第二話「戦う理由」
悪魔。
そんなこと、私とは程遠い存在だと思っていたし、なんなら存在しないものとも思っていた。
ゆかりはベッドの上で布団にくるまりながら、昨日のことを思い出していた。突然現れた女の子、その子は自分のことをアスモデウスと名乗っていた。
それだけじゃない。担任の先生が悪魔になったり、それに襲われたり——
そして私は——
「っ……夢、だよ。夢……」
あの後、学校側はその先生がゆかりを襲い、そしてどこかに消えていったということにして話を終わらせた。今学校は対応に追われているらしく、しばらく学校は休校になった。
休みになったのはいいことだ。だが、休みになったせいで、あのことは現実だということを嫌でも教えてくる。
あの時の痛み、あの時の恐怖。そして、あの時の感触。
全てが、ゆかりの心と脳に刻まれている。夢じゃないと語りかけている。ああ、でも。それでも……
少しは、夢を見せて欲しい
「いつまでガタガタみっともなく震えてるつもりですの?」
ゆかりは、声が聞こえた方を見る。
そこにいたのは、白い、ふんわりとしたドレスを着た少女——だが、私をこんな地獄に落とした張本人。その名は、アスモデウス。
アスモデウスはどこからも無敵だかわからないが、コーヒーを飲みながら、優雅に朝の時間を過ごしていた。その呑気な姿にゆかりは一瞬呆気にとられた。
「……も、元はと言えば君が……!」
君のせいであんな怖い思いしたんだ。そう言おうとした瞬間、アスモデウスは、その言葉を遮り、こう言い放つ。
「元はと言えば貴方がわたくしをトラックから助けようとしたからですわ」
トラック。つまり、あの時の公園出来事のことを指しているのだろう。だが、それがなんだというのだ。
「わたくしがトラックなんかで死ぬわけがないでしょう。それなのに、貴方が余計なことをしたせいで、わたくし、下等生物のミジンコに助けられたっていう恥を背負って生きていくことになりかけましたわ」
「それがイヤなので、わたくしは貴方をわたくしの眷属として雇うことに決めましたの」
我ながらいい考えでしょう? そう言ってアスモデウスは笑う。
「じ、じゃああの時の私がやったことは……」
「ええ。全くの無駄でしたわ」
あっけらかんとアスモデウスは言い放った。
ゆかりは、頭の中がぐるぐると回り始めたのを感じた。自分がやったことが無駄だと知り、そしてそれ以上に、自分がやったことのせいでこんなことになってるなんてことを知ってしまったのだから。
「その代わりわたくしの眷属になれたからよかったじゃありませんの。どうせ、もうわたくしたちの争いから逃げられないのですのよ」
「そ、そんなの知らないよ! 勝手に戦ってよ」
「それはできませんわ。理由はしっかりありますわ……悲しいことに……」
あら。
アスモデウスは、小さく呟き、ドアの方を見る。ドアは開いており、代わりにゆかりの姿が消えていた。
「あらら……本当ミジンコね、逃げて何か変わるわけじゃないのに」
アスモデウスはそう呟いて、一口コーヒーを飲んだ。優雅な時は、ゆかりの部屋の中のみ続いているのであった。
一方、ゆかりは外に飛び出していた。パジャマ姿で、あまり人に見せられるような格好ではないが、アスモデウスと同じ場所にいると気が狂いそうだったから。
まさに文字通りの悪魔。アスモデウスのことを思い出して、ゆかりは深く震える。全て無駄だと言い切られたことは、ゆかりには耐えることはできなかった。
道ゆく人々は、パジャマ姿のゆかりを見て不審な顔をする。虐待を疑われてるのだろうか。それとも浮浪少女?
