2.診察
「すまないな。ロシュ」
シャワーを浴び終え、着替えたシーンは礼を言う。
クレールの服はシーンには少し大きい。袖や裾をまくりながら、傍らで甲斐甲斐しく世話をするロシュに目を向けた。
ロシュは汚れた服の入った籠を抱えると、短く刈った赤毛の頭を左右に振り。
「いいえ、これくらい。クレール先生の方が数倍、手がかかっていますから。大したことじゃありません」
服は洗濯して後日届けると申し出てくれた。流石にそれは悪いと、また次に訪れた際に受け取る事にする。
ようやくこざっぱりした所で、診察室にいる少年の様子を見に顔を出した。表には休診中の札が出されている。人が来ることを気にする必要は無さそうだった。
「どうだ?」
シーンの問いかけにクレールがビクリと肩を揺らす。少年を入浴させたせいか、服がびしょ濡れだ。それにしては、濡れすぎの感もあるが。
「あ…? ああ。大丈夫だ…。熱もないし大した外傷もない。単に疲労の所為だろう。寝ていなかったんだろうな…。それに、ろくに食ってねぇ」
外に出されていた腕は、掴んでも余るほど細かった。この歳の少年にしては細すぎる。
ふと赤い痣がぐるりと手首に巡らされているのに気がついた。しかし、クレールが袖を下げた事で隠されてしまう。
はてと思ったが、続くクレールとの会話でそう思ったのも一瞬の事だった。
「昔のロシュを見る様だな…。ロシュでさえ、ここまで酷くなかったが…」
そう言って何処か考え込む様に押し黙った。
その沈黙がなぜなのか今のシーンには分からない。とりあえず、大きなけがや病気でないようなら一安心だった。
「この子が持っていた包みだが──」
「ああ、そこにある。別の袋に入れ直した。その薬は喘息用のもんだ。──かなり値が張る」
「家族にいるんだろうか。手に入れるのは大変だろうに…」
少年の身なりから想像はつく。
「そうだ。──大変だな…」
そこで深いため息をいた。クレールはどこか遠くを見るように少年を見つめ、それから気を取り直したように顔をあげると。
「こいつは俺が預かっとく…。起きたら家に帰らせるが、いいか?」
「いや、どうせなら最後まで面倒を見たい。起きたら私が送っていく」
自分が助けたのだ。最後まで見届けたい気持ちがある。
それに、少年の生活が気になった。
この様子からかなり貧しい生活を強いられているのは確か。自分にしてやれることは少ないが、何か役に立ちたい。初めに手を差し伸べたのは自分だ。中途半端は主義に反する。
何を決めるにしても現状を見たかった。
「いいのか? お前、仕事は?」
「今日は休みだ。用事で出たのはついでだった」
「…そうか」
クレールは考え込む様にしたが、
「なら、そうしてくれ。任せる」
「有難う」
シーンが頷いたタイミングで。
「…ぁ…?」
少年が小さく身じろいだ。
ゆっくりと瞼が開かれ、真っ先に傍らで見下ろしていたシーンと目があう。
正面から見た瞳はやはりブルーグレー。あの猫と同じだった。
そのまま、大きな瞳は横に座るクレールを通り過ぎ、周囲を見渡してから、どこかほっとするように息を吐き出したが、すぐに慌てた様に。
「あ、あのっ! 薬は?」
ベッドに半身を起こす。
シーンはその慌てた様子に、安心させるため笑みを浮かべると。
「薬はちゃんと持ち帰ったよ。クレール先生が綺麗に包みなおしてくれた。診察もしてくれたんだ。──先生にお礼を」
そこではたと気付き、自分を診ていたであろう、クレールに向き直った。
「あ…あのっ、助けてくださってありがとうございます…っ! かかった診察代はちゃんとお支払いします!」
するとクレールと視線を交わした後、シーンは。
「診察代は私がもとう。私が勝手に君をここへつれてきたんだ。責任は私にある」
「そんなっ! 責任なんて…。助けてもらった上、そこまで迷惑は──」
「いいんだ。大して金のかかる診察でもなかった。そうだろ?」
クレールに同意を求めれば、小さく息を漏らした後。
