プロローグ
1943年2月20日 イギリス テムズ川河口
山口多聞は、テムズ川河口に停泊する、世界最大の戦艦の甲板に立っていた。
2月も下旬というのに、気温は零度を下回り、霙混じりの風が頬を撃つ。
氷雨に霞むロンドンは、冷気に閉ざされていた。
多くの若者に過酷な任務を課し、死地に赴かせた。
ミッドウェーの戦いで、「赤城」、「加賀」、「蒼龍」は紅蓮の焔に包まれ、やがて「飛龍」の艦橋も焼け落ちた。
そして山河すら破れた後に、鋼鉄の海城だけが残った。
その城も、今は兵船の務めを終え、休戦協定調印のよすがとしてここにある。
「独立に致し候には、山丹、満州之辺、朝鮮国を併せ、且亜墨利加洲或は印度地内に領を不持しては迚も望之如ならず候」
幕末、越前福井藩江戸屋敷侍読兼御内用掛の橋本左内が遺した言葉だ。
徳川幕府第14代将軍を巡る政争で、藩主松平春嶽の命を受け、薩摩藩の西郷隆盛らとともに一橋慶喜擁立工作に辣腕を振るったが、徳川慶福を推す大老井伊直弼に敗れ、遠島の刑となるところ、大老の怨念凄まじく、死罪に変わり斬首に処された。
世に言う「安政の大獄」だ。
佐内の警句を今の言葉にすれば、
「日本が独立を保とうとするならば、ロシアの沿海州・中国東北部の満州・朝鮮半島を併合し、かつ、アメリカ大陸、あるいはインド亜大陸に領地を持つくらいでなければ、とても望むようにはならないだろう」
といったところか。
佐内は、80年後の世界大戦を予見していたのか。
そしてそれは、避けがたい宿命だったのか。
飛ぶ雲は黒橡の衣を纏い、蠟色の海の波頭は白く、檣籟の音は弔鐘を奏でていた。
1942年6月5日 鎌倉
空母「蒼龍」飛行隊長、江草隆繁少佐の妻の貴子は、自宅の寝室で子供達と微睡の中にいた。
ふと気がつくと、枕元に江草が立っている。
海から上がってきたばかりのように全身がずぶ濡れで、軍服からは海水が滴り落ちている。
口は真一文字に閉じたまま開く気配はなく、目だけが何かを語りかけるように、こちらをじっと見つめている。
貴子が声をかけようとすると、気配だけを残して消えた。
こんな事は初めてだ。
ただ事ではない。
何かあったに違いない。
だが、戦死したとはどうしても思えない。
思いたくもなかった。
「あの人は、必ず帰ってくる」
そう自分に言い聞かせた。