13.初仕事
あれから一週間が経ち、いよいよ、ハイトが仕事に来る日となった。
それまで晴れなかった心も、ハイトの顔を見られると思うと軽やかになる。
彼の顔を見たいな。
曇りのない笑顔。笑うと周囲の空気まで笑っている様だった。
今か今かと食堂脇の勝手口の外で待つ。すると、予定していた時間より少し早く馬車が到着し、使用人用の門からこちらに向かってくる姿が見えた。
「ハイト!」
手を大きく上げると、ハイトも気が付き振り返して来る。
「シーン!」
本当は駆けだしたいのだろうが、動きずらい右足が枷となってそれ以上早くは歩けない。それならと、シーンから駆け寄る様にしてそのもとに向かった。
「良く来たね。馬車はちゃんと時間通りに迎えに行ったかな?」
「はい! 大通りでちゃんと待ってくれていました。御者のおじさんに、本当にここで働くのかって何度も聞かれて…」
肩に手を置き見下ろす。晴れやかな笑顔にこちらも笑顔になる。
「ここでは一番大きなお屋敷だからね。君は幸運だ。さあ、皆に紹介しよう。ひと休みしたら厩番のキエトにも引き合わせよう。彼は今、牧場に出ているんだ」
「…はい!」
高揚した頰が初々しい。苦労はしてきたはずなのに、ハイトにはそれを感じさせない明るさがある。
「荷物を持とう。部屋は空きが出るまで、当分私と同室になるけれど、いいかな?」
「…いいんですか? 一緒で嬉しいです! 緊張してたので──」
「ハイト。私や皆といるときは、気を使わなくていい。敬語も必要ないよ。会わないうちにすっかり戻ってしまった様だね」
「…! っ、すみま──ごめんっ。なんか、着いた途端緊張して…。それに…。シーン、制服を着てるとまるで別人みたいで…」
その日は従者として身支度を整えていた。
白のシャツに黒のタイにベスト──上着は仕事中以外、クロークに掛けてある──下も黒のスラックス。確かに以前、ハイトと会った時とは随分違う。しかし、
「中身は同じだ。それに緊張しない方が可笑しい。ハイト、これからよろしく」
勝手口から入る前、立ち止まって右手を差し出した。すると、ハイトも改まって居住まいを正すと、軽くズボンで手を拭いてから差し出す。
「よろしくお願いします!」
そう言ってから、あっと口を押えた。どうしても敬語になってしまうようだ。そんな様子さえ好ましく思える。
骨ばって傷の多い手を優しく握り返すと、
「こちらこそ。キエトへの挨拶が終わったら、敷地内を案内しよう。屋敷の中は後日になるが」
「ありがとう、シーン。…でも、シーンは忙しいんじゃ?」
「ヴァイス様は元ご学友の所へ遊びに行っている。その間はついていかなくていいんだよ。だから三時間ほどは自由なんだ」
ご学友──とは名ばかり、ヴァイスの良くない遊び相手で。
通っていた学校では一つ上の学年だったが、当時、寮を抜け出しては夜の街に遊びに出る仲で。さらに深い仲でもあった。
卒業後もその関係は続き今に至る。今回もその為に会いに行ったのだと想像がついた。今頃、ベッドの中だろう。
なぜ知ったかと言えば、迎えに行った際、わざと最中に部屋へ呼び出されたのだ。
今思えば、あれも自分の気を引く為の行為だったのだろう。相手の腕の中で、にやりと赤い唇の端を釣り上げ、笑ったヴァイスの口元をよく覚えている。
確かに扇情的な絵ではあったが、だからと言って、ヴァイスに嫉妬や欲情するはずもなく。自身を大切にして欲しいと願うばかりだった。
だが、それは今必要な情報ではなかった。気を取り直してハイトを見下ろすと。
「さあ、三時間などあっという間だ。早く紹介を済ませて敷地内を案内しよう」
「うん!」
ハイトの屈託のない笑顔に、癒される自分を感じた。
+++
その後、皆への挨拶も済ませ、荷物をほどく前、先に牧場にいたキエトの元へと向かった。
今は馬と牛、羊を放牧中だ。山羊もその奥にいるが、家畜については別の管理人がいる。キエトは主に馬を見ているのだ。
「ああ、そいつが新しい奴か? なんだ、随分小柄だな?」
キエトがすっかり白くなった顎髭に手をあてつつ、からかい加減でそう口にすれば。
「こんにちは、キエトさん。ハイトと言います。これでも身長はまだ伸びている最中です。今は百六十五センチですけど、もっと伸びる予定です!」
「はは! 威勢がいいな? 気に入った。で、馬の世話は慣れているって?」
「はい。一通りは──」
