ミャンマー 3
1942年3月8日 ミャンマー ヤンゴン
第33師団215連隊の先遣隊がヤンゴンに突入すると、イギリス軍は既に撤退していた。
12日、穂積大佐と独立義勇軍もヤンゴンに入った。
志願者が続々と集まり、義勇軍の兵士の数は1万2千に達していた。
3月25日、ヤンゴン駅前のサッカー場で、ミャンマー独立記念式典が開催された。
タキン・ミヤ行政府長官が、高らかにミャンマーの独立を宣言、アウンサン少将率いる独立義勇軍の精鋭5千が観兵式を挙行し、ヤンゴン市民は総出でそれを祝った。
独立義勇軍は、祖国をイギリスの植民地支配から解放した英雄として、爆発的な人気を集める。
4月8日、ミャンマー独立義勇軍は、アウンサン少将の陣頭指揮のもと、先行する日本軍に続き、ピイ街道に沿って北上を開始した。
大勢のヤンゴン市民が、歓声を上げて彼らの出撃を見送った。
独立義勇軍が町や村に着くたびに、アウンサン少将は付近の住民を集め、「この進軍は、イギリスからの独立と、民族解放の戦いである」と演説し、聴衆を熱狂させた。
4月12日、ミャンマーの正月行事である水祭りが始まる日に、ピイに入城する。
水祭りは、雨季の初めに雨を呼ぶ祭りだ。
ピイ市民は、様々な容器に水を入れて入城する兵士に振りかけ、兵士たちはずぶ濡れになってはしゃぎ、華やいだ声が町中を覆った。
ピイを発った独立義勇軍は、200キロ北上したイェナンジャウンでエーヤワディー川を渡河、100キロ離れたパコックーで、マンダレーから敗走してきたイギリス軍部隊と遭遇する。
それまでの戦いで自信を深めていたアウンサン少将は、直ちに攻撃を命じてそれを撃破、さらに70キロ追撃して敗残兵を追い散らした。
マンダレーの北80キロのシュエボーで別働隊700を分離すると、本隊はそのまま北東へ400キロ進んでバモーに入城し、イギリス軍が武器を与えた山岳民族のゲリラを掃討しながら北上を続け、フーコン渓谷を臨むミッチーナーとモガウンに陣を構えた。
他方、本隊と別れた別動隊700は、インド国境に近い、チンドウィン河畔のホマリンを目指した。
ホマリンは水運の要衝で、白亜の洋館やバンガローが建ち並ぶ、瀟洒な町だ。
マンダレー北方350キロのマウハンまでは鉄道を使い、そこから先は道らしい道のないジャングルを切り開きながら、西へ200キロを踏破し、ようやくホマリンに到着した。
だがそこは、焼け焦げた柱と崩れた壁だけが残る、廃墟となっていた。
戦禍で水運が途絶えたため、住民が逃げ去り、誰一人として残っていない。
とても駐屯できる状態ではなく、さらにチンドウィン河を80キロ遡り、5月25日、タマンティに入った。
タマンティは、地元のミャンマー人もめったに近寄らない奥地で、首狩り族が出るという噂もあったが、密林に隠れて山岳地帯へ逃げ込もうとする英軍の退路を断つには、絶好の地勢だ。
その頃、首都ヤンゴンでは、穏健派のバー・モウ博士を首相とするミャンマー政府が正式に発足し、独立義勇軍はミャンマー国防軍と名を改めた。
国防軍の司令官兼第1師団長はアウンサン少将、第2師団長には大佐に昇進したネ・ウィンが就任した。




