10.誘惑
「シーンです。ただ今戻りました。お待たせして申し訳ありません」
扉の前で来訪を告げた。するとやや沈黙のあったのち。
「…いいよ。入れ」
「では、失礼いたします」
ノブに手をかけ扉を押し開ければ、ヴァイスは部屋の奥、窓枠の下に置かれた赤いビロード生地の張られたソファに横たわっていた。
しかし、その姿はあられもない。
湯あみをしたのかローブ一枚だけを身にまとい、片膝を立てそこに横になっている。
羽織っただけのそれの胸元ははだけ、立てた膝からは裾がずり落ち、血管が透けるほど白い腿がすべて露になっていた。以前、幾度か見かけた事後のヴァイスの姿と同様だ。
しかし、幼い頃から目にしてきた裸体に、今さら動揺することもなく。
赤子の頃から知っているのだ。時にはおむつも変え、乳母の代わりにあやしたことさえある。シーンはその姿に動揺も見せず、
「ヴェイス様、幾ら温かくなってきたとはいえ、もう少し身支度を整えて置かないと、お風邪を召します…」
すぐにクローゼットに向かい、適当な着衣を取り出そうとすれば。
「…シーンは、僕が嫌いじゃないんでしょ? ここまでして、好きにしていいって言っているのに…。なんとも思わない?」
ヴァイスはわざと足を組み替えて見せた。白い太腿が更に露わになる。十八才の少年がもつ色香ではない。シーンはため息を漏らすと。
「…昨日も言いましたが、私にとって、ヴァイス様は屋敷の主であるクライヴ様の大切なご子息。幼い頃よりずっとお側にお仕えし、その御身をお守りしてきました。その大切なご子息に、不当な思いを抱くなどあり得ません。私にとってヴァイス様は仕えるべき主。他の感情を持つなど考えたこともありません」
「…面白くない。なら、どうやっても僕はシーンの愛する人にはなれないの? 仕える以上の気持ちは持てないって?」
「申し訳ございません…」
シーンは頭を垂れると。
「ヴァイス様は近々お誕生日を迎えられ、十九歳におなりです。もう大人の年齢です。戯れるのも程々にされた方がよろしいかと…。この機会にきちんと将来を見据えていただければ、きっと明るい未来が開けるはずです…」
しかし、ヴァイスは取り合わない。面白くない顔をして、ソファの肘掛けにもたれると。
「シーンへの思いが戯れだって? 僕はいつだって本気さ。シーンが応えてくれるなら、それを証明して見せるけど…」
自身の胸元へ妖しく手を這わせる。毒々しい色香。シーンにはそう感じた。
「…ヴァイス様。幾ら誘われても私の思いは変わりません。どうか、私ヘ思いを向けるのではなく、真面目に人生と向き合って下さい。それが幸せへの近道です…」
「僕が真面目に考えていないとでも?」
ヴァイスの声音がきつくなる。どうやら気に障ったらしい。
「向き合ったからこそ、シーンを欲しいと思ったんだ」
「ヴァイス様が私をどう思われていようと、私は貴方を主人のご子息、それ以上に思う事は今後もございません。──さあ、お着替えください。言いおいていた本はお読みになられましたか?」
「…後で読むさ」
ヴァイスはますます不機嫌になる。ちらと机に目を向ければ、読む様にと伝えておいた本は、机に置かれたまま。少しは開いた気配があるが、飽きたのだろう。
シーンは心の内でため息をつくと。
「私のことを理由に、将来に目を向けないのはいかがなものかと──。いずれ成人を迎える者がそんな態度では困ります。貴方の下には多くの仕えるものがおります。貴方がひとつ間違えば全て路頭に迷うことになるのです。どうか、私の小言をうるさいと思わず、耳を傾けてください。貴方に言えることはそれだけです」
語気が強くなるのを止められなかった。
厳しい躾の為の言葉は吐けど、愛の言葉など囁く対象ではないのだ。考えたこともない。
今はとにかく、このヴァイスを一人前にすることが先決だった。しかし、ヴァイスは引かない。
「僕を振ったら、後悔することになるよ? シーン。お前の未来は僕の手にかかっているんだから…」
「振るなど滅相もございません。私はその立場ではないとお伝えしているのです。もっとご自分のお立場にあった方をお選びください。私はいつでも貴方の幸せを願っているのですから」
これは嘘ではなかった。幼い頃から見てきたヴァイスに情が湧かないわけがない。
シーンはソファのひじ掛けに着衣を置くと。
「こちらにお着替えになってください。直にお茶の時間になります」
「わかってる…」
つまらなそうにそう返事を返すと、立ち上がってローブを乱暴に脱ぎ棄て、窓から差し込む日の光りの中に裸体を晒した。そうして、こちらを挑発するように見つめてくる。