言いながらハイトは牧場へ視線を向けた。そして、その中の一頭を見て固まる。
「あっ…! あれ、フルーだ…! フルー! おいで!」
ハイトが口笛を吹くと額に星のある、栗毛の馬が一声いなないて、こちらに一目散にかけてきた。
「あれは──全く人に懐かん奴なんだが…」
キエトは訳がわからず、ぽかんとしている。
そこでシーンが事情を説明した。
彼の父はレヴォルト家が買い取った農地の元管理人で、この馬も所有していたのだと。その後は父親が病に倒れ、農場を追い出されたことも。
「そうか…。そんなことが…」
キエトは柵越しに、馬の鼻ずらを愛おしそうに撫でるハイトに目を向けながら。
「まあ、過ぎたことはしょうがねぇ。親父さんができなかった代わりに、また馬の世話を任せよう。それでいいか? シーン」
「ええ。彼はきっと役に立ちます。ただ、足が悪くて、走るのは難しいですが…」
「なに言ってんだ。俺の仕事では走り回らなくたって、馬が勝手に走って寝床に帰ってくる。心配ないさ」
キエトはそう言うと大きな声で笑った。釣られてシーンも笑う。
「良かった…。ありがとう。キエト」
「まだ、礼は早いぞ? 俺は厳しいからな? 奴が根を上げたらそこでお終いだ。明日からビシバシしごくからな?」
フルーと呼ばれた馬と別れたのち、ハイトが戻って来た。会話のそこだけ聞き取ったハイトは。
「よろしくお願いします! 根なんか上げません。なんたって、フルーと会えたんだから!」
ハイトはまだそこにいるフルーに目を向けた。会話が聞こえていたように、フルーはもう一度嘶くと、ゆっくりその場を離れ仲間の元へ戻って行く。
「キエトさん、フルーはとても健康ですね? きっと手厚く面倒を見てもらっていたからだ…。ありがとうございます」
「それが俺の仕事だ。お前にもちゃんと引き継ぐからな? たくさん面倒を見てやってくれ」
「はい!」
嬉しそうに返事を返すハイトにシーンの目元も緩む。
彼をここへ連れてきて、本当に良かったと思った。
+++
その後、キエトと別れ、そのまま敷地内を案内する。
広い牧場、果樹園、お屋敷の裏庭、ガラス張りの温室、噴水に美しいバラ園。そのすべてにハイトは感嘆のため息を漏らした。
ハイトはバラ園の入り口、アーチ状になった淡いピンクのバラの垣根で足を止め、花を見上げながら。
「…まるでおとぎの国みたいだ。きっとイルミナが見たらびっくりするだろうな」
「年に数度、市民にも開放している。その時ならイルミナも見ることができるだろう。それまでに体調も良くしておかないとな? それには、兄の頑張りが必要だが…」
「俺、頑張ります! ここで働けるなら薬も買えるだろうし…。シーン、本当にありがとう。あなたに出会えてよかった…」
「キエトではないが、お礼は早いぞ。恐ろしく厳しい従者や下僕がいるかもしれないからな?」
ふざけてそういえば、え? と声を上げたハイトだったが、すぐにきりりと顔を引き締めると。
「俺、それでも頑張ります!」
イルミナや祖父のラルスの為にも、何があろうと頑張らねばならないのだ。そんな脅しにひるむハイトでは無かったらしい。
「…冗談だ。そんな輩がいたら、私が排除している。皆、いい連中ばかりだ。安心していい。ただ──」
バラ園を歩きながら、シーンは表情を曇らせる。
「ここの領主のご子息、ヴァイス様には気を付けて欲しい。少し我儘に育ってね。人は皆自分にかしずくものと思っている。彼の機嫌を損ねて辞めさせられた者も多くいる。…気をつけるのはそこだけだ」
「前も話に出ていた…?」
シーンはうなづく。
「ハイトが直接関わることはないだろう。ただ、私が彼の従者だから、使用人の部屋がある地下にもちょくちょく訪れる。何か言われても、大人しく聞くように…。目立たなければ何も起きない」
「…まるで腫れものだね?」
「そうだな…。彼の扱いには皆手を焼いている。私もね…」
「シーンが? そうか。そんなに大変なのか…。でも、シーンには優しいんでしょ? 気に入られているって、クレール先生が」
シーンは苦笑するとハイトの背に手を添え歩き出す。
「…そうなんだが。色々あってね…。少し、気に入られ過ぎた様だ。流石の私もお手上げでね」
ハイトにこぼしても仕方ないのに、つい弱音を吐いてしまった。するとハイトは強い眼差しでシーンを見上げ。
「俺にできることがあれば言ってよ。なんにもないかも知れないけれど…。シーンの役にたちたい」
