異管対報告第3号-8
タバコの存在は古くから人間の歴史と関係し、それは7世紀まで遡る。遺跡にさえ"喫煙する"神が描かれるほどにに神事や薬用、宗教行事にも用いられる姿が記されている。その後、タバコは形や種類を変え、今となっては嗜好品として現代にまで残っている。
しかし、技術が発展し文化が変われば嗜好品の対象は大きく幅を広げる。
つまり、嗜好品は"一部のもの"から大衆向けへと変化した。それは質を下げることにも繋がり、近代まで維持していた嗜好品の質はメディアから著しく下落した。そして、質が下がればそれを嗜む者の対象の品位もまた下落し、いつしか現代で喫煙者は社会悪となり、科学的にタバコにはニコチンやタールといった発がん性物質の塊として健康の宿敵となったのである。
「やっぱり慣れないな、ああいうの。全人類は美味礼賛を読むべきだ」
それでも、喫煙が過去から現代にかけて変わらないのは唯一つ"独り静かになる"ということである。
そのことを一歩は深くタバコを吸い込み口の中で甘い煙を噛み締めながら感じ、己の倦怠感と共に吐き出した。彼は多少なり"プライドを持ち社会性を持つグルマン"を気取ろうととしていた。それは"海上自衛隊の練習員"から叩き上げた彼なりの意地であり、都心に実家を持つという坊ちゃん育ちな彼の上流思想なのである。
つまり、一歩は"彼自身"が良いと思うものに影響され易いのだった。
「やっぱりビールばっかり飲む会なんて良くないな。"酒は常に別なものを飲むべき"って……」
だからこそ、一歩は受け売りを口に出しながら再びタバコのフィルターへと口をつけた。吸い込む空気がタバコを燃やし、燃える火が赤く染まり茶色い紙に灰色が広がる光景を眺め、彼はその伸びた燃えカスを灰皿へ落とした。甘い香りが辺りに立ち込め、火から登る煙の端は排気口へ流れた。
その唯一人の空間で一歩は、煙と共に消えてゆく独り言の先を言えなかった。
「俺、辛いよ……な……」
心に移りゆくよしなし事に応える声は一歩の耳には入らず、取り止めない腹の底を話す相手はもういない。酒の場でさえ萎縮する彼には、腹の底から笑って話せる相手は"もう"居ないのである。
一歩は己の孤独を紛らわせようと煙を吸い、その香りに残る思い出を呼び起こしながら吐き出した。
その煙は彼の中に渦巻くものに引っかかり、一歩はようやく立ち消えた独り言の続きを吐き出そうとした。
「気にしすぎてるだけじゃないのか?ひっく……」
だが、そんな一歩の独り言は勢いよく開く喫煙所の扉と、そこか赤い顔を左右に振らしやってきたサブリナによって喉奥へと押し込まれ、彼女の呂律の怪しい言葉と据わった瞳によって煙の向こう側へと消えてしまったのであった。
一歩はサブリナを睨むも、追いかけても追いつけずどうにもならない思考を捨てるように灰を落とした。
「あのなぁ、ここは"喫煙スペース"だ」
「だからなんだ?」
「お前みたいな子供……じゃないか」
急に入り込んできたサブリナを前に、一歩は自分なりの注意喚起を投げた。だが、サブリナにはその遠回しな言い草が理解できなかった。それは半口開けて首を傾げるほどであり、一歩は彼女へはっきりと注意をしようとした。
しかし、一歩は直ぐに目の前のサブリナが"悪魔"であることを思い出した。それ故に彼の言葉は宙でブレーキをかけ、そして最後には失速して煙とともに換気扇へ雲のように吐き出されたのである。
「誰が子供だ、誰が!」
「ぐげっ……いいから席に戻っていてろよ、俺は……」
当然ながらその言葉はサブリナの怒りに触れ、彼女は大股で足音を高く一歩の元まで来るとその隣に立ち、彼の左脇へ怒鳴り声と共に肘鉄を軽く飛ばした。
左脇に強い衝撃を受け体を曲げる一歩は、サブリナを追い払おうと手で払った。その手を通り越し彼の瞳を見つめるサブリナの視線は真っ直ぐであり、一歩は不思議と言葉を詰まらせたのである。
視線と瞳だけは見透かされているような、達観しているようなサブリナに一歩は少し前の自分が晒していた本音を見られているような気がしてならなかった。
「居ちゃいかんのか?」
「1人で吸いたいの!それか隣にいるのは……」
自分の思い過ごしをアルコールとニコチンで乱れる思考からと断定した一歩だったが、嫌に出てくる自分の本音を押し留めようともう一度煙を吸い込んだ。