目に眩しいほどの白い肌。黒檀の様に黒い髪が日を受け艶めく。その身体の造りはひとつひとつ精緻で、まるで芸術家が繊細に掘った青年の神像のようだった。
しかし、その青い瞳からほとばしる光は妖しく、尋常な者の持つそれではない。こうやって、皆、その手に堕としていったのだろう。
この方は──。
シーンはしかし、何事もなかったようにひじ掛けに置いた白いシャツを手に取り、ヴァイスの肩にかける。
腕を通させ、ボタンをひとつひとつ止めていく。その間、じっとその瞳はシーンをとらえていた。
まるで獲物を狙う猛禽類のように。
息のつまる時間だった。
+++
お茶の時間もその後の夕食までの学習時間も、全てつつがなく過ぎていった。
その間も夜の支度も整えに行った際も、ヴァイスの態度は変わらず不機嫌なまま。
夕食も終わり、使用人の時間となると、漸く息をつくことが出来た。
ヴァイスのそれは、子ども特有の独占欲に過ぎない。大好きだったおもちゃを取り上げられそうになって、必死にすがる子どもだ。
もう、大人におもちゃは必要ないのだ。
一人前の大人として、新たな道を切り開いて行って欲しい。シーンの願いはそれだけだった。
「新しい奴は来週だって?」
夕食も終わり、ひとり残って食堂のテーブルで、ヴァイスの今後の予定や必要な備品などの書類を確認していれば、下僕のアンリが声をかけてきた。もうそろ、就寝の時間だ。
アンリは仕事はきちんとこなすが、幾分、言葉数が多く、よく父オスカーにたしなめられている。もっと違う職が合っている気もするが、今のところその気はないようだった。
「ああ。ハイトだ。ここにも顔を出すだろうからよろしく頼む」
「部屋はどうするんだ? 空いてなかったように思うけど?」
広い屋敷を動かすため使用人は数多くいた。通いの者はごくわずかだが、それは部屋がないからに過ぎない。
確かに部屋に空きはないが、初めてのお屋敷での仕事だ。慣れるまではここに住んだ方がいいだろうと踏んでいた。
「私の部屋が空いている。もともと二人用の部屋だったからな? 当分はそこで寝起きしてもらう予定だ」
「うわっ! それは遠慮したいだろう? 気が抜けないって…」
怖い上司の下じゃ休まらないと、ふざけてアンリは口にしたが。
実際、自分は堅物と思われているふしがある。端から見れば、一緒の部屋など息苦しいのなにものでもないのだろうが、他に名案はなく。
「仕方ない。嫌でも当分は使ってもらうさ。慣れれば通いにすればいい。悪い子じゃない。面倒を見てやってくれ」
「了解了解。けど、シーンが人を連れてくるなんて、珍しいな? いつも親父さんの仕事だろうに」
「父は前に失敗したからな? たまには私が選んでもいいだろう」
「ああ、この前の奴ね…。あれは最悪だったなぁ。文句ばかりで言われた仕事だってやらないんだからさ。今度の奴はシーンの折り紙付きってんだから、期待してるよ」
「期待してくれ。きっと直に気に入る」
きっと、ここにもすぐ馴染む。皆、いい連中だ。それにハイトなら皆も気に入ってくれる。
屋敷の中は主がいないときにしか案内は出来ないが、裏庭や温室、農場などは案内出来るだろう。ハイトの驚きに輝く顔が目に浮かぶようだった。
そんなシーンを隣で見ていたアンリは。
「…なんか、シーン。嬉しそうだな?」
「そうか?」
「だって、その顔。久しぶりにそんな穏やかな顔みたって。いっつもあいつの面倒で、眉間にシワ寄せて、てんてこ舞いって顔してるのにさ」
「そんなことはないさ。それに『あいつ』じゃない。ヴァイス様だ。普段からそんな言葉を使っていると、態度にも表れる。あれでいてヴァイス様は敏感だ。すぐに気づかれて暇を出されるぞ?」
「あーやだやだ。って、そんな事を言わせる人間だってこと、シーンだって分かってんだろ? あれはどうにかしないと、本気で就職先を探さないといけなくなる…。このお屋敷の未来も暗いなぁ」
「そう言うな。じきに十九歳にもなられる。もう、大人の年齢だ。今のクライヴ様とて、お若い頃はかなり派手にお遊びになられた。…きっとヴァイス様も落ち着かれる」
それはシーンの願いでもあったが。
「だといいけど。今のところ、それは無いに等しいだろうな。っと、もうこんな時間だ。おやすみ、シーン」
「ああ、お休み」
書類の確認も終わった。アンリを見送って、さあとイスから立ち上がれば、階上から下りてくるものがいた。
皆、寝静まっているはず。
