シンガポール 13
1942年8月13日 シンガポール
インド独立を目指す急進派のリーダー、スバス・チャンドラ・ボースが、東京からシンガポールに到着した。
インド独立運動の指導者としては、「マハトマ(偉大なる魂)」の尊称で知られるガンジーが有名だが、非暴力主義を説く穏健派のガンジーとは対照的に、チャンドラ・ボースは武力闘争による独立を唱え、「ネタージ(導く者)」の異名を持つ。
亡命先のドイツで、アフリカ戦線で捕虜となったインド兵を集め、連隊規模の「自由インド軍団」を編成し、インドに上陸して武装蜂起しようとしたが、ロシアとの死闘を繰り広げるドイツにその余裕はなく、焦燥の日々を送っていた。
そうこうするうちに日本が参戦すると、瞬く間にイギリス軍を撃破、マレーシア、シンガポール、ミャンマーを席巻してインド国境に迫る。
さらに、ドイツ駐在武官の日下部大佐から、2個師団の「インド国民軍」が創設されたと聞かされ、居ても立っても居られなくなったチャンドラ・ボースは、急ぎベルリンから東京へ飛び、東條首相や杉山陸軍大臣らと直談判におよんだ。
そしてインド独立への賛同と協力をとりつけ、シンガポールに乗り込んできたのだ。
空港で出迎えた一団の中には、白石大佐の姿もあった。
杉山陸相は、インドに駐在武官として赴任したことがあり、国民会議派にも知己が多く、インドの政治家と意気投合しても驚くには当たらない。
だが東條首相は、インド独立など夢物語にすぎないとして、チャンドラ・ボースとの面会に消極的だったにもかかわらず、一度顔を合わせると、すっかり虜になったらしい。
東條首相は、施政方針演説で「大東亜共栄圏建設」を打ち出したことから、大言壮語の人と思われているが、実は大風呂敷を嫌う実務家タイプの軍事官僚だ。
「大東亜共栄圏建設」にしたところが、構想を描いたのは他ならぬ白石大佐で、それを聞いた東條首相は、当初、「また白石が大口を叩きおって」と鼻で笑っていた。
ところが、いざ米英に宣戦を布告する段になってみると、それまでの政府声明や施政方針は、中国における権益を守ることに終始し、両大国に世界大戦を挑む大義名分としては、いかにも視野が狭く、底が浅い。
何かそれらしいスローガンはないかと探し、「東アジアの植民地解放」を掲げることにしたものの、日本の軍事力をもってすれば、植民地政府の打倒は難しくないにせよ、それだけでは宗主国に経済という生殺与奪の権を握られたままで、独立など絵に描いた餅にすぎない。
経済的基盤の裏付けが必要だ。
そこで、白石大佐の「大東亜共栄圏建設」構想を思い出し、急遽、木に竹を接ぐように書き加えたのだ。
泥縄もいいところだ。
あの土壇場でそこまで頭が回るくらいだから能吏ではあるが、それ以上の人ではない。
そんな東條首相を、インド独立などという雲をつかむような話でその気にさせるとは、チャンドラ・ボースこそ只者ではあるまい。
白石大佐は、彼がどれほどの人物か、見極めようとした。
チャンドラ・ボースは、ガンジーやネルーと並び称される、インド政界の大物中の大物だ。
4年前、インド最大の政治勢力、国民会議派の議長に就任している。
てっきり重厚な政治家が現れるものと思っていたが、実際の彼は、同い年の45歳と意外に若く、彫りの深いインド・アーリア系の顔立ちに、ムガール帝国時代のモンゴルの面影がほのかに匂う、端正な容貌の男だった。
イギリスが最初に植民地としたベンガル地方の出身で、弾圧と抵抗の長い歴史を通して絶え間なく燃え続けた怒りと、最上流階級のバラモンという育ちの良さが醸し出す品位を併せ持ち、瞳には幾度もの投獄に耐え、砂漠を徒歩で越えて亡命した、鋼鉄の意思が底光りしている。
力強く張りのある声で語る言葉は理路整然として澱みがなく、気宇壮大な話をする時でも現実感を損なうことがない。
宗教対立が激しいインドの政界で、ヒンズー教徒のリーダーでありながら、副官にわざわざイスラム教徒を選ぶという懐の深さもある。
在日活動家の長老、ラース・ビハリ・ボースは、日本側にこそ重宝されているものの、亡命生活が長く、インド本国では知る人も絶え、独立運動の現場からは「終わった人」とみなされていたが、あえてインド独立連盟の最高顧問の席を用意するなど、気配りも行き届いている。
白石大佐は、これまでにも米国のルーズベルト大統領やハル国務長官をはじめ、各国の要人と渡り合ってきたが、チャンドラ・ボースには、彼らとは隔絶したカリスマ性を感じた。




