上野
午後。
白く染まった息が雑多な上野の喧騒にかき消された。イルミネーションに彩られた駅前で、ポケットの中のホッカイロの温もりをかすかに感じながら、沈みかけている夕日をビルの窓から反射した建物の影を通してひたすらに観察していた。
待ち合わせ、というのが元来苦手である。
他人を待つことに対して嫌悪感を抱いているというわけでもないが、待っている間の独特の緊張感が漠然と嫌いだ。
果たして、時間通りにやってくるのか、それどころかこの場に現れるのか。要らぬ不安が胸中で蓄積し、さらには相乗して、歯医者の待合室で感じるものよりも濃密な緊張感をじわじわと感じさせる。
その不安が霧散したのは、わずか2分後のことだった。
初めはわからなかった。普段自分が見ている彼女の雰囲気とはあまりにも違いすぎて、同一人物であると確信するに至るまで、数十秒時間がかかった。
「お疲れ様です」
「あ、お疲れさまです…桃谷さん…ですよね?」
「はい」
「いや…だいぶ雰囲気が違いますね」
「いつもはお堅い格好をしてますけど…普段はピアスも結構しますし」
「なんていうか、ロックというか…」
待ち合わせにやってきた桃谷さんは、エレクトリックライトオーケストラのバンドTシャツに革ジャンを羽織った、かなり弾けた服装を身に纏っていた。
「高校、大学時代にバンドをやってまして…」
「楽器は何を…?」
「…ドラムです。本当は上京してその道で生きて行こうかと思ってたんですけど…将来的に安定した仕事を選びまして…」
「…なるほど」
ギャップの強さはある種その人のステータスに直結してくると思う、ギャップ萌えという言葉があるのもそのせいだ。普段とは違う面を見せることでたちまち、その人の好感度は爆上がりする。昔からある、モテる人間の典型と言えよう。
冴えない男子がいきなり超絶技巧を要するピアノの楽曲を弾き始めたら、誰だってびっくりはするし比例するようにその人に対する興味も湧いてくるものだろう。
この人のことをもっと知りたいと思わせることは、好きにさせたことと同義なのだ。
だから、
今目の前にいるこの桃谷 千歌という女性は、強烈とも言えるほどの興味を俺に抱かせた。
「とりあえず、美術館にでも行きますか?」
「そう…ですね」
我々は上野の森美術館に向かって歩みを進めた。
「マニエリスム展…」
「1500年代に最盛を見せた、ルネサンス後期の美術を総称して言うらしいですよ。人体をいかにして美しく描くか、という流れがあったらしいです。彫刻家であり画家の、ミケランジェロが無双してた時代ですね」
「へぇ…よく知ってますね」
「…調べただけです」
館内に入ると、係員にパンフレットを渡された。
「ミケランジェロのクレオパトラ像…ゴリアテ像、すごいですね、目玉になりそうな展示物が二つも」
「どっちも同じ時代に作られたことと、同じ場所、エスパニョラ島から出土したのでニコイチみたいな扱いなんですよ」
「二つ揃えば集客数も倍になりそう…」
「実際、かなり人気みたいですよ、マニエリスム展」
芸術のことは右も左も分からないが、そんな自分でもミケランジェロの彫刻には衝撃を受けた。人間の肉体美を細部まで再現した巨大な彫刻。思っていたよりもかなりデカく、ゴリアテ像に至っては、天井に軽々と届きそうなくらい大きかった。
「なんか、見れて良かった気がします」
「普段は大英博物館に飾られているらしいですから、日本に来ること自体かなり貴重なんですって。この展覧会を担当してる文部省の友達が言ってました」
「まぁ、あのミケランジェロですからね」
人間、思わぬ形で価値観を変えるほどの出会いが訪れる。今日の衝撃はまさしくそれに近いものがあった。
「...次は確か上野動物園でしたっけ」
「え、えぇ」
「すぐそこでしたよね」
「歩いて5分もかからないと思います」
道路を挟んだ向こう側。
クリスマスイブということもあってか子供連れの家族層がチラホラと見受けられる。
確か、正門から入るのは初めてだったか。
パンダが刻印されたチケットを係員に見せ、園内に入ると、動物の鳴き声が微かに聞こえてきた。入口付近に設置された鳥小屋にはフクロウからキジまで、ありとあらゆる鳥類が展示されていた。
「...なんかあれ思い出しますね。ヒッチコック」
「鳥...でしたっけ?簡潔なタイトルですよね」
