16.朝
そろそろ起きる時刻だ。
小さな明り取り用の窓から見える空が、薄っすらと紫色に染まり、夜明けを知らせる。
朝起きた時、隣り合うベッドの傍らにシーンが眠っていて、ドキリとした。
無防備な寝顔は初めて見た。普段は上げている前髪も下ろされ、僅かに開いた口元があどけなくも見える。
寝ている時ばかりは暗い表情は見られない。
シーンがずっとこんな健やかな顔でいられたらいいのに。
なぜ、ヴァイスはシーンを困らせるのか。
メイドや下僕らの噂話だが、その端々からシーンが苦労しているのがうかがえる。
まるで、困らせて気を引いているみたいだ。
まるきり子どもだ。
エルミナもそういう時期があった。幼いうちに母を亡くし、甘える相手がいなくなったのだから、駄々をこねるのも仕方がないのかもしれない。
けれど、ヴァイスは違う。
母親を幼くして亡くしてはいるが、十分に恵まれた家庭環境で。何一つ不自由のない生活をしているのに、それを分かっていないのか、周囲に疎まれる所業ばかりをしているようで。
きっと、全てなくした時、今までどれだけ恵まれていたかがわかるんだろうな。
でも、彼にそんな状況はまず来ない。いずれは家督を継ぎ、整えられた環境の中、悠々自適に過ごす未来が待っている。
よほどの道楽をしない限り、領地をしっかり管理してさえいれば、このレヴォルト家は安泰だった。ヴァイス自身が管理せずとも、有能な家令や執事に任せて置けば済む話しで。その候補がシーンなのだろう。
彼がまともになれば、きっとシーンも笑顔が増えるだろうに…。
自分がヴァイスだったら、シーンが喜ぶように生活を正し、立派な領主になるよう務めるのに。そうしたら、シーンはきっと笑顔になる──。
そこまで想像して我に返った。
バカみたいだな。こんな妄想。
ハイトはひとり笑う。
せめて、シーンを笑顔にしたいのに、できる事などほんの僅か。励ます事くらいが関の山で、根本的な解決には何もならない。
俺には──なんの力もない。
ハイトは眠るシーンを見つめ、悲しい笑みを浮かべた。
+++
「おう、来たか?」
厩舎の仕事は朝が早い。
あの後、すぐに起きてシーンより先に部屋を出た。その頃にはシーンも起きてきて、ベッドの上でハイトに先を越されたと冗談めかしてぼやいていたが。
朝食を食べるのは仕事の後。
キエトの指示に従いながら作業を進めていく。牧場へ馬を放ったあと、空いた厩の掃除、干し草の入れ替え。馬たちの餌の準備。
馬が帰って来れば、馬の毛並みを整えたり、怪我や病気を確かめたり。やることは色々ある。
「ふう…」
額に浮かんだ汗を手の甲で拭う。
厩舎の掃除をすませ、餌の干し草も入れ終わった。いったん休憩と言うところか。
フォークを壁に立て掛けると、近くにある井戸まで向かった。
キエトは牧場の馬の様子を見てから戻って来ると言っていた。直に帰ってくるだろう。そうすれば漸く朝食になる。
シーンはもう食べ終わった頃かな?
