ミャンマー 1
ミャンマーは、東西900キロ、南北2000キロ、日本の1.7倍にもおよぶ広大な面積を誇る。
だが、イギリス軍がそこに配置したのは、ビルマ第1師団とインド第17師団の2個師団に過ぎず、しかもその実態たるや、イギリス兵が4千、インド兵が7千、残りは様々な山岳民族の寄せ集めに過ぎなかった。
マレー半島の南部に、13万もの大兵力を展開したことに比べると、驚くほど貧弱だ。
兵力が極端に少ないのは、国境が天然の要害をなしているからだ。
険しい山脈が連なり、渓谷は急流が岩を噛み、人跡未踏の密林がどこまでも続く。
イギリス軍が想定した日本軍の侵攻ルートは、タイのバンコクからマレー半島を700キロ南下、最も狭く踏破しやすいクラ地峡で国境を越え、アンダマン海に面するコータウンに出て、そこから海岸沿いに首都ヤンゴンまで1300キロを北上するというもので、兵站線の長さは2000キロに達する。
道路が整備された北アフリカですら、ロンメル将軍が兵站線の2000キロの長さに悩まされ、補給に四苦八苦したことを思えば、マレー半島の未整備な道路で2000キロの補給を維持することがいかに困難か、容易に予想できる。
イギリス軍は、兵站線が延びきったところで日本軍を撃破すべく、首都ヤンゴンとモーラミャインに兵力を集中し、待ち構えていた。
だが日本軍は、イギリスの予想を覆し、タイ北部の険しい山岳地帯を横断することを選んだ。
このルートは、移動距離こそ短いものの、峩々たる山々と鬱蒼としたジャングルを踏破しなければならない。
そのため、日本軍は補給を武器弾薬に限定し、食糧は現地調達に頼るという、無謀ともいえる作戦をとった。
それでも兵站が破綻しなかったのは、ミャンマーの地下組織が食糧を事前に手配していたからだ。
イギリスの激しい弾圧により、長い間休眠状態にあったミャンマー独立運動の地下組織は、1941年2月、アウンサンが一時帰国し、主要都市に武装蜂起の拠点を築いたことで、生気を取り戻した。
それから10か月、地下組織は急速に成長し、12月に日本軍がマレー半島に上陸する頃には、各地の拠点が独自に資金や食糧を調達し、宣伝や後方攪乱を行うまでに力をつけていたのだ。
日本軍が国境を越えてミャンマーに進攻すると、各地で歓呼の声に迎えられた。
行く先々で現地住民が道案内を買って出て、ヤシの実や板砂糖、湯茶を提供してくれる。
川に達すると、100人乗りの大きな舟が何艘も待機していて、住民総出で渡してくれる。
深夜に行軍すれば、水の入ったコップや、火のついたタバコが、次々と差し出された。
1942年1月19日、マレー半島の付け根にある、アンダマン海に臨むダウェイが、第55師団の一個大隊の速攻により陥落した。
特務機関はすぐに臨時自治政府を樹立し、2週間後には市場が再開、定期バスの運行も始まって、市民生活は平穏を取り戻す。
1月20日、タイ北部から国境を越えた第33師団と第55師団主力は、30日にモーラミャインを攻略し、2月20日、首都ヤンゴンの北東80キロのシッタン河東岸に達した。
乾季のため水量は減っていたが、それでも川幅は500メートルあり、対岸にはイギリス軍1万が首都を守る最終防衛線を敷いている。
両軍は決戦を期して睨み合った。