涙は自然と溢れてくる。このまま消えてなくなりたい。そう思っていた時だ。
「あれ! ゆかりちゃん、どうしたの?」
声が聞こえてきた。顔を上げると、そこにはこちらを心配そうに見る女の子がいた。彼女の顔を見て、ゆかりは緊張の紐が解けて、その場に泣き崩れてしまった。
「わ!? だ、大丈夫!? と、とりあえずうちにくる!?」
その少女は、ゆかりの肩を抱いて歩き出した。
少女の名前は、長瀬藍と言った。ゆかりの、長い付き合いの友達だ。
ゆかり自身、そこまで交友関係が広いわけではないが、そんな中でもゆかりと仲良くしてくれる数少ない友達。
どうやら、最近連絡をしても反応がないゆかりが心配で家に行く途中だったらしい。その時、泣きそうなゆかりを見つけて駆け寄ってきたのだ。
「ゆかりちゃん、心配してたんだよ。ラインしても返事ないし……」
そう言って、藍は飲み物が入ったコップを、ゆかりの前に置いた。それにはたっぷりとオレンジジュースが入っていた。
ゆかりは震えながら、そのコップに手を伸ばした。持ち上げようと力を少しだけ入れた瞬間、ピシリと何かヒビが入る音が聞こえた。
そしてそのコップは音を立ててバラバラに割れて砕ける。
ゆかりは、短い悲鳴をあげた。そして、そのコップを見て、ゆかりは先日のことを思い出す。
あんなに走って疲れなかったのは。そして、扉を慌てて開けただけで壊れたのも、コップを握っただけで壊れたのも。
もう、私が人間じゃないことを指している——
「わあ! ちょ、ゆかりちゃん、大丈夫!? 古いコップだったのかなあ……」
「う、うう……」
ゆかりは涙が出そうになった。だが、そんな彼女に、温かい何かが触れた。
藍から抱きつかれていたことに気づくのには、そう時間はかからない。優しくて、暖かい彼女の優しさに触れて、ゆかりは心が安らぐのを感じた。
藍が慰めてくれるのが、とても嬉しくて、そしてとても悲しくて。ゆかりはどんな顔をすればいいかわからなかった。
「おちついた? ゆかりちゃん」
「うん……」
「よかった! じゃあ、私雑巾持ってくるから待っててねぇ」
藍がパタパタと、掃除するように雑巾を撮りにいくのを見ながら、ゆかりはふと鏡に映る自分を見る。
そこにはいつもの自分が映っている。そのはずなのに、そこにいるのは自分じゃなくて、別の何かに見えてしまう。
「う、うぅ……」
自分はもう、人間じゃないんだよ。
「あら。みっともない」
声が聞こえて慌てて振り向くと、窓の外にアスモデウスがいた。涙で濡れた顔を見られたくなくて、ゆかりは慌てて顔を拭う。
アスモデウスはニコニコと笑いながら、窓を開ける。鍵は閉まってたはずなのに……
「こんな鍵、鍵にもなりませんのよ」
「あ、く……ど、どうやって私を見つけたの!?」
「眷属になっているって言いましたわよね? あなたがどこにいるかなんてお見通しですわよ」
さて。アスモデウスはそう言った後ににこりと笑う。
「覚悟決まりました? この前も言いましたけど、覚悟を決めないとさっきのあなたのお友達も……いずれ死んでしまいますわよ」
「おどしのつもり……?」
「あら、事実を言っただけですのに」
「わ、私は……」
ガサッ——
その時、音が聞こえた。
なんのことだろう。と思い、ゆかりはゆっくりとその音がする方に向かった。
扉は中途半端に開いていた。藍が、外に遊びにでも出たのだろうか。いや、そんなはずはない。藍は、ゆかりを置いて外に出るような子ではない。
ゆかりは嫌な予感が自分の体を走るのを感じた。玄関の方に行くと、靴が乱雑に散らばっている。
まるで、何かと何かが争ったかのような形跡——
「臭い」
突然、しかめ面をしたアスモデウスが顔を覗かせた。
「悪魔の匂いが残ってますわね。それに、この臭いは、わたくしが嫌いな臭いですわね」
「あ、藍はどこ……」
「くんくん……臭いが混ざっておりますわ。あの人間と悪魔の匂い。これは連れて行かれた感じですわね。ご愁傷様」
「つ、ど、どうすれば……どうすれば藍を助けれるの!?」
「そんなの、みじんこくらいの脳みそでもわかると思いますわよ」
そういうアスモデウスは、にやにやと、一人笑っている。
ゴクリ。ゆかりは生唾を飲み込む。もう、逃げられないのか。藍を助けるためには、もう——
