インパール 1
大本営陸軍部はミャンマーの第15軍に対し、21号作戦ならびに31号作戦の発動を下令した。
攻略目標は、ベンガル湾に臨む港湾都市チッタゴンと、インド北東部の要衝インパールだ。
雨季がまだ明けきらないうちに、第3航空軍がチッタゴン、コルカタ、パレル、インパールへの空襲を開始した。
チッタゴン攻略には、第33師団、インパールには、第55師団、第18師団、第15師団、第31師団が投入される。
第33師団は、ミャンマー有数の港湾都市シットウェに陣を張った。
第55師団は、ガダルカナル島に南海支隊として分遣していた第144連隊の復帰を待ち、南方からインパールへ突入すべく、マンダレーを発ってカレーワに移動する。
皇室の紋章「菊」を兵団名に冠し、国軍最強をもって自他ともに許す第18師団は、タムーからインパールへと続く、幹線道路の攻略を任された。
もっとも、師団長の牟田口廉也中将がインパール攻略は時期尚早と強硬に反対したため更迭され、後任の田中新一中将の着任を待って進撃を開始する。
中国戦線から別命を帯びて派遣された第15師団は、北方からインパールを襲うルートを指示され、荷ほどきもそこそこにヤンゴンからパウンビンへ急いだ。
別命とは、作戦終了後、第15軍の他の師団と別れて北上し、アッサム地方のティンスキアを攻略、ヒマラヤ山脈を越えて中国の昆明へ軍需物資を空輸する、援蔣ルートを覆滅すべしというものだ。
第31師団は、この作戦のために新設された師団だ。
第18師団から西太平洋のパラオへ分遣されていた第124連隊と、中国戦線の第13師団から抽出された第58連隊、第116師団から抽出された第138連隊という編成で、特務機関が拠点を置くクンダン村に近いタマンティに集結した。
この師団の攻略目標はインパールではなく、チン丘陵からナガ山地に連なる険しい山岳地帯を越えた先にある、イギリス軍の補給拠点、コヒマだ。
一言で「進撃ルート」といっても、そこには雲泥の差がある。
インパールは国際的な交通の要衝であり、ミャンマーからも大小様々な道路が通じている。
第55師団は、イギリス軍の戦車が待ち構える堅固な道路を進む。
第18師団が入るのは、雨季の豪雨にも耐える排水路を備えた、幅20メートルの軍用舗装道路だ。
そして第15師団が歩む道は、それらに比べればはるかに貧弱とはいえ、それでも工兵の拡幅工事でトラックが通行可能と見込まれていた。
他方、インパールの北方、コヒマへのルートに道らしい道はない。
第31師団が辿るのは、3000メートル級の山々が連なる中に点在する、山岳民族の村々をつなぐ細い山道だ。
道路事情の違いは、砲兵に現れる。
第55師団は94式山砲や91式10センチ榴弾砲などの師団砲を備え、第18師団はそれに加え、96式15センチ榴弾砲を擁する野戦重砲兵も同行する。
それに対し、第15師団や第31師団は、悪路のため師団砲を途中のフミネに残置せざるを得ず、軽量の41式山砲が頼りだ。
第31師団は、特務機関長の宮崎少将が、師団長心得として指揮を執ることになった。
この抜擢は、インド国民軍とミャンマー国防軍を、大東亜共栄圏の多国籍軍、通称「フリーダム・フレンドシップ・ファイターズ(自由友愛同盟軍)」として育て上げた功績によるもので、同盟軍の総司令官を兼務する。
同盟軍の参謀長はインド国民軍のモハン・シン少将、参謀副長は「Fの旗」の生みの親である福沢中佐だ。
チャンドラ・ボースは、インド国民軍最高司令官に就任した。
ギル大佐率いる第1師団は、第18師団とともにタムーからインパールを目指し、ボンスレー大佐率いる第2師団は、第33師団とシットウェからチッタゴンへ進む。
ミャンマー国防軍は、ミッチーナーを出撃し、フーコン渓谷に出没する山岳民族のゲリラ討伐に向かった。




