――捜神記―― 第一章 第一節 落陽の巫女姫
異世界パートです。
落陽の巫女姫は神殿に向かう。
新緑の陽気に青々と生い茂る木々の葉を揺らしながら風が抜ける様は、ようやく暖かな季節を運んできたことを告げている。
そんな季節においても、まだ遠方の山々が白み始める早朝は肌寒く、人々の目覚めを告げるには厳しさが残っていた。
しかし、巫女たる姫の務めにはそのような事情など言い訳にはならない。
神とその始祖の築きたもうたこの落陽の都の繁栄を願い、祈りを捧げる――再び神を降臨せしめるために。
それが巫女の務めであった。
祭壇を前にして座し、玉串――神木たる常緑樹の枝に葉があるもの――を押し頂き、祈りを捧げる。
巫女の祈りに神通力――いわゆる魔力のようなもの――が込められると、どういう原理か、祭壇に祀られた3つの宝珠に光が起こり、松明の薄明かりに照らされた神殿の祭壇は眩く照らされる。
宝珠の発光と同時に、落陽の都には朝日が射し始めた。朝日に薄闇をかき消されていくかのように、足元からゆっくりとその姿を見せる男が一人。
銀色の短髪だが、後に伸びた長髪を細く縛り、胸元まで伸びる、これもまた銀色の顎髭を蓄えている。
目は切れ長で目元の皺を見れば老人ということはすぐにわかるが、その目元に現れた慈しみから伺い知れぬのほど力の灯った瞳をまっすぐに祭壇の前に座す者へと向けている。
淡灰白色のローブの内側に神木の紋章の入った胸当てと、癖からか左の腰に下げたブロードソードの柄頭を包み込むようにして左手を当てている。
右手は何かを考えるように顎髭を撫でていた。
「何か気がかりなことでもございますか?」
祈祷を終えた巫女姫がその老人に視線を向けず背中越しに言葉をかける。
「姫様――申し訳ございませぬ。ご祈祷の妨げにならぬよう気配を殺しておりましたのですが」
「何を言うのです。貴方ほどの戦士の鋭い眼光を背後に浴びれば、誰であれ何事かと振り向くに違いないでしょうに」
老人は薄ら開いた目を閉じながら肩で軽く笑う。
「ご謙遜を。ならば、振り向かずに言葉を交わされる姫様は相当な猛者ですな」
「ふふふ、からかうものではありませんよ。さて――」
そう言いながら徐に立ち上がると、祭壇に一礼を捧げ優しげな瞳とその微笑みに包まれた表情を老人に向けると――それまでの気品の高い所作から一変し両腕を高く伸びをするように言葉を発した。
「はぁー、疲れた、疲れたー」
「姫様、神の御前ですぞ」
老人は注意をするように呼びかけるが本気ではないようだ。
「ごめんなさい。ここのところ人目の多いところばっかりで気を抜けなくて」
「姫様は御苦労を重ねすぎます。ですが――」
多忙な姫に巫女としての責務。都で一二を争うお方に告げるには心苦しそうに老人は切り出す。
「はいはい、街には遊びに行くな、行動には常に供回りを付けよ、力を無闇に使うな。わざわざそんなことを伝えにいらしたのですか?」
ため息混じりに、指を降りながら「《《ちゃんと頭に入ってますよ》》」と言わんばかりに口にする。
城下に出るのは、多忙な巫女姫の唯一無二の気晴らしである。姫である身を気遣っての言葉であることは承知しているが、《《現実で言うところの》》16、7歳である彼女にしてみれば公務は確かに気の滅入るほど疲れる仕事に違いはなけれど、有り余る肉体的なエネルギーを発散させるには物足りなさを感じているのだ。
言葉ではなんとでも言い繕えるとわかっている老人は、ついつい口煩くなってしまうものだ。
「よいですな、姫様。お約束ですぞ」
やれやれ、と言わんばかりに若姫は軽やかな足取りで老人の数歩先に跳ねると、
「いいですか? そういう約束は口でするものではなく、書面でするものですよ! 久方ぶりの余暇を楽しまなくては、神のお膝元にも侍られません!」
そう告げ、無邪気さの宿る表情を浮かべながら、姫としてははしたなくも走り去っていった。
「やれやれ……神も厄介な教えをのたまったものだ。しかし――」
老人の目には再び力強い瞳が戻る。
神殿の入口にある円柱の影に並び、その瞳を、階段を降りていく姫から街、そして国の外側へと向ける。
「杞憂であれば良いのだがのう……」
そう言って、左腰に下げたブロードソードの柄頭を左手の親指で撫でながら、右手で顎髭を撫でていた。
◇◇◇
「おやおや! 姫様は現実逃避ですか?」
都の中心部に溜池の広場がある。
溜池からは時折勢いよく水が吹き上がるのだが、これがどういう仕組みで誰が作ったものなのか、この街に住むほとんどの人間は知らない。
しかし、不思議なことに、《《当たり前》》にそこにある物というものは疑いを持つことがないのだ。特に、生まれた時にすでにそこにあったものなどはあるのが当たり前である。