決断をしないとダメなのか。
「……わかった、戦うよ」
「——今更そんな態度で許されると思っているのかしら?」
「え、え……」
アスモデウスはそう言って、ゆかりの顔を見た。
「わたくし、何度も戦ってほしいと頼みましたわよね。それなのに、今まで断って、今更戦いたいってのは、虫が良すぎるのでは?」
「な、そ、それは……」
「土下座しなさい。そうしたら、許して差し上げることもないですわよ」
どうするのかしら。と、アスモデウスはそう呟いた。
「わたくしからしたら、別に人間なんてどうでもいいのです。だから、誠意を見せてくださいまし」
「両手を地面につけて……そう、この卑しい私に助けをください、と言ってくれたら考えますわ」
ゆかりは——
もう、選択肢はなかった。
ゆかりは、小さく丸まるようになる。額を床に擦り付け、両手を下につけた。恥ずかしさもあったし、消えてしまいたいという気持ちにもなる。
だが、ゆかりにとってそんな羞恥より、藍が消えてしまうのが耐え難いことだった。
「すみませんでした……だから、藍を……助けるために……卑しい私に力を貸してください……」
「あ、あははは! プライドないのですわね」
くすくすと、アスモデウスは笑っていた。アスモデウスは、地面に頭を擦り付けているゆかりの頭を踏みつける。
ぐりぐりと、遊ぶようにアスモデウスはゆかりの頭を踏み続ける。やがて、満足したのか、足を離し
「いいでしょう。助けてあげますわ」
悪魔は、そう言って笑っていた。
◇
悪魔。
アスモデウスの力を得ているゆかりは、悪魔か、そうじゃないから見ただけでわかる。顔面が黒く塗りつぶされているものは、それはもう人間ではない。
それだけじゃない。今、本当の意味で契約を交わしたゆかりには、悪魔がどこにいるかをなんとなく把握できる。
悪魔の匂いを元に、場所の把握をする。藍の家に漂っていた匂いを、ゆかりは追いかける。
アスモデウスとの契約は、簡単に済んだ。本契約とのことで、何か、寿命とかを差し出すのかと思ったがそうでもなかった。
ただ、額と額を合わせて数秒待つだけ。たったそれだけで契約は済むらしい。契約を結んだゆかりはいま、前の時より自分の体が軽くなっているのを感じていた。
「こっちに……いる」
「ふぅん。もう結構使いこなしてるのですわね。みじんこのくせに、やりますわね」
後ろからアスモデウスもついてきている。時刻は昼下がりだが、目的地に行けば行くほど人の気配がなくなっていくのが不気味だった。
「悪魔が放つオーラは、人を寄せ付けない。おそらく、わたくしたちだけが誘われていますわね」
「まぁ、ありきたりな罠ですわね。本当は無視するべきなんでしょうけど、そうはいきませんわよね」
後ろでアスモデウスが何か言っているが、ゆかりの耳には入ってなかった。もう、藍を助けることだけしか、彼女は考えていない。
藍を助ける。ゆかりはそのことしか考えてない。
走る足はどんどん速くなる。彼女を止めるものは誰もいない。
そして、ゆかりはどこかの森の中についた。ざわざわと木々の囁きは、耳障りな音を立てて耳の中に入ってくる。
ざっ、ざっ。足音が、響く。匂いも感じる。悪魔の匂いと、藍の匂い。そして——
「あらあ」
血の匂い。
むせかえるような、その匂いの先に、何かが転がっている、肉片。
「ヒャハハ! 遅い!遅いぞぉ!!」
何かが喚いている。何かが騒いでいる。ゆかりは、もう何もわからなかった。ただ、転がっていう肉片についている布や、毛の色は、とても見覚えがあった。
「一応聞きますけど。さっきの人間の子供はどうしました?」
「はぁ? あんなのすぐ殺して食ったさ! ははは! そこの人間をここに呼ぶためだけの餌だからなぁ! 後の処理はどうでもいいってマモン様に言われたからな!」
「マモンも地に落ちましたわね。外道が」
ゆかりは、後ろからアスモデウスの舌打ちを聞いた。
「……殺す必要あったの?」
震えて出た声に対して、悪魔はニヤリと笑う。
「そんなものない。だが、殺すかどうかは俺が決めていいだろう!」
笑い声が聞こえてきた。不愉快だ。嫌いだ。嫌いだ。嫌いだ
嫌い——
「さぁさぁ! どう料理をして……」
ゴッ! ゆかりの拳が、悪魔の鳩尾にめり込んだ。ぐにゃりと不快な感覚が体全身にくるが、そんなのどうでもいい。