「...てか、なんかみんな俺たちの方見てくるんですけど」
「鳥に好かれるフェロモンでも出してるんじゃないですか?」
動く度に鳥がこちらに顔を向けてくるので異様に怖い。フクロウに至っては、首をグリンと回して凝視してくる。
「次は猿ですね」
「猿...直近でデカいのと会ってきたんで、親近感が湧きます」
「やっぱり怖かったですか?」
「怖いって言うよりもなんか...すげぇ...ってなりましたね。やっぱりデカい生物を間近に見ると、恐怖心もありますけど生命の神秘を感じますよ」
「私も会ってみたいです」
「息できなくなりますから、目の前に立つと」
エリアに入ると、先程までグッダリとしていた猿たちが一斉に起き上がって雄叫びを上げ始めた。
「ギガントピテクスの匂いでもついてたんですかね、なんかみんな興奮してる...」
「まぁ、ギガントピテクスは最近、世界中のマスコミで |King of monkey《猿の王》 って言われてますから...匂いだけで反応するのも有りうるかも...」
「でも帰国して10日以上は経ちますよ」
「猿にしか知覚できない匂いがあるんじゃないですか」
「マタタビみたいな」
猿版のチュールにでもなった気分だ。
「あ、虎だ」
「虎ですね...来年の干支」
『トラの森』と名付けられたエリアには、スマトラトラという、インドネシアはスマトラ島に生息する虎が展示されているらしい。お座敷遊びのような名前がついたこの虎は、虎の中でも最小だという。ちなみに最大の虎はアムールトラでロシアのシベリアに生息しているのだとか。
以前、花神教授からニホンオオカミの考察を聞いた際に耳にした、ベルクマンの法則が如実に現れている。暖かい地域にいるスマトラトラは小さく、寒い地域にいるアムールトラはデカい。
これなら、インドで出会ったロシアの生物学者、ゴルジェイさんの立端がデカいのも理屈が通るだろう。
ガラス越しに広がる鬱蒼としたジャングル。この中に虎が飼育されているらしい。深い緑と、日の沈みかけた夕方故か、視認するのはなかなか難しかった。もしかしたら既に展示される時間は終わったのかもしれない。
と思っていたら。
眼前に虎の顔が迫っていた。
周りで観ていた利用客が一様に驚きの声を上げる。
素早いスピードで、いきなり窓に飛びついてきたのだ。しかも俺に向かって。
「窓無かったら食われてた...」
「...お腹すいてたんですかね」
この場にいることが気まずくなったので、とっとと先に進むことにした。
桃谷 千歌の独白。
12月24日の予定は空白になりつつあった。
本来予定していたクリスマス会が諸事情によりまっさらに消え、今年も例年と変わらず官舎で孤独なクリスマスイブを過ごすかと思いきや、笹壁さんからお誘いがあるとは思わなかった。
待ち合わせ場所は上野。
大学時代に博物館によく入り浸っていた思い出がある。東京藝術大学の音大生と仲良くなったり、アメ横の怪しい洋服屋さんで掘り出し物のバンドTシャツをゲットしたり、上京したての若かりし頃の思い出が沢山詰まった街だった。
駅前で笹壁さんと合流し、上野の森美術館を観覧したあと、上野動物園に向かった。
笹壁さんが入園するなり、園内の動物たちが興奮したように騒いでいたけど、動物に好かれるような匂いでも発しているのだろうか。人間の嗅覚では到底感じることの出来ない、特殊なフェロモンが分泌されているに違いない。
後で検査を打診してみよう。
虎に襲われつつ、到着したのは動物治療センターだった。上野動物園の左端にある動物のための病院。ここ最近ニュース番組でよく見た建物ということもあってか、お客さんが記念撮影をしていた。
建物に隔たれているけれど、ここには確かにニホンオオカミとニホンカワウソがいる。隙間からその二匹の姿が見れないかと、窓を覗こうとしている人もいるみたいだけど、そう簡単な場所に保護はされていないだろう。
関係者以外立ち入り禁止と書かれた大きな鉄の扉を、笹壁さんは躊躇もなく開けた。困惑している私を他所に、彼はセキュリティのかかったロックを解除すると、さぁどうぞとばかりに私を迎え入れた。
「あ、あの...笹壁さん?」
「事前に連絡は入れてあるので大丈夫ですよ。桃谷さんは絶滅動物を担当する事務局の局員ですし、何より自分の秘書官ですから...誰も文句は言いません」