主人たちの朝食はもう済んでいるはず。通常なら、給仕の仕事は一旦休憩だ。しかし、シーンはその後、ヴァイスの勉強の世話があるはず。
シーンは従者のみならず、ヴァイスの教育係としての任も命じられていた。領主についての知識を身につけさせ、それらしく仕立てなければならない。
それまで、幾人か家庭教師をつけていたようだが、全て上手く行かなかったのだとか。
ヴァイスには手を焼いているって、皆、言っていたな。
当のシーンも、前にも増してその話題になると表情が曇る。
なんとかなるといいんだけど…。
ポンプ式の井戸から汲み上げた水を飲み、顔を洗う。
「ん、気持ちいい」
冷たい水だが、火照った身体には心地よかった。首に巻いていたタオルを解き顔を拭いていた所へ。
「…お前がシーンのお気に入りか?」
その声にはっとして顔を上げる。見れば一人の青年が立っていた。歳の頃は同じくらい。
絹のブラウスに濃紺地にチェックの入ったベスト、同じく濃紺のパンツ。全て上質なのが見て取れた。身につけているもので、それが誰かすぐに知れる。
ヴァイス…樣。
初めて間近で見た。漆黒の髪は濡れ羽色。それが艶を帯び風に揺れていた。肌の色は透ける様に白く日に焼けたことなどない様に見える。
確かに美しい人だった。顔は最高と、不遜な言葉をアンリが吐いていたが、確かにその通りで。まるで神話の時代の神々の様。
そのヴァイスは腕を組み、こちらを品定めするような目つきで見ていた。蔑まれている気がするのは気のせいではないはず。
でも、これが普通だ。
相手は侯爵家の子息。本来なら自分の様な下の者と言葉を交わすはずもない。これが現実なのだ。
「ハイトと申します。厩舎管理の見習いです…」
「名前なんか聞いてない」
「─…」
ぴしゃりとした冷たい言葉に、手にしていたタオルをギュッと握りしめる。
「ふ…ん、見目が少しばかりいいくらいだな。ほかは大して良くない。こんなのにご執心とは…。ボロ雑巾のような奴に負けるなんて、納得できないな。シーンはよほど、疲れて正常な判断ができないらしい…」
上から下まで眺めた後、鼻先で笑う。
確かに今、ハイトが身につけているものは、擦り切れ汚れの落ちない日焼けしたシャツに、膝に継ぎ当てのあるカーキ色のズボン。
作業をするのだから、これが普通なのだが、普段とてこれと大差ない。惨めな心地になるが、仕方のないことで。
「それとも、奴と寝たのか? お前らみたいなのはそうやって金を稼ぐんだろう? シーンはそっちが気に入ったのか…。あんな涼しい顔をして、奴も好きものだな。趣味を疑う」
流石にハイトは怒りを抑えられない。
自分が貶されるのは一向にかまわないが、シーンが辱められるのは許せない。
「シーンとはそんな関係じゃありません。大切な…友人です」
「友人? 笑わせる。お前みたいな下賤な輩が、シーンを友人だと? どうせ憐れみを乞うたんだろう? 同情でも引いてシーンをたらしこんだか? 奴は人がいいからな? すぐに騙される…。まあいい」
ヴァイスは歩を進めると、壁にかけてある馬用の鞭を手にした。
乗馬用の短鞭は、芯がしなやかな革で巻かれ、丁寧に磨きがかけられていた。白い指がその柄を握り締める。
「シーンは、僕が弱ったふりをすれば、すぐに引っかかる…。お前みたいな奴なら尚更だ。どうやって気を引いた?」
「俺は──何も…。偶然、街で馬車に轢かれそうになった所を助けられて…。それがきっかけで、親しくさせてもらっています…」
「ふん。親しく──ね。お前の様な奴には、きっちり自分と言うものを分からせないとな…」
振り返ったヴァイスは軽く鞭をしならせて見せた。ブンと空気が鳴る。
「身の程を知れ──」
「……っ」
何が来るかは──分かる。
ハイトは唇を噛みしめ身構えた。
抵抗することなどできない。雇い主の息子なのだ。立てつけばすぐに辞めさせられる。
それに、もし自分がそんなことをすればシーンに迷惑がかかる。雇うきっかけを作ってくれたのはシーンなのだから。
少しくらい打たれたって平気だ。これくらい、慣れてる…。
働きに出た先で、殴り飛ばされたり、突き飛ばされたりは日常茶飯だった。足も悪い。余計に目を引くのだろう。ストレス発散の捌け口によくされた。
シーンに知られたくはない。出来れば外からは分からない箇所を打って欲しかった。
ハイトが抵抗の色を見せないと分かり、ヴァイスの口元がにやりと笑みを象る。
ひゅっと音を立てて鞭がしなった。思い切り力を入れたのが分かる。
これくらい──。
ハイトはぎゅっと拳を作り、次に来る痛みに耐えるように目を閉じた。
+++