「ああ。聴診器を当てただけだ。…治療は大したことはしていない。身体を確認させてもらったが、倒れた時の外傷はなかったしな?」
「…っ!」
そこで少年の頬がカッと赤く染まる。俯いてそれ以降、顔を上げようとしなかった。
それを訝しく思いながら、
「クレール。ケガを負った箇所があったのか? 大した事はないと言っていたが…」
「…まあな。だが、そこまで酷くはねぇ。お前名前は? いくつになる?」
クレールに問われ、少年は顔を真っ赤にして自分の手元に視線を落としたまま。
「…ハイトです。ハイト・マルテス…。十七歳です。じきに十八歳になります」
「そうか。ハイト。身体は大事にしろ? 自分自身もな…」
そう言ってクレールが大きな掌をぽんと頭に乗せると、弾かれた様に顔を上げ。
「俺…っ! そんな、つもりなくて…。嫌だったけど、逃げられなくて…。でもっ、そのお陰で薬が買えて─…」
クレールは笑みを浮かべると。
「分かってる…。もうそれ以上言わなくていい。家族に喘息持ちがいるのか?」
「…妹です。住んでいる場所の空気が悪くて、全然、良くならなくて…」
「分かった。今度、薬はここに貰いに来い。喘息の薬なら良く効くやつがある。あんなに高価じゃなくともな? お前でも買えるはずだ。いいか?」
ハイトは驚きにぽかんと口を開けてクレールを見たが、すぐに居住まいを正し。
「ありがとうございます…!」
声を震わせながらも大きな声で礼を口にした。けして裕福な家の出では無いだろうに、育ちの良さがうかがえる。
それに、この少年の性根は曲がっていないと思えた。シーンはにこりと笑むと。
「私はシーン・サイラス。よろしく、ハイト」
そう言って手を差し出すと、まるで初めて見るかのようにその差し出された手をまじまじと見つめてから。
「はい…。よろしくお願いします。…サイラスさん」
おずおずと自らも右手を差し出し握り返してきた。握手は珍しいのだろう。
骨の浮き出たその指や手首に目がいく。ふと先ほど見た赤い痣が目に入った。
「怪我は──それかな?」
「あ…。ち、違います…」
気付いたハイトは慌てて伸ばした手を引っ込めてしまう。その痣を隠すように握った左手首にも同じ痣が出来ていた。
顔を真っ赤にして身体を震わす様子に、それ以上聞けなくなるが。
その傷がどうしてできたのか、先ほどの言葉やクレールが端々に口にしたセリフで、薄々ながらも予測はついた。
「…済まなかった。落ち着いたら家まで送って行こう」
「でも…。一人で帰れます…」
「また倒れでもしたら、困るだろう? 最後まで面倒を看させてくれないか?」
ハイトは恐る恐ると言った具合に、顔を上げるとシーンを見つめ返してきた。まるで悪さを咎められた子どものよう。
けれど、瞳はとても澄んだ色をしたブルーグレーだ。
「…有難うございます…」
そうとだけ言うと、さっと俯き、また頬を染めた。クレールは一つ息を吐き出すと。
「これで一段落だな? とりあえず、俺は朝食の再開をしたい。ハイト、お前も付き合え」
「え? でも──」
シーンは遠慮するハイトへ諭す様に、
「いいから、そうするといい。そのうち、雨もやむだろう。出来ればそれから出発したいしな? せっかく汚れを落としたのに、また馬車に泥をかけられるのはごめんだろう?」
「…はい」
シーンの言葉に渋々頷く。
「そうと決ったら飯だ! おい、ロシュ! こいつの分も用意たのむ!」
クレールが大声を上げる。すると奥の方から、ロシュが顔を出し。
「もう出来てます。早く席について。冷めちゃいますから」
笑んだロシュに流石だと思う。クレールは飯だ飯だと連呼し、奥へとへと姿を消した。すると先ほどから恐縮しっぱなしのハイトは。
「…なにからなにまで…。申し訳ありません…。俺なんかの為に…」
「俺なんか、じゃないさ。君だからそうしたいんだ。ほら、おいで。まだ足元がおぼつかない」
「!」
