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シンガポール 11

 白石大佐は、葉巻の香りを味わうように、ゆっくりと煙をくゆらせた。

 暖炉の薪の匂いに柑橘系の香りが加わり、赤ワインの渋みと蜂蜜の甘味が感じられる。


「唯一、中国蔣介石政権だけは暫定協定案に反対したんだが、既に日本軍と交戦中の彼らにすれば、共に戦ってくれる国が多ければ多い方がいいのは当たり前の話で、ルーズベルト大統領も、それは最初から織り込み済みだった。


アメリカが11月26日に態度を急変させたのには、ロシアの戦況が絡んでいる。


それまでルーズベルト大統領は、モスクワは遠からず陥落するとみていた。

ロシア政府はウラル山脈の東へ敗走することになるだろうが、そうなっても降伏して四国協商に応じたりしないように、あれこれ善後策を検討していたんだ。


日本に対しては、ロシアへの侵攻を断念する見返りに、石油の輸出再開に加えて、満洲国の承認や蔣介石政権への和平勧告というアメを与えるつもりだった。

11月25日まで、日米交渉を続けていたのは、そのためだ」


「11月といえば、極東ロシアの戦力がモスクワ防衛戦に投入されたのが、その頃でしたね」


「絶好のタイミングだった。

ドイツ軍は、ロシア兵がそろいもそろって足の実寸より大きなサイズの軍靴を履いているのを見て、靴もまともに支給できないと馬鹿にしていたが、ドイツ式の足にぴったりした革靴では、断熱材を入れる隙間がなく、冬になって凍傷になる兵士が続出した。銃火器も、潤滑油が凍りついて動かなくなってしまった。


それに比べて極東ロシアのシベリア師団は、フェルト生地の雪靴に紙を詰めて保温し、耳覆いのついた毛皮の帽子を被り、分厚い防寒服の上に雪迷彩の白いオーバースーツを羽織る。

銃火器の潤滑油は寒冷地仕様だし、作動部分は保温カバーで覆うという念の入れようだ。


厳冬のロシアの雪原で、凍えるドイツ軍に夜襲をかけ、何度も痛い目にあわせた。


そうこうするうちに、11月26日の未明、それまで風前の灯と思われていたモスクワ戦線から、驚くべき朗報がもたらされる。


極東ロシアの戦車師団が、ドイツの装甲集団を撃退したという知らせだ。


米国の対日石油禁輸を受け、シベリアから西送された第58戦車師団が、全滅に近い損害を出しながらも、ドイツ第3装甲集団を押し返し、首都を陥落の危機から救ったというんだ。


もっともこれは、『対日石油禁輸がモスクワを救った』という、いかにもルーズベルト大統領が喜びそうなニュースを、有頂天になって報じたモスクワ駐在の早とちりだった。


ドイツ軍が一旦後退したのは事実だが、鍔迫り合いはその後も繰り返され、モスクワ前面のドイツ軍が攻勢を諦めて守勢に転ずるのは、11月30日になってからだ。


前進を続ける別動隊もいたし、11月26日の時点で『モスクワ陥落の危機は去った』と決めつけるのは時期尚早だった」


「とはいえ、ドイツ軍の破竹の進撃という、それまでの流れが変わったという意味では、当たらずといえど遠からずとはいえるかもしれませんね」


「思いがけない快報を受けて、ホワイトハウスは喜びに沸き、高揚感に包まれた。

その熱気の中で、強硬派が発言力を増す。


『日米交渉をこれまで継続していたのは、モスクワが陥落した場合の保険だったはずだ。

その危機が去った今、もはや日本に遠慮する必要はない。


もともと経済が脆弱な上、4年にもおよぶ中国との戦争で疲弊した日本が、それでも強気でいられたのは、ドイツを後ろ盾とする四国協商戦略があってこそだ。


そのドイツがロシアで躓き、四国協商戦略も潰えた。今や日本は、絶望の淵に沈んでいる。

ここで断固たる態度に出れば、必ず屈服する』というわけだ。


もちろん、穏健派は、『そんなことをしたら、戦争になる』と反対した。


だが、強硬派は、

『日本に少しでも勝機があったとすれば、ドイツ軍がモスクワに向かって快進撃を続けていた間だ。その覚悟があるのなら、全面石油禁輸という宣戦布告に等しい経済封鎖を受けた時点で、自衛戦争を掲げて武力行使に踏み切ったはずだ。


それなのに、日本はその可能性を示唆すらしなかった。

平和主義なのか、腰抜けなのかわからないが。


いずれにせよ、ドイツがモスクワ攻略に失敗した今、日本が参戦しても勝つ可能性は皆無だ。

そんな選択をするはずがない』と主張して譲らなかった。


信じ難いほどの外交音痴だ。

だがあの時、アメリカが暫定協定案を捨てて、ハルノートに切り替えたのは、これが理由だ」

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