海南島
1941年4月30日 東シナ海
坂上少尉は、台湾行きの民間の貨客船で、次の任地へ向かっていた。
転属は軍人につきものだが、今回はいささか趣が違う。
道中、軍人であることを誰にも悟られてはならないと、厳命されたのだ。
もっとも、陸軍中野学校で諜報謀略活動の訓練を積んだ者にとって、そんなことは造作もない。
入校した時から髪の毛を伸ばし、七三に分けて整髪料で固め、スーツを着慣れているから、その辺りのサラリーマンと見分けがつかないはずだ。
台湾の台北に着くと、飛行機に乗り換えて海南島に向かった。
海南島は、インドシナ半島のトンキン湾に浮かぶ、九州より少し小さな島だ。
その南端にある海軍の三亜基地で飛行機を降り、トラックに乗り替えた。
基地の周囲にはわずかに水田もあったが、すぐに鬱蒼とした密林に入る。
トラックは、昼なお暗いジャングルを走り続けた。
日暮れが近づき、今夜は野宿かと思い始めた頃、ようやく切り開かれた空き地に出た。
そこには、バラックが3棟立っていた。
エンジン音を聞きつけたのか、若者が何人か出てくる。
一見して日本人ではない。
民族独立を目指し、軍事技術を身に付けて武装蜂起すべく、植民地政府の弾圧と監視を逃れて亡命してきた、ミャンマーの若者たちだ。
その中に、ひときわ目立つ屈強な青年がいた。
後のミャンマー国防軍初代司令官で、独立の父と呼ばれることになるアウンサンだ。
訓練は、3班に分かれて行われた。
第1班は、中隊以下の兵士を指揮・訓練する現場指揮官
第2班は、ゲリラ戦、謀略破壊活動などの非正規戦を行う
指揮官
第3班は、大隊、連隊から師団までの作戦を担う幹部
指揮官
坂上少尉は、第1班の副長として、班長の百地中尉を補佐することになった。
ミャンマー人たちは、年齢こそ若いが、いずれも独立運動を戦い抜いてきた猛者ばかりで、政治闘争においては百戦錬磨の実力者揃いだ。
ところが、こと軍事に関しては、日本なら中学校で履修する程度の軍事教練も受けておらず、誰一人として銃を撃ったことすらない。
イギリスは、民族や宗教、階級で社会が分断されているインドでは、一部の現地住民を訓練して軍隊を編成したが、ビルマ族が過半を占め、独立志向が強いミャンマーでは、一切武器を持たせなかったのだ。
そんな素人に、陸軍士官学校で3年かけて教える軍事教程を、2ヵ月で身につけさせるというのだから、驚くほかない。
しかも訓練に使う兵器は、ドイツ製の拳銃、チェコ製の機関銃、フランス製の迫撃砲など、様々な国のものが入り乱れていた。
日本が宣戦を布告する前に、日本製の武器で武装蜂起させるわけにはいかない、というのがその理由だ。
そのため、教わる方はもちろん、教える方も慣れるまで時間を要した。
もっとも、いかにも小役人的なこの方針にも、意外なメリットがあった。
蔣介石政権が各国から輸入した最新鋭の武器弾薬を、中国戦線で大量に鹵獲したため、それをミャンマーの若者たちに惜しみなく与え、日本軍では考えられないほどふんだんに実弾を使った訓練ができたからだ。




