アメリカ合衆国
唐突だが、動物の危険性について理解している人間がこの世にはどれだけいるだろうか。
確かにライオンや虎、狼に熊といった、いわゆる猛獣の類が危険であることは常識的なものだが、ペットの猫や犬、カラスといった日常に潜む生物を危険視する人間はそうそう居ないだろう。
時に、動物が人を襲い死に至らしめるという事件は年間でかなりの数に及ぶ。病原菌を媒介する蚊を含めたら相当数になるだろう。
今回の調査で俺は、動物の恐ろしさを身をもって体感した。それまで触れてきた生物達がいかに温厚で、かつ人間との共存性に優れているかが身に染みて分かった。最後に一つだけ述べたい。
他種を死に至らしめるためだけに進化した生物は、確かにこの世にいる…と。
テレビのニュース曰く、昨今アメリカの西海岸で停泊するやいなやヨットや大型のタンカーがサメなどの獰猛な海洋生物に襲われると言った事件が相次いでいるという。幸い未だ死者は出ていないものの、かなりの額の損失が出ているせいで海岸を管理する市に苦情が相次いでいる。また同時期に、海岸に巨大なサメの死骸が打ち上がる等、なかなか不気味な事件がUSAを賑わせており、警察当局による調査も現在進行中だという。
ここまでこの事件が話題になり、日本で報道されるのもちゃんとした理由がある。というのも、これまで襲われたヨットやタンカー、そして海岸に打ち上がった巨大なサメの死骸にはいずれも妙な共通点が見られた。
船が襲われた際にできた傷は、まるで鋭利な刃物で切り落とされたようにきれいさっぱり穴ができており、サメの死骸は横半分に骨ごと切断されていた。しかも切り口が異様なほど綺麗で、誰かがイタズラ目的に切ったとしか思えない程だった。
ただ船が襲われた際に乗っていた乗船員は、皆一様に巨大な魚影を見かけたと言って聞かず、夜も眠れぬほど怯えているらしい。
インタビューに応じたタンカーの船長は後にこう述べている。
『ソイツを初めて見た時、私は悪魔だと思った。これでも海の上で仕事してきて色んな生物を見てきたから分かる、あれはクジラでもなければシャチでもサメでもない。もっともっと恐ろしくて、それでいて凶暴な奴だ。我々が乗っていた船が巨大なタンカーだったからよかったさ。私は趣味で小さい船を運転してカジキを釣ることもあるんでね、もしもカジキ釣り中に奴と遭遇していたら高確率でこの世から、おさらばしていただろうさ。もう暫くは趣味が出来なくなるほど、奴には生物としての格の違いと圧倒的な恐怖を感じたよ。』
人が生物に対してここまで恐怖することがあるだろうか。確かに野生生物の恐ろしさは普段山や海に入ることの無い人間からしてみれば、想像が難しいだろう。例えばあなたが、山道をハイキング目的で歩いていたとして、眼前に巨大な熊が降りてきたらどうするだろうか。
逃げる?戦う?
