鶏肉とサツマイモと、キャベツ
山間に姿を現す小さな集落、山形県 西置賜郡 ひさし村。電車は通っておらず、買い物には隣町のスーパーまで車を出さなければならない。
村の若者は、高校の進学を機にこの地を離れる傾向が強く、村全体の高齢化が進みつつある。
例に漏れず、自分もそのひとりだ。
高校卒業後は関東の大学に進学、都内の小さな会社に就職し、千葉に住んでいた。就職から数年経った頃、突如会社が倒産し職を失ったので村に戻ってきた。
今では亡くなった両親の持っていた家を一人で管理しつつ。知り合いの米農家の元で働かせてもらっている。元来、都会の喧騒に飽きつつあった俺にとって、緑豊かなこの地は心の拠り所となっていた。
悠々自適な生活を送っていたある日のこと。夏が過ぎ去り、ジメジメとした湿気が霧散した時期、裏山に面した家の窓をカリカリと掻く一匹の野良犬を見つけた。毛並みは金色が混じった美しい黒色だったものの、痩せこけていてあばら骨が浮いた状態だった。
犬にしてはかなり大きい方で、全長は大型犬に匹敵していた。
腹が空いて村まで降りてきたのかは定かではないが、このままでは餓死しそうなので、家の中に入れて人肌程度に温めたミルクを与えてみた。
最初はボウルの中に入った謎の白い液体に警戒していたものの、一口舐めると勢いよく飲み始めた。
飲み物だけでは心もとないと思い、スマホでドッグフード以外に犬に与えて良い食材を調べた結果、家に腐るほどあるサツマイモとキャベツ、鶏胸肉を与えることにした。
サツマイモとキャベツはカットした後、茹でて火を通し、鶏胸肉は食べやすいように一口大にカットした。犬ゆえに塩で味付け等はせず、ボウルに盛ってそのまま与えた。正直いって俺が食いたいくらい美味しそうに出来たので、食わせるのが少し悔しかった。
腹を満たした犬は、満足したようにその場で寝転がった。
全身泥だらけだったので、畳が盛大に汚れた。
完全に脱力している犬を抱きかかえ風呂場まで連れていくと、ぬるま湯で体を濡らしボディソープで体を洗ってやった。泡まみれの濡れた体を勢いよく震わせたせいか、顔面に泡が被弾した。
体を拭き、ドライヤーで太い毛並みをブラッシングしながら整えてやると、かなり見違えた姿に様変わりを遂げた。凛々しく、優雅で、猛々しい。ガリガリのくせに王者の風格があった。
「お前、どっから来たんだ...?」
「ワヴッ」
小さくほえた犬を撫でながら、近場の動物病院に予約を入れることにした。
「ウワッ、お前これどうしたんだよ」
朝起きて顔を洗っていたら、玄関の先に首を噛み砕かれたような雉の死骸が転がっていた。首からつたう血がまだ乾いていないことから、死後それほど時間が経っていないことは察しが着いた。
犯人はもちろん、先日保護した野良犬。
口元にべっとりと赤い血が付いていたのを見るに、明け方に一人で狩ってきたものと思われる。田舎では普段家の鍵を閉めることは無い、俺の寝ている間に一人で引き戸を開けて家の外に出るくらい犬にとっては造作もないだろう。
しかし律儀に扉を閉めて行くとはかなり賢いと思った。
それでも、知らぬ間に雉を狩ってくるのは勘弁願いたい。
「ほら、行くよ」
今日は朝から市街地にある動物病院に向かう予定だ。
ひさし村から車で1時間程度、着く頃にはちょうど開いてる時間だろう。
犬を軽トラの助手席に乗せて道を進む。
田畑の広がる村は道路も舗装されていて、比較的車も走りやすいが、山道に入ると上下に揺られながら街に向かうことになる。痔になったら大変だ。
道路に散り始めた木々の葉っぱが、風に煽られ舞い散る。すっかり錆びて苔の生えたガードレールは、到底何かをガードできるほどの強度は感じられない。
ひび割れた道路、汚れたカーブミラー。
街灯ひとつ無いが故に、夜通ることはまず無い山道。暗闇を明かりひとつで進むのはさすがに怖いため、朝早くに動物病院を予約したのはこのためである。
山道を進むこと20分、ひさし村より少しだけ栄えた田舎に到着した。ここからは街に向かって平坦な道を進むだけ、何も怖いものは無い。
オンボロの軽トラックを走らせ、やがてたどり着いたのは、あかねケ丘にある動物病院『ひまわり動物病院』だった。
