モルディブ 1
1942年2月15日 モルディブ
南国の空に、白い雲がゆったりと浮かんでいた。
瑠璃色の海がどこまでも広がり、水底には翡翠色の珊瑚礁が揺らめく。
伊号第25潜水艦飛行長の桜井飛行兵曹長は、その光景に魅入られて、戦時にあることを忘れそうになった。
モルディブ諸島の兵要調査を始めて、3日目になる。
大本営政府連絡会議の決定を受けて、連合艦隊司令部は第6艦隊に命令を発した。
インド洋では、それまで潜水艦による通商破壊戦しか予定しておらず、制海権を争うべく水上部隊を派遣するとなれば新たな泊地が必要となり、その候補として、モルディブ諸島とチャゴス諸島の兵要調査を命じるものだった。
桜井飛曹長は、調査海域に達するたびに、潜水艦の格納庫から零式小型水上機を引き出し、カタパルトで発進したが、何回飛んでも目に入るのは、長閑な現地住民の村と漁船だけだ。
当初の予定では、オーストラリアやニュージーランドの軍港を、対空砲火をかいくぐりながら偵察していたはずだから、それに比べると、眠くなるほど平穏な日々が続いていた。
ふと、視界の片隅に、宝石のような輝きを見た気がした。
思わず目を凝らすと、1匹の大型の蝶が悠々と飛んでいる。
「てふてふが一匹韃靼海峡を渡つていつた」
安西冬衛の「春」の1節が浮かんだ。
もっとも、蝶の姿形はまるで違う。
飛んでいるのは、オオルリアゲハだ。
インドネシアからオーストラリアにかけて分布する美しい蝶で、青い翅に金属のような光沢がある。
学名は、ユリシーズ。
ギリシアの叙事詩、「オデッセイア」にちなむ高貴な名を与えられ、見る者に幸福をもたらすという言い伝えがある。
だが、インド洋のモルディブ諸島に、オオルリアゲハが生息するとは聞いたことがない。
誰かについてきたのだろうか。
偵察員の前川飛行兵曹の声がした。
「何か見えます」
どうやら航跡らしい。
やがて、水平線にマストが、それに続いて船体が見えてきた。
貨物船だ。
それも、かなりの大型だ。
針路からすると、オーストラリアから来た可能性が高い。
桜井飛曹長が言った。
「護衛がいるかもしれない。周囲をよく探せ」
慎重に左右を確認して、前川飛曹が答えた。
「独航船のようです。周りには何もいません」
定期航路でもないこんな所に、なぜ大型の貨物船がいるのか?
オーストラリアと中東を結ぶ、中継基地があるのかもしれない。
「どこへ向かっている?」
桜井飛曹長が問いかけると、前川飛曹が海図を見ながら答えた。
「針路方向にアッズ環礁があります」
アッズ環礁は、モルディブ諸島の南端だ。
燃料の残量を考えると、躊躇している余裕はない。
「アッズ環礁に先回りするぞ」
アッズ環礁の中心にあるガン島は、セイロン島から1400キロの位置にある。
島といっても、東西2キロ、南北1キロ、ラグビーボールのような形の珊瑚礁だ。
そこから北東と北西へ、細長い環礁が鳥の翼のように連なっている。
珊瑚礁は標高が低く、火山島のように目印になるものがない。
打ち寄せる波が海岸線に沿って作る、細く白い筋を上空から探すのだが、海面にあまたある波に紛れやすく、見つけるのは意外に難しい。
ところが案ずるまでもなく、すぐに水平線に黒いものが見えてきた。
桜井飛曹長は思わず声を上げた。
「何だ、あれは?」
断雲に身を隠しながら、慎重に接近する。
驚いたことに、それは林立する石油タンクだった。
桟橋に横付けになった、艦艇や貨物船も見える。
間違いない、イギリス軍の補給基地だ。
突然、前川飛曹が叫んだ。
「あれは飛行場ではないですか?」
これまで見えていた島よりさらに大きな島に、整地された広大な区域が見えてきた。
飛行機らしきものは見当たらないが、掩体壕に隠されているのかもしれない。
その向こうには、また石油タンク群があり、倉庫と桟橋が整然と並んでいた。
「もし見つかって追跡されたら、潜水艦もろとも撃沈されかねない。ここは一旦引き上げよう」
桜井飛曹長はそう言って、機首を反した。




