シンガポール 9
白石大佐は木箱から葉巻を1本取り出すと、端をシガーカッターで切り落とし、火をつけた。
イギリスのチャーチル首相が愛用している銘柄らしい。
「時系列に沿って、もう少し詳しく説明しよう。
6月22日、ドイツがロシアに侵攻した。
7月2日、御前会議が関東軍特種演習(北進)と、フランス領南ベトナム進駐(南進)を決定する。
7月5日、驚いたことに、イギリスが南進に懸念を表明してきた。
国家機密である御前会議の決定事項が、わずか3日で洩れたことに腰を抜かした陸軍は、慌てて南進の準備作業を中止する。
他方、北進にクレームが入ることはなかった。
7月7日、予定通りに動員令が下る。
だが、実はこちらも筒抜けだった。
7月9日、アメリカはイギリスに、日本の北進を阻止するため、在米資産凍結と石油禁輸に踏み切る意向を伝え、了承を求める。
イギリスは、慌てた。『そんなことをすれば、日本が石油を求めて南進しかねない。こちらは、つい先日、南進を封じたばかりだ。それを台無しにするつもりか』と反対した。
だが、アメリカは、『日本は今、満州にあらんかぎりの兵力を集めている。南方に割ける兵力はごくわずかで、シンガポールに脅威を与えるようなものではない。心配は無用だ』と説得した」
福沢少佐が呟いた。
「なるほど、それなら確かに辻褄が合いますね。石油禁輸は、北進の阻止が目的だったのか」
白石大佐は、言葉を続けた。
「すぐに、北進の動員が始まった。
7月13日、関特演第1次動員開始。
7月16日、第2次動員開始。
7月18日、ホワイトハウスが日本の在米資産凍結を正式に機関決定。
7月23日、満州への本格的な兵員輸送開始。
それを察知したロシアはアメリカに、資産凍結をすぐに発動するよう急かした。
だが、アメリカにしてみれば、関特演を理由に資産凍結を発表するわけにはいかない。
日本は関特演に関して緘口令を敷いているから、アメリカが入手した情報は、すべて諜報活動で得たものだ。それが表に出ると、日本の中枢に潜り込ませた貴重な情報源を危険にさらしかねない」
「そんなスパイがいるんですか?」
「我々のスパイだって、米国が極秘にしている原子爆弾開発プロジェクト(後のマンハッタン計画)の存在を掴み、その動向を探っているし、ロンドンの連合参謀本部にも、情報源が入り込んでいる。そんなことは、お互い様だ」
「それはそうですが」
「英国が南進に警告した時には、諜報機関の息のかかった新聞社に情報をリークして、アジア拠点の独自取材を装ったスクープ記事を書かせ、それを読んで驚いたふりをした。
日本の防諜機関が、その新聞社のアジア拠点をいくら捜査しても、そこから日本の中枢に潜む本当の情報源に辿り着くことはできないようにしたんだ。
よくある小細工だが、日本の南進がイギリスの植民地を脅かすからこそ、衆目を集めるスクープ記事が書けるわけで、日本が北進してロシアと衝突しても、敵性国家同士の諍いに過ぎず、さしてニュース価値はない。
他方、南進についてはどうか。
7月23日、日本はアメリカにフランス領南ベトナム進駐を事前通告した。
念のために言っておくが、ホワイトハウスが資産凍結を決定したのは、その5日前だ。
7月25日、進駐部隊5千を乗せた輸送船が海南島を出港する。
同日、アメリカはそれを待ちかねたように、日本の在米資産凍結を発表した。
フィリピンのアメリカの権益を脅かすというのが表向きの理由だが、普段ならアメリカは、『直ちに引き返せ、さもなければ取り返しのつかない事態を招くことになる』とでも言って、警告するところだ。
だが、日本が警告を真に受けて引き返したら、資産凍結を言い出せなくなってしまう。
イギリスの一言で腰を抜かした日本だから、もっともな懸念だ。
だから警告抜きで、いきなり宣言したんだ。
どう見ても、口実に使っただけだ。
そもそも、イギリスが指摘した通り、石油禁輸は日本に南下して油田を奪えと言っているようなものだ。南進を加速こそすれ、抑止するものではない。
南進に対する制裁が石油禁輸なんて、逆効果で矛盾もいいところだ。
この時の米国の不自然な屁理屈を鵜呑みにして、何の疑問も感じない輩が参謀本部謀略課にもいるらしいが、うぶにも程がある」
福沢少佐は、大佐の皮肉に閉口したが、ここからが話の核心だ。あっさり聞き流すことにした。




