シンガポール 8
福沢少佐は、白石大佐の話を聞きながら、そういうことなら、松岡外相からすれば、事の推移は全く違う見え方をしていただろうと思った。
筋金入りの親独派である松岡外相にとって、友好国ドイツの外務大臣で、四国協商を熱心に推進してくれているリッベントロップと、強硬な反独親米派で、松岡の政策にことごとく異を唱え、アメリカの国務長官ハルとも親密な白石大佐と、どちらの言葉が信じられるか、疑問の余地はあるまい。
日米諒解案にしても、白石大佐が半可通の知識を振り回し、三国軍事同盟を骨抜きにしようとしていると思ったのだろう。
統帥権と並び、天皇の大権である外交という冒すべからざる聖域に、陸軍軍人が土足で踏み込み、喧嘩を売ってきたようなものだから、目の敵にするも無理はない。
あえて口には出さなかったが。
福沢少佐は、ウイスキーのボトルの栓を抜くと、大佐と自分のグラスを満たした。
「ドイツが勝てば、問題ないのではないですか?降伏したロシアに、四国協商をのませればいいのですから」
「松岡外相も、同じことを考えたようだ。日露中立条約の締結を奏上したばかりだというのに、直ちに条約を破棄して、日本もロシアへ侵攻すべきだと言い出した。
松岡にとって、四国協商こそが最終目標であり、それが実現できるのなら、外交だろうが戦争だろうが、何でもよかったのだろう。
だが、信義を重んじる日本外交の伝統からすれば、支離滅裂で言語道断だ。陛下への奏上をないがしろにするのかと肝を潰した周囲から、もはや松岡に外交は任せられないという声が上がり、外相を解任されてしまった。
とはいえ、軍人の目から見ると、彼の主張は一理あるし、英米の発想も同工異曲だ。
ロシアが負けさえしなければ、四国協商を阻止できると考えた。
ただ、ロシアが負けなければいいとはいっても、ことはそう容易ではない。
軍事援助を口にするのは簡単だが、軍需物資の生産や輸送にはそれなりの金も時間も要する。
破竹の勢いで進撃するドイツ軍を止めなければ、援助物資が届く前にロシアが崩壊しかねない。
そこで、極東ロシアの戦力の西送を助けるというアイデアが浮上した。
当時のロシアは、沿海州やシベリアを手薄にすると、満州国境で対峙する日本軍につけこまれるのではないかと恐れて、大規模な移送をためらっていた」
「不可侵条約を結んでいたドイツから、無通告で侵攻されたロシアにすれば、日本も中立条約を無視して、国境を越えるのではないかと怯えたんでしょうね。気持ちはわかります」
「実際、日本陸軍は隙あらば奇襲しようと、関東軍特種演習と称して22個師団、80万の兵力をロシアとの国境地帯に集結すべく準備を進めていたから、それを裏付ける情報にも事欠かない。
そこでアメリカは、日本がロシアの背後を突かないように、力を貸そうと言い出した。
とはいえ、米国は昨日までロシアを敵性国家扱いしていた国だ。
半信半疑のロシアは、『力を貸してくれるのは有難いが、リップサービスでは困る。具体的に何をしてくれるのか?』と説明を求めた。
そこでアメリカは、日本の在米資産を凍結し、石油を禁輸する用意があることを伝えた」
福沢少佐は、耳を疑った。
「えっ?石油禁輸は、日本軍がフランス領南ベトナムに進駐したことに対する、経済制裁だったのではないですか?」
「そんなことで、よく参謀本部謀略課のメンバーが務まるな。南ベトナムに進駐した日本軍は、たかだか1個連隊、5千だ。22個師団、80万と、1個連隊、5千、どちらが早急に対処しなければならない差し迫った軍事的脅威なのか、言うまでもないだろう」