だが、サブリナの言葉に一歩は本音さえも吐き出そうとしかけた。それも自分の性根の感情的なものと共にである。
「くそっ……」
「なんだ?何てった?」
その言葉を慌てて噛み殺し、煙だけ吐き出した一歩はフィルターへと迫る火を押し潰して灰皿へ落とした。その乾いた音で会話を切った積りの一歩だったが、サブリナは構わず彼へ尋ねかけたのである。
視線は変わらず一歩を見据え、サブリナは彼が口を開くのを待った。その態度と漂うタバコの香りを前に、一歩は不思議と湧き上がる懐かしさを感じ、それがデジャヴでないことに震えた。
一歩の脳裏に、サブリナの姿が被さって見えた。茶色い髪にぶれない瞳は彼の心を揺さぶり、その一瞬のぶれが彼の拳に力を込めた。
タバコの箱が少し歪む乾いた音に、一歩は堪らずタバコを取り出して火をつけた。マッチが箱に擦れる音と煙草の香りが、彼の最後の逃げ場所だったのである。
「煩い、煙草吸わないなら席もどれ。邪魔になるぞ?」
マッチを灰皿へ放り投げる一歩の悪態は、言葉の端が震えていた。その震えは吐き出す煙に紛れて消えた。
「なら一本よこせ、うちも吸う」
「お前、煙草吸えるのか?」
「当たり前だ!うちは成人してるし立派な大人だ!煙草の一本や二本吸えるに決まってるだろ!」
「いや、煙草吸うのにも慣れが……」
「いいから寄越せ!」
「ばっ、力技するな!箱が潰れる!」
そんな一歩へかけたサブリナの言葉は彼の思うところを大きく外れ、一歩は彼女へ呆れるように尋ねた。その馬鹿にするとも宥めるとも言えない口調は煙草の前にサブリナの勝ち気に火をつけ、彼女は彼へと怒鳴るより先に手を伸ばし、跳ね除けようとする一歩の手にある煙草の箱を掴み、彼の声を推し倒した。
サブリナの握る手は一歩の指を軋ませ、彼は顔を赤くするサブリナの加減のなさへ諦めたように腕から力を抜き、彼女の前に箱を開いた。
「なんか細いな」
「ライトシガーだ。紙巻きもあるが……」
「いや、こっちで良い」
開いた箱の中身から一本タバコを取り出したサブリナは、その細長く茶色い見た目に眉をひそめて天井の明かりにかざしたりタバコ自体の臭いを嗅いだりした。その彼女の反応に一歩は小動物を観るようにしながらポケットへ手を突っ込み呟いた。
だが、ポケットの中から黒い箱が僅かに出てくる前に、サブリナは一歩へ頷きつつフィルターを咥えたのである。
それだけサブリナはタバコを知らず、一歩は彼女の知識の偏りを理解してなかった。
「はんはふひははまひ」
「HARVESTは甘いんだよ。VIBESも甘いが……」
口にタバコを咥え、その端を上下に振りながら話すサブリナの言葉になってい言葉を読み取った一歩は、取り出そうとしたポケットの中身を戻しつつ彼女に説明してみせた。
わざわざタバコのフィルターを指で指しながら見せようとする一歩は、少し得意気だった。
「んっ!」
「はいはい……」
だが、一歩の説明をサブリナは顔ごとタバコを突き出してその先を彼へ向けた。その子供じみた行動や見た目に反した嗜好品を前にして、一歩は肩を落としながらマッチに火を付けタバコの端に火種を作ったのである。
その火種を見つめるサブリナは満足そうに頷いてみせるも、口先で白い煙を上げるタバコを前に少し肩を震わせるながら指を添えた。
「そのまま肺に入れるのは難しいし、ライトシガーは口内喫煙が基本だから。無理に肺に入れず口の中で転がせばいい」
「むん……」
一歩の助言とまるで手本を見せるかのような喫煙の姿に、サブリナは鼻で大きく息を吐き出しゆっくりとタバコを吸った。その息に合わせて火種はゆっくり前進しながら灰と宙へ伸びる煙を作り出し、フィルターから彼女の口中へ煙が流れ込む。
サブリナは格好だけは様になっているようで、一歩はその姿を横目にもう一度タバコを吸おうとした。
「すぅ~〜……ふっ、ぶっ!ふへっ、えほっ、げぼっ、えっふえほ!」
だが、サブリナは一歩の忠告を無視して口の中で転がした煙を一息に肺へと流し込んだのである。初めてタバコの煙を知った喉と肺はその全く知らな異物質が飛び込んできたことに驚くと、当然拒絶反応を咳として主人の脳へと伝達する。
つまり、サブリナは体を一瞬でくの字に曲げるほど咳き込み、一歩の体へ壁か支えのように手をついて肩で息をしようとした。だが、息をしようとすると当然吐こうとする煙が再び逆流して咳き込み、彼女は暫く咳と落ち着きを行ったり来たりしていた。
「言わんこっちゃない」