ほかの利用客にめちゃめちゃ見られながら受付を済ませ、椅子に座る。
動物病院は初めて来るが、システムは人間用の診療所と何ら変わらないらしい。受付を済ませ、名前を呼ばれれば診察室に行くだけ。
待つこと2分。予約していたおかげかかなり早く呼ばれた俺は、診察室へと入った。
「お待たせしました...えぇと、昨日裏山で保護されたそうで」
「はい」
「じゃあ、簡易的な診察はしてしまいますね」
若年の獣医師に診察台に乗せられ、気だるげそうにしている犬を見ながら、何が行われるのかと興味深く見つめる。
ふと、医師が動きを止めた。
「...裏山で保護、されたんですよね」
「はい」
「あの、この子...犬って言うよりも、どちらかと言えばオオカミに近いような...」
「狼?」
「はい、狼の血を濃く継ぐ犬は居るにはいます。シベリアンハスキーだとか、もっと濃ければ狼犬なんか...ですけどこの子はなんて言うか、毛並み、色...姿かたちがいずれの犬にも該当しない...」
「じゃあ、こいつは野生のオオカミだと」
「いや...可能性はほとんど...0.1パーセントすら無いです。あるとするならば、外来種の狼...いや、それも考えがたいです。こんな個体...ちょっと待っててください」
慌てたようにその場を去った医師は、分厚い本を片手に苦悩しながら戻ってきた。やがて、彼の上司と思われる壮年の獣医師が電話をかけながら入ってきた。
「はい...はい、だからそうなんですって。今いるんです、ウチに」
「あ、あの...笹壁さん。驚かないで聞いてください」
「はい...」
「私としても非常に驚いているんですが...この子、恐らく...日本在来種の狼。ニホンオオカミなんじゃないかと」
「ニホンオオカミ?」
「はい、ニホンオオカミというのは...今から約100年前。正確に言うと1904年に目撃例が途絶えた日本在来の狼でして...その、絶滅したと言われている動物なんです」
「絶滅...?こいつが?」
「ええ...日本で最も有名な絶滅動物と言っても過言ではありません。まだ生息しているんじゃないかと言われていますが...それはあくまで憶測に近いんです。もしもこの子が本当にニホンオオカミなら...それこそ、日本の生物学者は軒並み飛び上がりますよ...なにせ、標本ですら超希少...ニホンオオカミを収めた写真や記録も極わずか...半ば幻獣ですよ。この子」
「...なんか、よくわからんけど。とりあえず俺はそのニホンオオカミを保護したと?」
「そういうことになります...」
我々が話している後で、壮年の医師が興奮したように電話をしている。
「どこに電話してるんですか?」
「...ここよりも大きな動物病院に...うちでは到底この子を診察するのは...もっと設備の整った場所で見た方が」
「一応、簡単な診察はやって貰えませんか」
「えぇ、ただ...東京にある『リムテックアニマルホスピタル』にも行ってもらったほうが良いかと...なにせあそこは獣医師の権威がいますから...」
「わ、分かりました」
その後の診察では、栄養失調状態にあること以外、特になんら異常は無いとの事だった。
「食事は与えているとのことですので、このまま野菜、肉の摂れるお食事を与えてください。ニホンオオカミは...もしかしたらドッグフードをあまり好まないかもしれません、もしも購入されるのなら少量の方がよろしいかと」
「はい」
「あと、ノミやダニ等の予防や狂犬病、混合ワクチン等の接種が必要になります。あと一応、自治体に申請をする必要があります、確かニホンオオカミは特定動物なので飼育するのは許可が降りなければ難しいかと。こちらで連絡は取っておきますので行けば何時でも申請できる状態にしておきます...ただ万が一ですが、この子は超希少な絶滅種...国による保護対象になるかもしれません。長くは家に置いておけないと考えた方がいいかと...」
ワクチンの金額や申請料などの金銭面に関することはあらかた説明を受けた。記念撮影の後、何か異常があれば気兼ねなく連絡してくださいと、獣医師さんの電話番号を貰った。
「おまえ、凄い犬だったんだな...」
「バフッ」
帰り道、車に揺られながら遠目に何かを見つめる犬に、狼特有の凛々しさを感じた。