「ヴァイス様!」
鞭が振り上げられたその瞬間、声がかかった。顔を上げれば、シーンがこちらに駆けて来る所だった。
シーン…。
「なかなか戻らないので見に来てみれば。なにかハイトが気に障るようなことを?」
シーンはすぐにヴァイスとの間に割って入る。ヴァイスは振り上げた鞭を渋々下ろした。
「打つのに理由が必要か? 気に入らないからさ」
シーンは二度と振り上げられない様に鞭の芯を強く握ると。
「これは人を打つために作られてはいません…。それに、単に気に入らないと言うだけで、雇ったものたちを端から邪険に扱われてはこちらが保ちません。必要だからクライヴ様の許可を得て雇い入れているのです。何かあればまず私に。それに今は自習のお時間でしょう? ──さぼられたのですか?」
「うるさいな…。もういい」
ヴァイスはプイと背を向け屋敷の中へと向かうが、
「シーン。その汚いのを好きなだけ可愛がるといい。けれど、お前の選択肢はもうない。それまでは見逃してやる」
「……」
シーンはきゅっと唇を噛みしめるが、それに対して返事はしなかった。
ヴァイスの背が見えなくなった所で。
「シーン。ごめん…」
窺うようにそう言えば、シーンはこちらに振り返り、それまで固かった表情を崩す。
「なぜ謝る? ハイトは何も悪いことはしていないだろう。…今後はなるべくヴァイス様と接触させないよう気を配る。仕事中もキエトとなるべく一緒に作業する様に頼もう。事情を話せば分かってくれる」
「いいよ。シーン。そんな気を遣わせなくても…。俺、別に平気だ。鞭ならまだましだ。棒や素手で殴られたことだってある。あれくらい──」
言いかけたハイトへシーンが向きあうようにして、立つとその肩に手を置いた。
「ハイト、平気だなんて思ってはいけない。あれは人としてやってはいけない行為だ。それを当たり前と思ってはいけない。君に手を上げる人間は、そこまで考えが及ばない…愚かで幼い、可哀想な人間だ…。どんな身分だろうと職業だろうと、同じ人間。生きている価値に変わりはない。それに…ハイトをそんな目には遭わせたくない…。どうか、私のしたいようにさせてくれないだろうか?」
「シーン…」
俺みたいな人間に。
そこまで思ってくれることが素直に嬉しい。そんな風に人から言われたこともない。
感情がこみ上げ涙がこぼれそうになった。手の甲で涙をぬぐおうとすると、その前にシーンが親指の腹でそっと拭い取ってくれる。
「君は価値のある人間だ。誰に何を言われてもされても。どうかそのことを忘れないで欲しい」
「…うん。わかった…」
そこでキエトが姿を現し、連れだって朝食を取りに屋敷へと戻る。
ちなみにシーンは午前の用務が終わり、ヴァイスが自習時間となったため、朝食時間になっても戻って来ない、ハイトの様子を見に来てくれたとのことだった。
先を歩くキエトの後に続きながら。
「もし、今後、ヴァイス様が手を上げるようなことがあった──むろん、そんなことにはならないよう、細心の注意は払うが──隠さず私に言ってくれ。ヴァイス様に何を言われてもな。ハイトの不都合になるようなことにはならないから。約束してくれるか?」
「…うん。分かった。ありがとう、シーン」
それを聞くとシーンはほっとしたように笑みを浮かべ、歩きながらハイトの背を軽く抱くように引き寄せた。
「君のおじいさん、ラルスに君をよろしくと頼まれた。大事な孫に何かあったら申し訳がたたない」
「そんなこと…。でも、ありがとう」
そう返事を返しながら、その言葉に消沈する自分がいる。
そっか。頼まれたから──なのか。
シーンが自分に気を配るのは、祖父との約束があるからなのだと知って、胸の奥がつきりと痛んだ。シーン個人の思いではないのだ。
当たり前だって。
何を期待していたのだろう。シーンはハイトの背に手を添えると。
「さあ、早く朝食を食べて。きっと、次の作業がまた待ってる」
「そうだぞ! ハイト、遠慮なく頼むからそのつもりでな?」
キエトが拍車をかける。
「はい!」
ハイトの返事にキエトは満足げな笑みを見せた。
その後、キエトはシーンに少し呼び止められ。ハイトには先に食堂に行くように言われた。先ほどの話をするのだろうか。
あの時、ヴァイスは選択肢はないと言っていたけれど。
シーンはその言葉に顔色を暗くした。
シーンはいったい、何を迫られているのだろう?
先に食堂へ入りながら、背後でキエトと立ち話をするシーンの背に目を一瞬、向けた。
ヴァイスとの間に何があるのかは分からない。けれど、それがシーンを一層、暗くさせる要因の一つなのだろうと思った。




