――捜神記―― 第一章 第五節 淡灰白色の剣士
街がこんなにも暗く感じたことはなかった。
黒洞々たる洞窟の中に飛び込んで行くような気持ちを抱えながら、シロナは無心で市場街へと続く階段を、坂道を、道なりに走り抜けて行った。
「(アナベル……カルミア……カリン……ジューン……みんな、どうか無事でいて……!)」
焦る気持ちに反して足は縺れていく。
神殿から市場街への道のりは斜面であり、高貴なローブを身に纏うシロナにとって決して走りやすいわけではない。
むしろ、裾の長い衣服を常用する巫女姫には厳しい道のりである。
何度も転びそうになりながら、懸命に坂道を駆け下りるシロナは、いつしかローブの裾を破っていた。
その色白な素足をさらけ出しながら――擦りむき、痣の目立つその脚を――その速度をゆるめることは無かった。
夜の街にはシロナの荒れる息づかいだけが聞こえていた。
◇◇◇
シロナが飛び出していった後の神殿は騒然としていた。
「うーむ……シロナ様が心配じゃ。ワシは近衛を連れて出る。侍女と尼僧は避難じゃ! 近衛隊長は何をしておる……!」
「神官長様……シロナ様がお連れになられた子がどこにも見当たりません!」
「なんじゃと……!? まさか……シロナ様を追って……?」
「どういたしましょう……」
「……今は非常時じゃ。シロナ様の無事を最優先にせよ。心苦しいが、どこの誰かも分からぬ子どもに人員は避けられぬ」
「しかし……姫様はあの御子を神様だと……」
「もし仮にあの子が神であらせられるならば、なおのこと心配はなかろう。むしろ、こちらが救いの手を差し伸べていただきたいほどじゃ」
モリアの言葉に返すことができなくなった侍女は深く頭を下げると、避難する一行へと走っていった。
神官長の苦渋の決断を悟らせる苦々しい瞳を前にすれば、その判断を信じるしかないと悟らざるを得なかったためだ。
この都に生を受けた以上、モリアが信仰する神の民に他ならない一人の子どもの命を軽んずることなどできない、それが、モリアが神官長として永きにわたって民に慕われ、シロナが信頼を寄せてきた理由である。
「近衛は揃ったか! すぐに参るぞ!」
そんな人物がもし――この都から姿を消したとしたら――。
「――それには及ばぬ」
明確な喪失が目の前に控えていたのなら――。
「伏して控えよ――」
静寂なる闇に身を置き、その石畳の回廊を踏む音を重ねながら、その淡灰白色のローブを纏った老人は現れた。
「我が名は落陽近衛師団隊長にして真なる巫女姫の一番剣――カイン。主の名により、ここを通すわけにはいかぬ。命が惜しくば退くがよい」
左手で剣の柄頭を撫でながらその眼光から放たれるおぞましいほどの殺気と威圧に、為す術なく戦意を失う近衛兵の姿があった。
しかし、そのような殺気にも怖気付くことなく、モリアは近衛兵の前に歩みでる。
「これはこれは、近衛隊長殿。今更この騒ぎを聞きつけていらしたのですかな?」
「モリア神官長殿。警告はした。退け」
一層増すカインの殺気に圧倒され腰を抜かす近衛兵たち。
対するモリアは平然と構えつつ、その白い眉に隠れた目をカインに向けると、これまでモリアから感じたことの無い気配が漂う。
視線と視線。
放たれた殺気をぶつけ合う二人の古老に怯える近衛兵たちは、自分たちのあまりの非力さを悟るしか無かった。
無論、元よりモリアに戦う力などありはしない。
それを知っているはずのカインは自身の放つ殺気にも劣らぬ気配を漂わせるこの老人の違和感にピクリと眉をしかめた。
とはいえ、ほんの刹那の動作である。
その刹那の心の揺れを捉えた戦う力のないはずの老人が、瞬時にカインの目前にいた。
そしてカインの懐を抉るようにその拳を突き出した。
拳を受けたカインは神殿の回廊を一直線に飛ばされ、神殿入口にある円柱の1つに背中から激突した。
一般の人間が三人で手を回してようやく囲えるほどの円柱が崩れているのを見ると並大抵の威力ではないことが伺える。
しかし、寝起きのように悠然と体を起こすカインの姿からはあまりダメージを感じられなかった。
回廊を徐に歩み出てくる老人の気配に、カインは言葉を発する。
「……お主、その力――どこで目覚めた? さもなくば、この私の目を盗んで隠しておったのか」
「ふんっ、さほども効いておらぬくせに。猿芝居はよせ、闇巫女の隷属よ」
「ほう――。お主……どこまで知っておる」
カインは埃を払いながら立ち上がると、その左腰に下げていた剣に右手をかける。
その剣が鞘から抜かれようとする瞬間、剣の柄頭をモリアの手が押さえていた。
「貴様が知っておる程度にはな――!」
握りしめた拳に力を込める――込められたエネルギーは可視化するほどに凝縮され、そのエネルギーが轟音を奏でながらカインの胸当てを砕いた。
「――“獅子雷迎”!!」
青白い閃光が轟き、その閃光がカインの体を貫いていく。
血を吐き、体を宙に浮かせて遠のくカインの意識――だが、異変はすぐにモリアの知るところとなる。
白目を剥いていたカインの鋭い眼光がモリアへと向けられた。
「(ぬぅ……浅かったか……しかし、この距離で何故――)」
その刹那、モリアは突き出していた拳から滴るものに意識を向けていた。
「(馬鹿な……!? 腱を切られている……じゃと……?)」
達人同士の戦いは、ほんの一瞬も気を抜いてはならないのだ。
もちろん、モリアは気を抜いたつもりは毛頭ない。
ただ、起こるはずのない違和感に、ほんの一瞬気を取られただけである。
本来であれば、カインに瞬時に近づいた技である“残影”を使って避けられたはずであった。
故に、この場において断言できるのは――。
「本当は切り落とすつもりであったが――見事であった」
カインの方が強者であったということだ。
モリアはその一瞬、カインの後方に転がる鞘を見た。
なるほど、柄頭を押さえられたなら、鞘の方を捨てれば良い――そこから身を傾けてダメージを軽減させつつ、剣で突き出した腕の腱を切る――常人には成せぬ技である。
モリアは頭部から一刀に切り伏せられ、絶命した――。




