シンガポール 12
福沢少佐は頷いた。
「なるほど、あの日、米国が暫定協定案を捨てて、ハルノートに切り替えたのは、そういうことだったんですか。彼らの立場からすれば、分からなくもないですが」
「間の悪いことに、日本側も連合国の外交暗号の解読に成功し、米国の用意している暫定協定案が民生用の石油の輸出再開を認めるもので、各国もそれに同意したことを知る。
陛下から開戦方針の白紙撤回を求められていた東條首相は、これで戦争は回避されたと安堵したし、外務省はこれこそ外交努力の賜物と胸を張った。
ところが、11月26日に手渡されたのは、暫定協定案とは真逆の、それまでの合意事項を全て反故にする、強硬なハルノートだ。
積み上げてきた交渉成果を一切無かったことにされ、面目丸潰れとなった外務省は、怒りに震えた。
『アメリカの行為は、国際的な信義に反する裏切りであり、このような無礼を甘受するならば、日本に国際社会で生きていく資格はない』とまで思い詰めた。
そして、戦争を止める者が誰もいなくなった」
「しかし怒りに震えたという割には、外務省は、12月8日にアメリカへ手渡す文書を、宣戦布告でもなければ最後通告でもない、単なる交渉打ち切りの通知に格下げしたり、通知の伝達を真珠湾攻撃の後へ遅らせたり、ずいぶん腰砕けの印象もありますね」
「それは外務省の深謀遠慮だ。
万一戦争に敗れた場合、陸海軍は武装解除され、組織として体をなさなくなるかもしれないが、外務省は生き残り、敗戦交渉や戦後処理といった責務を果たす必要がある。
だから、開戦の全責任を陸海軍に負わせ、外務省は表に立たないようにしたんだ。
だが、ルーズベルト大統領が『真珠湾の騙し討ち』と罵ったのは、通知が真珠湾攻撃の後になったからじゃない。
日本は真珠湾攻撃の1時間以上も前に、イギリス軍と戦闘を始めているんだ。
もし日本が逆の立場だったらどうだ?アメリカがドイツと交戦し、その1時間後に日本が攻撃を受けたとしたら、宣戦布告が何時に届いたかなんて誰が気にする?
ルーズベルト大統領が罵ったのは、『交渉終了の通知』という、法的に何の意味もない紙切れで戦争を始めた点だ。
不可侵条約を結びながら、その破棄すら通告することなく、ロシアへ侵攻したドイツと同類の、国際法を顧みない外道と、口を極めて非難した。
アメリカ人は、日本人が思う以上に、法秩序を破壊する者に敏感だ。
多民族国家で、様々な文化や価値観が交錯するアメリカにとって、社会を成り立たせる唯一の共通基盤が法律だからだ。
ルーズベルト大統領が、『日本は、ドイツがロシアに対して行ったと同様の蛮行を、こともあろうにこのアメリカに対して行った、無法極まるならず者だ。日本に国際社会で生きていく資格などない。正義の鉄槌を下さねばならない』と叫ぶと、米国市民は激高した。
外務省の軽率な判断が、米国の市民感情の地雷を踏んでしまったんだ。
外務省は、もっと勉強してもらわないと、危なっかしくて見ていられない」
福沢少佐は、ふと気がついて、思わず声を上げた.
「ちょっと待ってください。そうだとすると、外務省の四国協商論、陸軍の北進論、海軍の南進論、この3点セットが、全面石油禁輸から戦争へ繋がるレールを、自ら敷いてしまったことになりませんか?」
「その通りだ。外務省や陸海軍は、それぞれ別個に戦略を検討する。
国家戦略と称するものも、それぞれの戦略を総花的に併記するだけだ。
それらを組み合わせた時にどんな化学反応が起きるか、誰も考えようとはしない。
そこで思考停止するから、日本の戦略音痴がいつまでたっても治らないんだ。
日米間に武力衝突が不可避な国益の対立など無かった。
この戦争は、宿命ではない。
戦略音痴と外交音痴が、誤解と錯覚を積み重ねたあげく、袋小路に迷い込んだだけだ。
だが戦争は、一旦始めると、たちまち制御不能となるモンスターだ。
世界を破滅させる前に、一刻も早く終わらせなければならない」
窓の外では曉雲の辺縁が朱に染まり、南国の夜がようやく明けようとしていた。