先ほどと同じように右手を差し出すと、ベッドを降りたハイトは、躊躇いながらもその手を握り返してきた。
骨ばかり目立つ手は、それでも先ほどよりもしっかりとシーンの手を握った。
+++
クレールの着いたテーブルの上には、焼きたてのパンと新鮮なチーズ、山羊の乳。玉ねぎとベーコン入りのスープにジャガイモの蒸かしたものが用意されていた。
既に朝食を済ませていたシーンは、ヤギの乳入の紅茶を貰う。
簡素な朝食だったが、ハイトにはもったいないくらいの食事だったらしい。
喜んで口にしていたが、途中からその手が止まる。訝しんだシーンは声をかけた。
「どうした?」
「その、妹たちに悪いなって…。俺だけこんな食事…」
「家族は何人なんだ?」
「妹と祖父です…。妹はほとんど家で寝ていて、祖父は働きに出ていますが、足腰も弱ってきていて…。今は休んでいます。俺だけの稼ぎじゃ、こんな食事は…」
とてもできないのだろう。するとクレールはポンとハイトの背を叩き。
「あとで少しだが二人の分も土産に持たせてやる。今は何も考えずに食え」
「…はい!」
ハイトの瞳が喜びに輝いた。その様子に、シーンは思いを巡らす。
何か職はなかっただろうか。
安定した職さえあれば、もう少し生活が楽になるはずだ。
日々、苦労しているのだろう。こんな簡素な食事でもハイトにとっては豪華なのだ。
屋敷で最上の料理を前にしても、まずいの嫌いだのと言って口にしない領主の息子、ヴァイスとは大違いだった。
ろくに苦労もしていない。というか、甘やかされて育った典型的な例だ。幼い頃から見てきたシーンでさえ、このところ手に余る。
それに──。
ヴァイスとのやり取りを思い出しかけた所で、クレールに声をかけられた。
「おまえんとこ、人では足りているのか?」
「私もそれを考えていた所だ。今のところは足りてはいるが、何かないかあたってみよう。ハイトは今何の仕事を?」
口にしていた紅茶を一旦置くと、ハイトを振り返った。シーンの向かいに座ったハイトは少し視線を落とし。
「…いろいろです。靴磨きや、掃除、ごみの回収…。頼まれればなんでも。ただ──」
「ただ?」
「俺。生まれて間もなく右足を骨折して…。上手く治らなくて、それで走ることはほとんどできなくて…」
ああ。だからあの時、不自然によろめいたのか。
シーンは納得する。
「そうか。色々聞いて済まなかったな? うちの屋敷に仕事の空きがないか聞いてみよう。それよりもう少しいい仕事を見つけることができるかもしれない」
「ありがとうございます…。本当に…」
ハイトの頬は高揚し赤く染まる。
「これも何かの縁だ。使えるものは使えばいい。君の生活が少しでも楽になるならこんな嬉しいことはない」
「…サイラスさん」
ブルーグレーの目の端が潤んでいるのが目に入った。自らもそれに気付き、慌てて手の甲で拭うと、
「ありがとう、ございます…!」
慌てて礼を口にした。
好ましい人物だと思う。謙虚で素直だ。こんな子なら、仕えがいがあるだろうに。苦労している分、人の心の痛みも分かるはず。
何とかして、いい仕事を探し出そうと、シーンは心に誓った。
そんな二人のやりとりを見ていたクレールは。
「シーン。お前、相当ハイトが気に入ったようだな?」
そう言ってにやりと笑う。
「え? ええ?」
ハイトが驚いてパンを取り落とした。皿の上にぽとりと欠片が落ちる。シーンはからかうクレールを睨みつつ。
「ハイトはいい子だ。見ればすぐわかる。気に入って当然だろう?」
「お前さんは、日々、お坊ちゃんの世話に手を焼いているからな? そりゃあ、素直な子を見れば気に入りもするだろうな?」
「お坊ちゃん?」
ハイトは首をかしげて問うようにこちらを見上げてきた。シーンは口元に苦笑を浮かべつつ。
「俺はレヴォルト様のお屋敷で子息の従者をしているんだ。今日は子息のヴァイス様が元御学友の屋敷に遊びに行っていてね。世話はあちらの従者が行うから、私は必要ない。久しぶりの休暇なんだ」