恐らくだが高確率で動くことが出来ないだろう。バイクや車ならまだしも徒歩で熊に遭遇した時、誰しもが死を覚悟するはずだ。
死を覚悟するほどの恐怖、しかもたった1匹がソマリアの海賊を切り抜けてきた巨大タンカーの屈強な船員を余すことなく、恐怖のドン底に突き落としてしまうのだから、今回の事件がいかに異様かは想像も容易かろう。
さて唐突だが、俺は、そんな恐怖の海洋生物の調査をアメリカ合衆国から依頼されてしまった。
桃谷さんや護衛兼外交官の人々ともにアメリカへと飛んだその日に、ホワイトハウスへと招かれた俺はプレジデントと通訳交じりの会談を終え、一泊。翌日飛行機に乗って巨大生物の発見例があったアメリカ西海岸はサンディエゴへと向かった。
目撃例が多発しているコロナド・ビーチは現在完全に封鎖されており、州軍や海兵隊による警備が続いている。ビーチの砂浜に乱立する巨大なテントでは忙しなく白衣姿の研究者や警察、消防関係者が動いておりネス湖の調査を思い出す。
我々が到着したのが伝わると、何ともアメリカらしく指笛と盛大な拍手に包まれながら、今回の調査を受け持つことになった海兵隊指揮官のブルース・プレスリー大尉がアメリカンスマイルを浮かべながら歓迎してくれた。
『よーく来てくれた!髭が伸びるほど待っておりましたぞ、ドクターササカベ!』
「こちらこそ…来れるのを楽しみにしてました」
『HA ha ha!!そいつはいい!!さて、このモンスター映画がエンドロールになったら、店の酒樽全部開けて、盛大にパーティーといこう!』
「楽しみにしてます…」
『HA ha ha!!』
めちゃくちゃテンション高い。
さて、今回の調査には実はもう1人責任者がいる。先程のプレスリー大尉は言わば実働部隊で、実際に現場に向かうことを目的とした前衛。つまるところ、後衛にもリーダーがいるということだ。後衛はもちろん、調査隊の頭脳とも言える研究者たちの事で、アメリカ中の超優秀な大学から現役の学生を引っ張り出してきた他、シリコンバレーの有名企業からも協賛として人員が派遣されている。世界随一の頭脳が一堂に会しているという訳だ。
そんな頭脳の親玉である カレン・リン・ジョプリン博士は海洋生物及び爬虫類の権威で、彼女の執筆した論文は世界中の大学で教材として引用されている他、近年では深海生物を生きたまま捕獲する技術の開発も行っている、生物学と工学のエキスパートだ。
『こんにちは会えて光栄です』
「こちらこそ、実はオランダでカローラさんから貴方のことを聞いてまして…」
『あらカローラちゃんが…嬉しいわ…あの子は私が助教授だった頃の生徒でね、それはそれは優秀だったのよ』
「へぇ、世の中狭いもんですね」
『まぁ、生物学者で括ってしまえば因果律も少しは変わってくると思うけど』
以前オランダに行った際、彼女の実家を訪れた時に酒の席で何かとカローラさんが話題に出していたのが、カレン博士だった。カローラさんの敬愛する師匠であり、ライバルであり、恩人。生物学にのめり込んだのもカレン博士の影響だと言っていた。
『これから暫くは海上で過ごすことになるだろうけど、くれぐれもお身体には気をつけて』
「はい」
労いの言葉を頂き、そのまま泊まっているホテルに戻って翌日。
ビーチのすぐ近くにある岸壁に、沿うように浮かぶ大きな船をみて唖然とする。流石は超大国アメリカ。調査する際に使用する船はなんとイージス艦だった。いわゆる灰色の船体が特徴の、レーダー探知機やらミサイルやらがいっぱい付いてるアレだ。
ただし今回は特別仕様。あくまでも航海の目的は巨大生物の調査のため、重荷になるミサイルや機関銃は下ろしている。
早速船に乗り込むと、調査に際したミーティングが行われ、数十分後に出航した。まずは大型のタンカーが襲われた地点に向けて船を動かす。
甲板に出ると激しい潮風が身体を打ち付けた。
テレビで見る船の映像はあまり速度があるように思えなかったが、こうして実際に乗ってみるとかなり速く航行していることが分かる。
「中に戻りませんかー!」
風の音で必然的に声が大きくなった桃谷さんが、前髪を押さえながら叫んだ。どうやら船の外が怖いようだ。無理をさせてはいけないと艦内に戻る。
「すいません、ちょっと怖くて」
「いえいえ」
「私、船にあんまりいい思い出がなくて。お気に入りの帽子は飛ばされるし…ケータイは海に落とすしで…」
「まぁ風強いですからね」
「あぁ…沈まないかなぁ…」
「大丈夫ですよ…」
ちなみに桃谷さんがこれ程、船を怖がる原因になったのは映画で見たタイタニックと、大学時代に研究のため阿寒湖に行った際、真冬の湖に落ちたからだという。