ソロモン 5
小沢治三郎中将率いる第3艦隊は、アメリカ艦隊の北300キロにあった。
直ちに発進したのは、2式艦上偵察機だ。
従来から索敵に多用されてきた零式水上偵察機は、最高速度が370キロと低速で、敵艦隊を発見してもすぐに撃墜されてしまうことが多く、継続的な触敵は困難だった。
ミッドウェー海戦に先立ち、4月末に岩国基地で行われた連合艦隊次期作戦研究会では、軽巡洋艦「阿武隈」の飛行長の稲葉大尉が、来るべき海戦においては、水上偵察機より高速な艦上爆撃機による索敵を実施するよう進言した。
だが、第1航空艦隊司令部は、空母の艦攻と艦爆は全て攻撃に回し、偵察は巡洋艦の水上偵察機に任せる考えを頑なに変えなかった。
実際には、ミッドウェーで最初にアメリカ艦隊を発見した重巡「利根」の零式水上偵察機は、低速のため接近に手間取り、敵艦隊の全貌を把握し、詳細を報告することができたのは、「蒼龍」から発進し「飛龍」に帰還した、最高速度が530キロを超える2式艦上偵察機だけだ。
稲葉大尉の指摘が、正鵠を射ていたわけだ。
2式艦上偵察機は、13試艦上爆撃機の偵察機型だが、爆撃機型は、後年、「彗星」として制式採用され、稲葉大尉自身が飛行隊長を務めることになる。
偵察機に続き、空母「翔鶴」を発進した関衛少佐率いる第1次攻撃隊は、アメリカ艦隊に50キロまで接近した。
直掩の零戦隊が高度4000メートルを上昇中の3機のF4Fを発見し、1機を撃墜する。
だが、別の編隊のF4F 4機の反撃を受けて零戦1機が返り討ちにあい、さらに新手のF4F隊が現れると、2機目の零戦も撃墜され、一気に乱戦となった。
零戦隊が米戦闘機を食い止めている間に、18機の艦爆が空母まで20キロの空域へ侵入した。
3機のF4Fがそれを追い、4機の零戦がその背後を襲う。
関少佐の艦爆隊は3機を撃墜されたが、15機が空母「サラトガ」を目指し、急降下に入った。
初弾は右舷後方に命中して格納庫で炸裂、2発目は飛行甲板に大穴を穿ち、3発目は第2エレベーター右舷に着弾する。
そこに、第2航空戦隊の空母「隼鷹」を発進した、第2次攻撃隊の零戦12機、艦爆10機、艦攻7機が到着した。
母艦の被弾で復讐に燃える「サラトガ」のF4F隊が、艦爆隊に襲いかかり、全機を撃墜する。
だが艦攻隊は、その隙を突いて5機が射点に到達、投下した魚雷の1発が右舷艦橋直下に命中して電源を喪失させ、もう1発はボイラーの排気筒を破壊し、「サラトガ」は大破した。
最後に現れた第3次攻撃隊の指揮官は、ミッドウェーで燃え上がる「赤城」から脱出し生還、「翔鶴」飛行隊長となった村田重治少佐だ。
村田少佐は、開戦の直前、横須賀海軍航空隊で浅海面雷撃実験に取り組んでいた。
当時の魚雷は、投下されると、一旦深度20メートル前後まで沈み込み、その後所定の深度まで浮上し、安定走行に入るというのが常だった。
深度20メートルというのも、あくまで平均すればの話で、ばらつきが大きい。
海軍航空廠で、投下された魚雷の動きを高速度カメラで撮影したところ、風に煽られて縦に回転し、海面に突入する際の角度がその都度大きく変わることが原因と判明した。
そこで、航空廠の片岡少佐が、空中では縦回転を抑え、着水時には衝撃で外れる木製の安定翼を発案し、最大沈下深度を20メートル以内に抑えることに成功する。
だが、それが予想外の事態を引き起こした。
報告を聞いた山本五十六大将が、最大沈下深度12メートルを要求してきたのだ。
1940年11月11日に、イギリス海軍の複葉雷撃機が水深12メートルのタラント湾で行った雷撃を例に挙げ、同じことがわが軍にもできるはずだというわけだ。
それからが大変だった。
最高の技量を持つベテランをもってしても、成功率50%を超すことがない。
様々な飛行技術を駆使してみたが、何度繰り返しても駄目だった。
高度計では表示できないような超低空を、目測だけで飛んでも結果は出ない。
「もう打つ手は尽きた」
いつもは陽気に駄洒落を連発する村田少佐も、この時ばかりは弱気になった。
その時、部下の1人が、突拍子もないことを言い出した。
「速度の遅い複葉機でやれたのですから、空母に着艦する要領で、機首を上に向けながら速度180キロで投下してみてはどうでしょうか?」
超低速で敵艦の目の前を飛んだりすれば、対空砲火でたちまち撃墜されてしまう。
とても実戦で使える方法ではないが、他に思いつく案もないので試してみることにした。
ところがなんと、この非常識な方法は成功率83%を記録する。
さらに驚いたことに、それでコツをつかんだのか、速度300キロ、高度10メートルの水平飛行でも同水準の成功率を叩き出せるようになった。
これなら、水深12メートルの真珠湾でも米太平洋艦隊を雷撃できる。
1941年11月10日、開戦まであと1か月たらず、冷や汗が流れるようなタイミングだった。