悪魔は、そのまま遠くに飛ばされる。壁に当たった悪魔は、震えながら立ち上がる。
「貴様——! この俺に手を出していいと思ってるのか!」
「私は……お前だけは、殺す」
(あら——)
ゆかりの殺気を感じ取ったアスモデウスは、少し寒気を覚えた。悪魔も同じなのだろう。青ざめた顔で、後ろに一歩下がった。
だが、すぐに大声で吠えた。
「貴様ごときに私が殺されるとでも! 返り討ちにしてやる!!」
「この頂上的な力を得た俺が! 貴様如き若造に!! 負けるわけがない!」
何か、言ってるな。
ゆかりはもう、何も聞こえてない。気づいた時には、ゆかりの拳は悪魔の腹を貫いていた。
悪魔は、意味がわからないような大声をあげて、ゆかりを蹴り飛ばす。自分の腹に空いた穴を見ながら、悪魔は荒い息をだした。
「な、ぐ、貴様……どこにそんな力が……!」
悪魔は、フラフラとしている。それと対照的に、ゆかりは自分の手についた液体をじっと見つめていた。
汚い。
こんな汚いものに、藍は——
「藍は——」
「……あん?」
「藍はお前程度に殺されていい存在じゃない……ッ!」
「く、ははは! そんなこと俺は知らん! ただ俺は殺したくて殺しただけだ」
悪魔はニヤニヤ笑う
「だが、悪くなかったぞ。ガキ特有の柔らかい肉に、あいつの引き攣った顔! 涙も鼻水も垂らして、必死に命乞いをするその姿! 今思い出しても、殺してよかったと大声で言える!!」
憎たらしい声で彼は笑い出した。彼の声は全て、ゆかりの神経を逆撫でする。
藍のことを想像してしまう。彼女が、どういう形で、どういう顔で死んだのかを、鮮明に想像してしまう。
藍はきっと、怖かったはずだ。恐ろしかったはずだ。逃げ出したくて、助かりたかったはずだ。
私のせいでこんなことになってしまった。私のせいで、彼女は死んでしまった。
「さぁ、この腹の傷はお前を殺して治そうとしようかッ!」
「うるさい……」
うるさい。うるさいうるさいうるさい!
「お前だけは、私が殺す……!」
「やれるものならやってみろ!!」
悪魔が突っ込んで来る。がむしゃらに突っ込んで来るその姿を見て、逆にゆかりは冷静になっていた。怒りが、全身を支配してるのに、体は冷静だ。
悪魔が攻撃するより先に、ゆかりは相手の顔を地面に叩きつける。ゴギ。という、短くなにかが砕ける音が聞こえた。
悪魔の首か、顔か。そんなところまで、ゆかりは気にならなかった。そのまま、ゆかりは地面に倒れ込んでいる悪魔の顔を蹴り上げる。
自分の体が、自分のものじゃないような気がした。
バキ、バキ。そのまま、自分の体から異音が聞こえてきた。ふと、自分の腕を見ると、爪がとても鋭利な形になっているのに気付いた。
これならきっと……
あいつの首を、刈り取れる。
空を舞う悪魔に向かってゆかりはまっすぐと距離を詰める。鋭利になった爪で、ゆかりは悪魔の首を切り落とした。
ぼとり、と、音がして、悪魔の体と首が地面に落ちた。悪魔は、驚いたような顔をしていたが彼の体は光のように消えていく。
自分の手についている悪魔の液体を見て、ゆかりは自分の心にポッカリと空いた穴が埋まらないことを感じていた。
——藍
死んだ友人の名前を、小さくつぶやいた。
「まぁ、初陣としては上々ですわね」
後ろから、拍手の音と共に、アスモデウスがこちらにきた。
アスモデウス。彼女のせいで、私の人生が大きく狂い始めた。藍だって、私だって、彼女に会わなければこんな目に遭わなかったはず——
「あら、まだそんなことを言ってるのですの?」
私の声が聞こえていたのか。アスモデウスは私の方を見ていた。彼女の顔は、いつものように笑っていない。
もし——
もし、こいつを殺したら、この苦しさから、解放される、のか。
そう思った瞬間に、ゆかりはアスモデウスに飛びかかった。何度か悪魔を殺したことが、ゆかりの心の枷を外していた。
だから、殺せると思った。殺したら、救われると思った。
だが、その前にゆかりの視界は180度回転する。こちらを見下ろしているアスモデウスの方を見て、彼女に投げ飛ばされたということを理解した。
ガッ! 背中に強い痛みを覚える。だが、まだ諦めるわけにはいかない。この悪魔のせいで、私は、私は!