この広場にいる二人の少女には至極気になるような話ではない。
「私、そんなに浮かない顔でもしていた?」
水色に白の模様のローブを身に纏った少女が、声をかけてきた少女に顔を向ける。
「あはは! 相変わらずの無表情だから、からかっただけだよ」
その服装から伝わってくる高級さから身分を隠そうとさえしていないことがわかる。だが、いかにも町娘である身分の少女は、そんな高貴で身分の高い存在であるはずの少女に気兼ねなく声をかけていた。
「そうかな……これでも結構笑顔の練習はしたのだけれど」
「う〜ん……まぁ、でもすっごく品の良い感じの笑い方かな。私は好きだよ」
「ありがとう」
そんな他愛のない会話を展開する二人からは、お互い気の置けない友情を感じさせるものがあった。
いや、そうあるべきと《《定められた》》――というべきだろうか。
「ところで、シロナ。今日は巫女の仕事は大丈夫なの?」
「うふふ。今日はね、特別な日だから巫女の仕事も姫の仕事も入れなかったの」
「そうなんだ! って……今日って何か特別な日だったっけ?」
「覚えていないのー?」
「う〜ん……」
町娘は腕組みをしながら考え込んでいるそぶりを見せた。そのわざとらしい表情からは、やはりからかいの意図が読み取れた。
巫女姫――シロナ――は、「もう!」と頬を膨らませてむすっとしている。
町娘が笑いを堪えきれずに吹き出したのは言うまでもない。
「あはははは! 冗談よ、冗談! わかってるに決まっているでしょ」
「むぅ……ジューンってば、本当に意地悪よね。まったく……」
そして、二人が顔を見合わせて笑い合う。
平和な時間――決して、失いたくない、シロナにとっての平穏なひと時。
ジューンといる間だけは、巫女姫という肩書きを忘れて、一人の少女としていられる。一線を引かれず、身分もわきまえず、友達として接してくれる唯一無二の存在。
シロナにとって幸運だったのは、そういった存在が一人ではなかったことだ。
「お、もう来てたのか! お姫様〜!」
遠くからそう声をかけて来た少年。そして、その傍に立つ2人。
「アナベル! カリン! カルミア!」
ジューンが3人の名前を呼ぶと、歩み寄って来た。
「シロちゃん、久しぶり〜 お仕事大変だった〜?」
おっとりしたそばかすの女の子、カリン。
「久しぶりだね、カリン。いつも気遣ってくれてありがとう」
カリンの家は街の市場で農作物を売っているお店だ。カリンもしばしば家の仕事を手伝っているはずなのに、こうして必ずシロナを気遣ってくれる。
「この前は、僕が無理を言っておじい様の礼拝の時間を早めてくれてありがとう」
「ううん、いいのいいの。カルミアのおじいさまには昔からお世話になっているもの。これくらい気にしないで」
ほっこりとした雰囲気を持ち、かつ上品そうな衣服を着ているカルミア。
カルミアの家は石工職人であり、神殿の内装や外装をよく手直ししてくれている。カルミアも祖父の仕事に付き添って手伝いをしていたため、この場にいる誰よりも古い付き合いになる。
「それで、お姫様。秘密の場所に連れて行ってくれるって本当なのかよ」
このぶっきらぼうな態度を取る少年はアナベル。シロナやジューンよりもいくつか年下で、まだまだ子どもっぽさがある冒険大好き少年だ。
シロナを煽っては、必ず冒険に連れていけとせがみ、それをジューンやカルミアがなだめているのだが、この特別な日である今日、シロナがついに秘密の場所へと連れて行くという約束をしていたのだ。
「もちろんよ。姫に二言はないわ」
「でも、本当に大丈夫なの? シロナ……後で老公に叱られたりしない?」
「爺のことなら大丈夫……多分!」
「な、なぁほんとにこの人があの巫女姫様なのか? スッゲー適当な気がするんだけど」
「大丈夫だよ〜。シロちゃん、この国で二番目に偉い人だから」
「そう考えると、僕たちこんなに馴れ馴れしくしちゃっていていいのかな……」
「あははは! 何を今更! ダメだったら今頃きっと処刑されてるわよ!」
都の中央。溜池の真ん中にある置物から水が吹き上がる。
その水飛沫の輝きに照らされるような、明るい笑顔と笑い声がそこにはあった。
街の住民たちも見慣れたように彼らを微笑ましく見守っている。
一国の中枢を担う巫女が、姫が、供回りも従えずに街にいるという異様な光景ではあるが、それは、同時にこの都の治安の良さと平和であることを物語っていた。
「じゃあ早速ですが、これからアナベル探検隊の冒険に出発します。みんな、準備はいい?」
ご機嫌なアナベルを先頭に、その手を引かれながらシロナが連れられて行く。
未知なるものを知るという、好奇心をくすぐる代償として得られるものは、全てが善なるものであるとは限らないというのに。