「...でも、入っていいんですか」
「もちろんです」
階段をのぼり、二階の奥にある部屋をノックすると慣れた職場のように彼は扉を開けた。
「笹壁なんですが...あの、今二人入れますか」
「面会ですか」
「えぇ」
「分かりました.....これ、保護観察面会証とマスク、手袋です。服は消毒を...やり方は?」
「分かります...あ、桃谷さんには自分から説明しておきますんで」
何が何だか分からない。
首から下げるような小さなカードと、医療用の手袋、マスクを受け取った我々は入念に手を洗い、所持品を全て預け、全身に消毒薬を噴霧した後、異質な空間に足を踏み入れた。
既に沈んでいるはずの太陽の光が差し込んだような暖かい空間、ガラス越しの向こう側には草木と小さな岩がぽつんと置かれている。清流のような綺麗な水が湧き出る水飲み場まであった。
その箱庭の中に、二匹はいた。
「ほ、ホンモノだ」
「桃谷さんにはこれを見せたくて...上野に誘ったのもニホンオオカミとニホンカワウソに会ってもらうためです」
「で、でも...いいんですか?」
「事前にアポも入れて許可も得てますから、大丈夫ですよ。桃谷さんも全くの部外者というわけじゃないですから」
「...ありがとうございます。あの、窓に触れても?」
「えぇ、大丈夫ですよ」
「じゃ、じゃあお言葉に甘えて」
私は窓に屈みながら近寄ると、手を優しくガラスに添えた。
オオカミは眠たそうにゴロンと転がっているけれど、カワウソは興味を示したようにちょこちょこと近寄ってきた。
首を傾げながら不思議そうに、ガラス越しの手に鼻を近づけた。
「か、かわぃぃぃ」
「2匹とも好奇心旺盛で人懐っこいんですよ」
「どうりで警戒心無く近づいてくるわけですね」
「まぁ、二匹とも人間が来たら餌を貰えるもんだとばっかりに思ってるので、自然と寄ってくるんですよ」
「なるほど」
ガラスをぺろぺろと舐めるカワウソを、頬をほころばせながらひたすらに見つめる。このまま2、3時間はここで過ごせてしまいそうだ。
「前まではこの二匹と会うのに規制も結構厳しかったんですけど、今では深夜と早朝を除いて好きな時間に会いに来れるので、インドに行く前はほとんどの時間をここに費やしてましたよ」
「まぁ、永遠に見てられますからね。可愛い動物は」
「触れたら1週間はここにいるんじゃないですか?桃谷さん」
「まぁ、その自信はあります」
笹壁さんが屈みながらガラスに近づくと、先程まで眠っていたニホンオオカミがすっくと立ち上がり、しっぽを振りながら笹壁さんの元へ歩み寄った。
「このニホンオオカミも、ニホンカワウソも...みんなかつては日本中に分布してたっていうのが...信じられないけれど...こうして触れ合っていると何となく実感が湧くんですよね」
「...まぁ、そうですね。標本なんかよりも、生きてる個体を見た方が現実味はありますし」
「いずれ、繁殖に成功して。もっと個体数を増やすことが出来たらいいんですけど...如何せん難しいらしく...」
「...笹壁さんは、今回のインドの件のように...また海外から要請があったら迷わず行きますか?」
「...行かざるを得ない...と思ってます」
「...なるほど」
「腕に傷を負ってたんですよ?ボス猿が...もしかしたらまだ発見されてないだけで密猟者の危機に遭う絶滅動物もいるかもしれませんし...なにより、二度と同じ過ちを繰り返さないためにも、迅速な保護は急務ですし」
「その過ちって...」
「まぁ、人間のことですよね...」
その時。何も、笹壁さんがその過ちの清算を全て背負うことは無いのに...と思ってしまった自分が少し悔しかった。人間は常に誰かに責任をなすり付けあって生活している、自己責任を取ろうと言う真人間でも、些細な罪は誰かと共有したがる癖がある。
彼は、人類の犯した罪だけでなく...自然の摂理という名の、茫漠とした概念が生み出した生物絶滅の過ちを、なんとなくだけど一人で背負おうとしている気がして...そんな彼に要らぬ逃げ道を作ろうとしていた自分は、完全に彼の覚悟を蔑ろにしていた。
帰宅して、クリスマスになる深夜0時に至るまで、ずっと悶々としていた自身の胸中を、一生彼について行くという覚悟で拭ったのは、彼の動物に対する愛情を真に受け、人生における価値観が変化したからかもしれない。