背中に叩きつけられても、ゆかりはギロリとアスモデウスを睨みつけ続ける。そして、叩きつけられた勢いを利用し、素早く立ち上がった。
そして、ゆかりはアスモデウスに飛び掛かる。マウントを取ろうとした。背丈は相手の方が小さいのだから、一度上をとればこっちが有利だ。
だが、アスモデウスにたどり着く前に、ゆかりは自分の鳩尾に彼女の拳がめり込むのを感じた。視界が暗転する瞬間、彼女の腕が首に伸びる。
首が絞められる音。酸素が足りなくなっていくからか、視界がだんだんと消えていく。
そしてゆかりは、アスモデウスの腕の中で意識をゆっくりと手放した。
◇
「…………」
草のベッドの上に、ゆかりはいた。森の木々から見える月明かりは、辺りを優しく照らしている。
「落ち着きまして?みじんこさん」
「……」
アスモデウスが横に座り込んで、こちらを覗き込んでいる。どこから持ってきたのか、紅茶のセットを手にして、優雅に飲んでいた。
「死んだ人は蘇ることはないですわ。受け入れなさい」
「っ、君が……君が……!」
「わたくしのせい、とでもいうのかしら……それで気が晴れるなら恨んでくれても結構ですわ」
アスモデウスはそう言って紅茶を飲んだ。私の心の荒れ具合とは真反対の落ち着いた姿を見て、ゆかりは自分の心が一瞬冷める。
「大事なご友人でしたのね」
そして、すぐに、その冷め具合が落ち着いていくのも感じた。呆れてだとか、その冷め具合を見て逆に許したとかそういうのじゃない。
「……うん、すごく大事な、私の親友」
私は彼女に怒りどころじゃない。冷静に殺意をぶつけている。彼女さえいなければ、私はこんな不幸に目に遭わなかったと、本気で、思っている。
ゆかりは自分の拳を握りしめる。
「疲れて、倒れそうな私を助けてくれた。心配してくれた。昔からそうだった……自分のことじゃない、私のことを、他人のことを優先してくれるような、優しい子だった」
今の私じゃ、アスモデウスには勝てない。どう足掻いても、負ける。藍の仇を取れない。
「そうですの」
「うん。だから……」
目の前に仇がいるのに。不幸に巻き込んだ原因がいるのに、何もできない。そんな無力感にゆかりはおそわれる。
だが、それは今の段階の話。もし、彼女が完全に無防備になったとき、そのときがおとずれれば——
「私は、藍を殺した存在を……」
殺す。
ゆかりは、最後の言葉だけ、自分の言葉じゃないように感じた。
だが、この気持ちは本物だ。
私は悪魔を殺す。そしてその悪魔の中に、彼女ももちろん含まれている。
そのことに気づいているのか、アスモデウスはまるで全てを見通すような目をこちらに向けて、口を開ける。
「ええ、楽しみに待ってますわ」
彼女は、無邪気に——
この場で一人だけ悪魔のように、笑った。