊が進むルートは限られる一方、攻撃する側が待ち伏せに潜む場所には事欠かない。
携行食糧の少ない日本軍は、たちまち飢えはじめた。
第18師団は、再び敵正面を迂回することにして、第114連隊第2大隊の川合少佐に、シェナムとテグノパールの中間にある、ライマトルヒル攻略を命じる。
1個大隊が単独で敵陣深く侵入するという決死の作戦だ。
行軍は困難を極めると予想された。
だが夜を待ち、暗闇の中を英軍の敷設した電話線を辿って進むという判断が功を奏する。
思いのほか順調に進み、夜が明ける前に攻撃待機地点に到達した。
ライマトルヒルは、イギリス軍の陣地群の最高峰で、塹壕がひな壇のように重なり、至る所に掩蓋が設けられている。
川合大隊は、日の高い間は、物陰から敵陣を偵察して攻略ルートを検討し、暗くなるのを待って前進を開始した。
第3中隊の佐々木少尉も、暗闇の中、匍匐前進で敵陣に近づいた。
最前線というのに、周囲は静寂に包まれ、木の葉が風にそよぐ音さえ聞き取れる。
嵐の前の静けさだった。