「大事な休暇だったんですね…。すみません。俺が目の前で倒れたばっかりに…」
パンから一旦手を離すと、深々とため息をついて俯いた。しかし、ハイトは一つも悪くないのだ。助けたのはこちらの勝手で。
「気にしなくていい。君に頼まれたからではなく、私がしたかったからしただけだ。とてもいい休日だよ」
「…俺。なにもお返しができない…」
シーンの笑みを見つめた後、視線を再び手元へと落とす。あかぎれた指先は所々血が滲んでいた。
「返してもらおうとは思っていないが…。なら、ハイトが元気にしていて欲しい。今はこの食事をたくさん食べて、な?」
「…はい」
顔を上げ、シーンを見つめてくる。ブルーグレーの瞳には喜びが浮かんでいた。そこへ再びクレールが。
「おいおい。二人で見つめあうのは後にしろよ? そんな姿お前のお坊ちゃんが見たら逆上するぞ?」
「逆上? それって…」
「さっきから、クレールは余計な一言が多いぞ。確かにヴァイス様は執着が強い。だが、成長し誰かを好きになれば変るだろう。…一時のものだ」
すると、横からクレールが、
「こいつのご主人様はシーンが大好きでな? 日々迫ってこいつを困らせてる。嫉妬深いからちょっとでもシーンがよそ見すれば癇癪を起すしな。たいした坊ちゃんなんだよ。なあ? シーン。あれじゃあ、先が思いやられるな? 今の領主は善良だし、誠実だ。だが、奴の代になればどうなるか…。ため息もんだぜ」
「…大丈夫だ。私がそうさせない」
「お前の親父さんは今の領主の従者だったんだろ? 今は執事だが。親父さんと同じように、領主も立派に育ててくれよ?」
「分かっている…」
ハイトはただ、ぽかんと口を開けて話を聞いていたが。
「…サイラスさんは、いつかお屋敷の執事になるんですか?」
シーンはため息をつきながら、肩をすくめて見せる。
「どうだろう。私はそうなれたいいと思っているし、それは幼い頃からの夢でもあった。今の領主はそれは素晴らしいお人だからな。だが──」
「それも今のご令息をみて揺らいでる、か?」
クレールがニヤニヤ笑いを浮かべ問い返す。シーンはまた睨むと。
「まだ先は分からない。それに揺らいでなどいないさ。…ただ、手に余っているのは事実だが…。しかし、せっかくの休日だ。もう仕事の話は止めよう。さあ、ハイト。あるものを全て食べてしまえ。クレールなんて、山羊の乳一杯で十分だ」
がっちりとした体格は十分栄養が足りている事を示している。
「うるせぇ。俺だって食わなきゃやっていられねぇんだ」
「でも、先生の身体の半分はお酒でできていますものね? 確かに食事は必要ないのかもしれません」
給仕に徹していたロシュが横から口を挟む。クレールはかなりの酒豪で、ロシュはいつも心配しているのだ。ハイトにはスープのお代わりをいるか確認していた。
「…くっ。ロシュもいうようになりやがって」
シーンは苦笑すると。
「ロシュやカリダに心配をかけさせるなよ? お前になにかあれば優秀な助手や看護師を路頭に迷わせることになる」
「わかってるって。ったく、どうして俺の話になる? ハイト、こいつはかなり小うるさい奴だ。そのうち出会ったのを後悔することになるぞ?」
「クレール…」
まだ言うのかと睨めば。恐縮した様子のハイトが。
「そんなこと、ありません…。俺、サイラスさんに出会えて良かったです。…普通に暮らしていたら会うこともなかったですから…。とても親切で──素敵な人です…」
「……」
シーンは思わずハイトを見返した。流石のシーンも口を開けてしまう。
面と向かって好意を伝えられたのは初めてかもしれない。しかし、嫌な気はしなかった。素直に嬉しいと思う。
「ありがとう。ハイト。君に言われると私も嬉しいな」
嘘や偽り、お世辞ではないとわかるからだ。ハイトの頬が赤く染まっているのが何よりの証拠で。
「おいおい。だからそれはよそでやってくれ…」
クレールが額に手を当てて頭を振った。