「ふふ。君は…。そう言ってもらえると気が楽になる。私にも頼れる味方がいるとね? でも、大丈夫だ。なんとかなる…」
そう。なんとかさせねば。
このまま大人しくヴァイスの思うままにする気はなかった。自分が犠牲にならなくとも、開ける未来がきっとあるはず。
するとハイトは足を止めて。
「俺…。シーンには本当にお世話になっている。その代わりって言うのも何だけど…。何かあったら溜め込めずに俺に話して欲しい。愚痴ってくれていい。…俺に出来る事なんて、それくらいしか思いつかないけど…。シーンのそんな顔、見たくないよ…」
「ハイト…」
シーンも足を止め、ハイトを見下ろす。
年下だと思っていたのに、この瞬間は大人びて見えた。強い眼差し。成長すればきっと精悍な青年になることだろう。
「心配をかける様なことを言ってすまなかった。…わかったよ。君の前では虚勢を張るのはよそう。実際、かなり追い込まれてはいるんだ。なんとか切り抜けようとは思っているが…」
すると、ハイトは熱心に覗き込んで来る。
「シーン。シーンは…他にやってみたい事はないの?」
「ハイト?」
「ずっとここで働きたいなら無理だけど…。でも、もし少しでも他にやってみたい事があったならいっそ他を考えても…。俺、色々な仕事をしてきたから、分かるんだ。やりたい気持ちさえあれば、きっとどんな事でもできる。シーンは俺よりずっと立派だし、きっと新しい仕事でも上手くやっていけるよ。逃げるわけじゃなく、新しいことへの挑戦だってとらえれば…」
「他に…か。考えた事もなかったな…。父のような立派な執事になるのが夢でね。ずっとそれを追ってやってきた。ほかに──か」
シーンは考え込む。
限界を感じはしたものの、他の仕事をやろうとは考えてもみなかった。確かに執事なることは幼い頃からの夢だったが。
「無理にとは言わないよ。でも、それも選択肢の一つだと思う…。シーンはきっと色々できるはず。俺は出来ることが限られてる。けどシーンは…」
ハイトが自分の右足に視線を落とした。
走れないハイト。農場を失い貧しい生活を強いられる日々。
きっと、やりたかったことを沢山諦めてきたのだろう。それでも、前向きに生きてきた。シーンなら出来るはずと思うのも納得だった。
「君に言われるとできる気がしてくるな…。そんな選択肢もあるんだと、前が開けた気がする…。しかし、今のヴァイス様を放って置くことも出来ない。だが、ハイトの言う通り、そう言う選択肢もあるのだと覚えて置くよ」
「シーンは優しいから、きっとヴァイス様は一緒にいたいんだね…。それに制服姿のシーンはとても格好いいもの。好きなのも分かる。…ちょっと見惚れたよ?」
そう言って照れくさそうに笑う。そばかすのある頬が赤らんだのを好ましく思った。
「ただの執事服だが、ハイトに言われると満更でもないな」
「シーンはとても素敵だよ。本当は…俺なんかと関わるような人じゃないのに…」
「ハイト…」
どこか遠くを見る目つきになったハイトに、シーンはどうしたものかと思うが。
ハイトはぱっとまた表情を明るくすると。
「でも、こうして話せるようになれて良かった。シーンは色々大変なのに、こうしていられるのが嬉しくってさ…」
「私は──ごく普通の、真面目が取り柄だけの人間だ。君と何ら変わらない。前にも言ったがこれからも、ハイトとは親しく付き合って行きたい。友人として気兼ねなく。いいかな?」
「もちろん! シーンがいいなら喜んで」
とびきりの笑顔にシーンの表情も綻ぶ。ハイトといると、自分が笑顔になれる。心が穏やかになれた。
「…ありがとう。ハイト」
肩に手を置き見下ろす。
ブルーグレイの瞳がキラキラと輝いて、こちらを見上げていた。
そっと顎に指先で触れる。つい、引き込まれるようにその瞳を見つめていれば。
「シーン…」
ハイトが困った様に見上げて来る。
「ああ、済まない。つい──」
「いいけど…。シーンにそんな風にみられると、なんか照れくさいや」
ハイトは頬を赤らめたまま、照れて笑う。かわいいと素直に思った。トクリと心臓が鳴る。
これは──。
まさかと自分の心の動きを疑って、軽く頭を振ると。
「…そろそろ戻ろう。ヴァイス様も帰ってくるころだ」
「そうだね。あっという間だな。本当に二時間なんてさ。シーンといるといつも楽しいよ」
「私もハイトといるといつも楽しい…」
屈託なく笑うハイトに、シーンも笑顔を向けた。