「がはっ、げふっ……あっ、甘い匂いが……悪くないな!」
「涙目で言うなよ。無理に吸わなくていいから苦しかったら……」
「すぅ~……すぅ~〜〜!はぁ~〜……」
何とか自分の体を落ち着けようと体をそらしたりするサブリナの姿に、一歩は肩を落とし首を振った。その態度に彼女は数回胸を叩くと涙目を擦りながら啖呵を切った。
その涙目は当然ながら一歩も見ており、何度となく瞬きをしながら震える手に持つタバコを見つめるサブリナへと手を伸ばした。
だが、その手は急に止まった。一歩からすればなんてことのないものである。隣に立つサブリナが涙目で不慣れな手付きでタバコを吹かしているのである。ただそれだけながら、一歩の中の全てが止まった。少なくとも、彼には自身の全てが止ったように思えた。
ただ、一歩が見えるサブリナの姿は一瞬だけ別なものだった。出会ったばかりの赤髪や緑のメッシュが入ったショートヘアー。そして、茶色へと落ち着いた髪色に一瞬アンニュイを魅せる姿が被る。
その光景を前にして、衝動は一歩の止った体を突き動かし、過去の記憶が重なる幻に手を伸ばした。
「なんだ?」
「いっ、いや……」
しかし、手を伸ばした先にはサブリナが怪訝に眉をひそめ、ようやく慣れたのかタバコを吹かしている。それだけ一歩は呆然として、サブリナは何度も咳き込んでいたのであった。
「場の空気で酔ったのか……?すぅ……」
一歩は己の自覚なき酔いを理解したのか、左手で顔を覆った。その顔面に左手の指輪の冷たさが走ると、彼は残ったタバコを勢いよく吸い込んだのだった。
「「はぁ~〜」」
そして、2人はいつの間にか小さくなったタバコを灰皿へ放り込んだ。
「なんかフワッとするな」
「ヤニクラ、"不健康"のサインだ。ようこそ、"喫煙者という被差別者側の世界"へ」
「悪く……ないかな?」
「水も酸素も結局は体に悪い。そして、人間は遅かれ早かれ死ぬ。なら、多少不健康でも楽しく生きるべきだ。"不幸になっていられるほどに、人生は長くない"ってやつだ」
喫煙所から出た赤いサブリナは酒よ酔いとタバコでより一層足元をふらつかせ、一歩は彼女に手を伸ばした。その手は彼女の両肩上で止まり、彼はその後の判断に困りながら辺りを見回した。
しかし、サブリナが足元の段差に躓きそうになると、一歩はその手を下ろして彼女の肩を掴み軽口を放ったのである。その軽口と迷いながらも肩に触れ自分の身を支える一歩の困った顔に、サブリナは少し満足そうに笑って頷いた。その笑みを見た一歩は更に軽口で続けてみせた。
「でないと、"生き残った意味"がなくなる」
だが、一歩の口調は最後に彼自身が目を丸くするほど暗く、サブリナが振り返ろうとするほどに殺気立った。
そんなサブリナの顔が向き切る前に一歩は彼女の前に出て先導を始めると、敢えて背中だけ見せ先を進んだのであった。
「ほら、戻るぞ」
「おっ、おう!おっ……おっと!」
「ばっ!足元を見ろ!」
急かす一歩の背中に続こうと歩みだすサブリナのだったが、通路を進もうとする別の客の足に躓き再び転けそうになった。だが、身体能力が多少なりある彼女は何度か大股でバランスを取りながら数歩進み、最後には一歩へと突撃して倒れ込んだ。
そんなサブリナを支える一歩が彼女を叱りつつ彼女の背後を見ると、そこには天井とまでは行かないものの、一歩よりはるかに高い身長の男が立っていた。その男はそこそこ仕立ての良い茶色のスーツを身に纏う白人であり、彫りの深い顔に不快を浮かべ青い瞳を細めて睨んでいる。
「あっ、これは……その……すみません」
「気をつけろ……」
その気迫を前にして生唾を飲んだ一歩は黙って男を見つめ、サブリナも同様に男を見つめながら謝った。
すると、謝罪を受けた男は異様に低い声で少しだけカタコトながら日本語を使い返した。
そして、男は足早に店の奥へと向かったのである。
「なんだ、アイツ。うちが謝ったのに」
「いいから戻るぞ」
男の大きな背中が去ってゆくと、サブリナは直ぐに目くじらを立てながら一歩へどつきながら文句を言った。その拳に脇腹を抑える彼は彼女の脳天へ軽いチョップで返すと、自分達の宴会場へと足を進めた
「なんか……見覚えあるような……?」
店員に案内されて席に着く男の姿を横目に、サブリナは酔で曇る記憶を掻き分けながら見覚えを感じ、己の疑念と共に独り言を吐き出したのであった。




