シンガポール 1
1942年2月17日 シンガポール
シンガポールの中華街に、青天白日旗がひるがえっていた。「和平建国」と書かれたリボンが風になびく。
シンガポール特務機関長の宮崎繁三郎少将は、それを眺めていた。
このリボンは、汪精衛中華民国政府を支持するというシンボルだ。
日本軍は、リボンを掲げる華僑に対して、生命、財産、自由を保障すると宣言していた。
戦乱を避けて国外に脱出した華僑に帰還を促し、経済活動を復旧させるための措置だ。
蔣介石政権軍と中国戦線で激しい戦いを繰り広げてきた第25軍の一部からは、敵国の旗である青天白日旗の掲揚を禁止すべしとして、この措置に反対する声もあった。
だが、特務機関は、戦闘部隊である現地軍を離れ、参謀本部の直轄となっていた。
かつて関東軍が満洲国の内政干渉に熱中し、戦闘部隊としての本分を忘れ、ロシア軍戦車部隊への対策を怠り、ノモンハンで大敗を喫したことを教訓として、戦闘部隊は統治業務から外れ、陸軍中野学校で現地の政治・経済・文化や行政知識を学んだ将兵が、特務機関に送り込まれて統治機構の整備に当たり、治安が回復するにつれ、順次、現地住民の自治政府に権限を移譲するという方針がとられた。
宮崎少将が特務機関長として赴任して最初に取り組んだのも、第25軍の横やりを排除して、この方針を徹底させることだった。
「和平建国」のリボンは、特務機関の一員である福沢少佐の発案だ。
福沢少佐はアイデアマンで、インド人将兵が降伏の際に掲げることになった「Fの旗」も、当初は、対インド謀略機関である「F機関」の旗印として用意したもので、「F」は福沢少佐のイニシャルにすぎなかったのだが、イギリス軍配下のインド人将兵に対する離反工作が進み、「Fの旗」を掲げた兵士が続々と投降してくるようになると、「フリーダム フレンドシップ フラッグ(自由と友愛の旗)」と言い出し、今ではそれがすっかり定着していた。
開戦直後の1941年12月13日、陸路国境を越え、タイからマレーシアに入った福沢少佐は、45キロ南下したアロースターの街で、興味深い情報を耳にした。
イギリス軍の一個大隊が、東方の山中で退路を失い、孤立しているというのだ。
大隊長1人がイギリス人で、それ以外の中隊長以下全員がインド人らしい。
翌日、福沢少佐は、情報提供者のゴム園農場主の邸宅を訪れ、親日派のインド独立連盟のメンバーに親書を託し、インド人中隊長を介して大隊長へ届けてもらうように手配した。
その内容は、
「あなたの大隊はもはや孤立無援であり、戦闘を継続しても、いたずらに死傷者を増やすだけだ。当方は、敬意と誠意をもって投降交渉に応じる用意がある。ゴム園農場主の邸宅にて会見したい。当方は、武器を持たず、部下も連れずに単独で待つ。貴官は、護衛兵を帯同して差し支えない」というものだった。
やがて、1台の自動車が現れた。
イギリス軍の大隊長が、伝令を伴って降りてくる。
中佐のようだが、軍服は泥にまみれ、身体は傷だらけで、疲労困憊していた。
福沢少佐は、歩み寄って握手すると、椅子に座るよう促し、コーヒーとトースト、そしてゆで卵をすすめた。
地図を示して戦況を説明し、本隊からは遠く離れて置き去りにされていること、インド人将校の中には親日派のインド独立連盟に呼応する動きがあることを指摘し、投降を促す。
大隊長は、しばらく沈思黙考していたが、勧告を受諾して降伏文書に署名した。
福沢少佐はそれを見届けると、サフラン、白、緑の3色のストライプに青い糸車を配した、「インド独立運動の旗」を取り出した。
この旗は、後年の独立に際し、基本的なデザインはそのままに、糸車をアショーカ・チャクラに代えて、インド国旗として制定されることになる。
自動車にその旗を掲げると、福沢少佐は大隊の集結地点に向かった。
インド人将兵たちは、はためく「インド独立運動の旗」に目を奪われた。
福沢少佐は、車から降りるやいなや、声を張り上げた。
「私は、あなた方、インド人将兵と友好を結ぶために来た。大隊長は、投降を申し出て降伏文書に署名した。私は、インド独立連盟のプリタム・シン書記長と共に、あなた方を迎えに来たのだ」
インド兵の間に、どよめきが広がった。
大隊長の命令で、整々と集合、点呼、武装解除が進む。
その中で、ひときわ目を引く中隊長が1人いた。
30歳くらいと思われるが、その指示がきびきびとして的確なのだ。
ものの30分で全ての措置を終え、負傷者を木陰で休ませていたその青年将校に声をかけて名を問うと、モハン・シン大尉と名乗った。




