シンガポール 7
福沢少佐は、ようやく話が開戦の経緯に及んできたと目を輝かせた。
「大佐はワシントンで、その日米諒解案の交渉にあたったんですね」
「そうだ。日本にとって、何よりも優先すべき懸案事項は、4年も続く日中間の紛争の解決だ。
その問題の核心は、パワーバランスの空白地帯があってはならないということだ。
張学良が満州でロシアを挑発し、大敗した1929年の中東路事件で、蔣介石政権軍にロシア軍を抑止する力のないことが白日の下にさらされた。
張学良の無謀な冒険が、パワーバランスを崩してしまったんだ。
何か手を打たなければ、ロシアは満州に侵攻し、やがて中国全土を勢力圏に収めることになる。
それを防ごうと、関東軍は1932年、ロシアが大飢饉で動けない隙を突いて、満洲国を建国した。
あのノモンハン事件も、モンゴルとの水利権をめぐる国境紛争を口実に、武力侵攻しようとするロシアを、日本軍が迎え撃ったものだ。国境をロシアの侵略から守ったのは日本軍だ。
地図で満洲国とモンゴルの国境線を見てみろ。
罕達蓋西方で、国境線が大きくモンゴル側へ食い込んでいるだろう。
その先端に位置するのがエリス・ウルニン・オボ(日本側の名称は九九七高地)、宮崎繁三郎少将(当時、大佐)が第16連隊を率いて攻略し、奪回しようと押し寄せるロシア軍戦車部隊を撃破した激戦地だ。
そして停戦後、そこが国境となった。
これから何年経ったとしても、国境線はそのまま残る。
あの当時の蔣介石政権軍にそんな力は無かったのだから、感謝してもらいたいくらいだ。
アメリカが満洲国を承認し、蔣介石政権に和平を勧告すれば、パワーバランスは保たれ、日中間の紛争も収束する。そうなれば、日本軍の中国からの段階的撤退も視野に入ってくる。日本にとって日米諒解案は、まさに願ったり叶ったり、喉から手が出るほどの提案だ」
福沢少佐が疑問を口にした。
「しかし、『三国軍事同盟からの離脱』は、さすがにハードルが高すぎませんか?」
「それがネックとなり、諒解案は頓挫しかけたんだが、そこで俺がアイデアを捻り出した。
『離脱はしないが、アメリカがドイツに対して自衛権を行使しても、三国軍事同盟の対象とはみなさない』というものだ。
三国軍事同盟は、あくまでも『国際紛争を解決する手段としての戦争』を抑止するものであって、『各国固有の権利である自衛権の発動』を妨げるものではないという理屈だ。
ハル国務長官は、日本の陸軍軍人が国際法に精通した提案をしてきたことに驚いたようで、『君のような部下が国務省にもいると助かるんだが』と言って、それを受け入れた。
帝国陸海軍の了承も得られた。
あとは、近衛文麿首相さえ決断すれば、日米は合意に達し、日中紛争も終結していた。
もしそうなっていたら、こんな戦争は起きていない」
福沢少佐が口をはさんだ。
「近衛首相は、閣議全会一致の原則から、ロシアを訪問中の松岡外相を待つことにしたんですね。
それに帝国憲法上、外交権は統帥権と同じく天皇の大権で、輔弼するのは外務大臣ですから、法律論としても筋が通っています。
ところが帰国した松岡外相は、米国に自衛権の行使を許したら、まずドイツが粉砕され、返す刀で日本も叩かれて、各個撃破されるだけだと主張し、強硬に反対した」
「日米諒解案は、松岡外相が主導した四国協商構想に刺激されて、米国が満洲国の承認という大幅な譲歩をしてきたものだ。松岡外交の大勝利じゃないか。なぜ反対したのか、未だにわからない。
いずれにせよ松岡外相は、最終合意案を勝手にたたき台扱いして、米国に無理難題を吹っ掛けた。
ハル国務長官は、話が違うと怒り出す。
しまいには、板挟みになって苦悩する俺に、『白石は、日本陸軍の美点と欠点を兼ね備えているんだね』などと、きつい皮肉を浴びせる始末だ」
「そうやって揉めている間に、ドイツがロシアに侵攻したんですね」
「俺が創設した陸軍省戦争経済研究班は、ドイツのロシア侵攻が近いと予測していた。
だからこそ、その前に日米諒解案を纏めようと、ワシントンまで行って合意を急いだんだ。
ドイツは、食料自給率が6割のフランスを占領したことで食糧不足に陥り、ロシアの農産物が必要になった。ロシアという国は、相手に弱みがあると、足元を見て高飛車に出る。唯我独尊のドイツと、話が噛み合うわけがない。そのうちにドイツが堪忍袋の緒を切らして、武力に訴えるという筋読みだ。
ドイツ外務省は1940年11月、ロシアと四国協商の交渉を始めたんだが、ロシアの居丈高な態度を見て、ドイツ首脳はすぐに興味を失った。
翌年早々訪独した山下奉文中将が、ドイツ首脳から直々に、ロシア侵攻計画を耳打ちされたくらいだ。
兵員や物資の動きからも、裏付けはとれていた。あれだけの大攻勢ともなれば、隠そうとしても隠し通せるものじゃない。
リッベントロップ外相は、その後もなんとか四国協商を纏めようと、懸命に努力を続けていたものの、実は最初から梯子を外されていたんだ。
ところが松岡外相は、ドイツのロシア侵攻が迫っているという我々の警告に耳を貸さず、四国協商交渉が順調に進んでいるというリッベントロップの説明を鵜呑みにして、1941年4月、日露中立条約を締結してしまう。
そして、それから2か月後、ドイツはロシアに侵攻を開始した」




