シンガポール 10
福沢少佐は、話題を変えることにした。
「全面石油禁輸が日米両国間の緊張を高めたにせよ、最終的に開戦の呼び水となったのはハルノートです。なぜアメリカは、11月26日というあのタイミングで、日本にハルノートを突き付けて来たんでしょうか?最初から原理原則を貫き通すつもりで、妥協の余地が一切無かったのなら、それまで日米交渉を続けていた意味がわかりません。開戦直後の米軍の右往左往振りをみると、臨戦態勢が整うのを待っていたというわけでもなさそうですが」
「知っていると思うが、アメリカの外交は、穏健派と強硬派の間を揺れ動くんだ。
交渉で合意を積み上げる穏健派と、原理原則を振りかざす強硬派だ。
11月25日までは穏健派が主導して、3か月分の民生用の石油の日本への輸出を認める暫定協定案を準備していた。
もともとルーズベルト大統領は、民生用の石油については輸出を認めるつもりだった。
そうしないと、日本に自衛戦争の大義名分を与えてしまうからだ。
『経済封鎖は戦争行為であり、パリ不戦条約に違反する。
対象となった国家は、条約の遵守を免除される』
これは、米国上院外交委員会がパリ不戦条約を批准する際、当時の国務長官のフランク・ケロッグが行った議会証言だ。パリ不戦条約は、別名を『ケロッグ=ブリアン条約』というくらいで、彼こそが条約の本家本元だ。そんじょそこらの外交官とは、言葉の重みが違う。
全面石油禁輸は経済封鎖だから、パリ不戦条約に違反する戦争行為だ。
日本は自衛権を発動し、合法的に武力を行使することが認められる。
そんなことになったら、アメリカにとって最悪の展開だ。
ルーズベルト大統領には、そのつもりは微塵もなかった。
全面石油禁輸は、国際法を知らない強硬派が、大統領の意図に反して暴走しただけだ。
そしてそれは、日本にとって千載一遇のチャンスだった」
「なるほど、『全面石油禁輸は戦争行為だ。米国のパリ不戦条約違反に対し、日本は自衛権を発動する用意がある』と叫べばよかったというわけですね」
「その通りだ。そうすれば、強硬派は窮地に陥る。戦争行為には、米国議会の承認が必要だ。
ルーズベルト大統領にとって、選択肢は2つある。
1つは、戦争行為として、議会に承認を求めることだ。
だが、もし戦争行為と認めたら、米国が日本を攻撃したことになり、三国軍事同盟に基づいてドイツが参戦し、ヨーロッパの戦争に巻き込まれてしまう。
1年前、欧州の戦争に参戦しないことを公約して、史上初の大統領3選を果たしたルーズベルトにとって、議会にそれを求めることは政治的自殺に等しい。
もう1つは、単なる運用上のミスとして、民生用の石油の輸出を認めることだ。
そうなれば、日本は石油を引き続き輸入でき、戦争は避けられる。
こんな簡単なことに、外務省は気が付かなかったのか?
そんなはずはない。しかし、なぜか天祐ともいえる好機を見過ごした。
事を荒立てたくなかっただけかもしれないが、その結果、開戦の責任を負わされるのが、経済封鎖という戦争行為に出た米国ではなく、された側の日本になってしまった。
こんな馬鹿な話があるか」
白石大佐は、窓から中庭を眺めた。
鬱蒼とした樹々の上に、下弦の月が浮かんでいる。
「話を暫定協定案に戻そう。アメリカは、協定案を各国に打診した。
オランダやオーストラリアは賛成した。
このまま全面石油禁輸を続ければ、日本軍がオランダ領インドネシアの油田を狙って南進するのは時間の問題で、そうなると地続きのオーストラリア領パプアニューギニアも対岸の火事では済まなくなる。オランダもオーストラリアも、戦争には巻き込まれたくないのが本音だ。
イギリスは、ジレンマに陥った。
日本が南進すれば、大英帝国の要衝シンガポールが矢面に立たされる。といって、日本軍が輸入した石油を使って北進し、ロシアを降伏させたら、今度はイギリス本土が戦場になりかねない。
迷った末に、『石油の輸出再開には異論もなしとしないが、諸般の情勢を勘案し、今回の暫定協定案には賛成する』と回答した。
イギリスやロシアがアメリカに期待していたのは、何よりも対独参戦と軍需物資の援助だ。
三国軍事同盟の条文上、日本がアメリカを攻撃しても、ドイツに参戦の義務はない。
日米開戦後、すぐにドイツがアメリカに宣戦を布告したから、もう忘れている向きも多いが、あの時点では、そうなる保証はなかった。
日米が戦争になっても、ドイツが参戦しなかったら、欧州と太平洋で別々の戦争が独立して行われることになり、貴重な軍需物資が太平洋で浪費されてしまう。そんなリスクは、できるだけ避けたかったんだ」
福沢少佐は、狐につままれたような顔になった。
「各国は暫定協定案に賛成していたんですか。後はそれを日本に提示するだけで、戦争は避けられたわけですね。そうなると米国は、わざわざ各国の意向を聴きながら、敢えてそれを無視して日米開戦の引き金を引いたことになります。なぜそんなことを」