顰めるように下りてくる足音は、大人のものではなかった。それで粗方の予想はつく。と言うか、他にいないだろう。
「…シーン。眠れない」
食堂の廊下を出て階段を見上げれば、予想通り、ヴァイスの顔が階段の手すりの間からのぞいた。
+++
「ヴァイス様──。ここに降りてこなくとも、呼び鈴を鳴らしていただけれお部屋にお伺い致します。とにかく、先に部屋にお戻りを。今、ミルクを温めてお持ちします」
「シーン…。怖いんだ…」
そう言うと階段を降り切り、頼りなげにシーンの方へ腕を伸ばしてきた。まるで悪夢を見たあとの子供のよう。すぐに身体を受け止める。
「何か悪い夢でも見ましたか?」
「…皆、いなくなる…」
「ヴァイス様?」
「僕の傍から誰もいなくなる…。そういう夢を見た…」
シーンはひとつ息を吐き出すと。
「大丈夫です…。誰もヴァイス様をお一人には致しません。私もついていますから。さあ、ちゃんと立って、お部屋へ──」
と、ついとヴァイスが背を伸ばし、シーンの頬をその両手に捉えた。不意の事に対応が遅れる。
気が付けば、ヴァイスが唇をあわせていた。それもただ合わせるだけではない。舌先が口の中に入り込んで来る。
「──っ、ヴァイス様!」
ヴァイスの舌が自らの舌に触れた所で、慌てて引きはがした。妖しい動きにそのつもりは無くとも心がざわつく。
「ふざけるのはお止めください」
その両肩に手を置き、諭すようにそう口にすれば。
「ふざけてなんかいない…。僕はシーンに捨てられる、それが嫌なんだ…。ねぇ! 僕はシーンの為ならなんでもするよ? 言う事も聞く! だから、僕を離さないで──!」
そう言ってまた抱きついてくる。
胸もとにこすりつけられる頭に、幼い頃のヴァイスを思いだした。
やはり昔も悪夢を見たと言って、自分に抱き着いてきたことがあった。そのたびに宥め、一緒に同じベッドで眠りについたものだった。
あの頃は弟の様で、そんな行為もかわいいものと受け止めていたが。
「…ヴァイス様。どうか、落ち着いて下さい。とにかく、一旦お部屋に戻りましょう」
ここに他に人がいなくて良かったと思った。もし、見られていたならどう取られることか。
背を支えるようにして、ヴァイスとともに上階の部屋へと向かった。
部屋に戻ると、もう一度ベッドに眠らせ、シーンはその傍らに椅子を引き寄せ座る。
「眠りにつくまでここにいます。ですから、安心してお休みください」
あくまで先ほどの行為は悪夢の不安にさいなまれた結果だと、通すことにした。しかし、ヴァイスは。
「…一緒に寝てよ。昔はよく寝てくれただろ?」
「駄目です…。それではヴァイス様が休まりませんし、第一、従者が雇い主と同じベッドで眠るなどあり得ない事です。いくら許可を得たとしても。お父様が知ればどんなにお怒りになるか。さあ、もうお休み下さい」
肩のあたりまで上掛けを引き上げると、その手をヴァイスが掴んだ。じっとりと熱をもった手が手首に絡む。いつかと同じだ。
それはまるでヴァイスの心の内を現す様で、内心ぞくりとした恐怖を覚える。
「ねぇ…。昼間はあんな態度を取ったけど、僕は──ただ、振り向いて欲しかったんだ。頼むから、僕を嫌いにならないで…」
「嫌いになど…。これからもお側で仕えさせていただきます。だからご安心下さい」
「みんながどう言っているか知ってる…。僕の代になれば、このお屋敷は潰れるって…。僕だってそんなのは嫌だ。けど、どうしたらいいのか分からないんだ…。何か手をつけようとしても、ずっと何かに追われてる気がして、何をしていいのか分からなくなる…。兄さんたちが急にいなくなるから…。僕は継ぎたくなんかなかったのに。でも、シーンがずっと側にいてくれるなら、やれる気がする…。ねぇ、これから先もずっと僕の側を離れないで? キスもハグも…しなくていい。でも、離れるなんて言わないで…」
「そんなこと。一言も言ってはおりません。お父上に解雇されない限りは、ずっとお側におります。きっとそんなことにはなりません。──お休みください」
「シーン…。愛してる…」
涙目でそう言われた。
流石に心は揺れたが、だからと言ってそれがヴァイスの求める愛情へ傾くものではない。
「おやすみなさい…」
そうとだけ返し、笑みを浮かべて見せた。
ヴァイスはどこか不服そうでもあったが、それ以上は口にせず、小さくおやすみと言って目を閉じた。
暫くして寝息が漏れてくる。すっかり熟睡している様子を確認し、ほっと息をつく。
どうしたら、私への執着を解けるのか──。
シーンは深いため息を漏らした。




