プロローグ
神は世界を創造された後、その姿をお隠しになられた。
人々に叡智を与え、数々の命を育み――そして、その神たちが争いをしたのちに。
◇◇◇
昔、昔の物語。
世界を想像した神、ユーカリア様の創世記。
我ら世界の民をお作りになられ、叡智を授けてその身を隠された尊き神の物語は、彼女にとって聖書であり、そして、同時に呪いでもある。
神を崇めるべくこの世に生を受けた巫女姫たる彼女は、生まれてからこの方、書物と対話し、民の迷いを導くなかで神の御心についてその神意を問う毎日であった。
神の救い、神の赦し――そんなものは祭司である彼女の匙加減だった。
どんなに瞑想をしたって、どんなに修行をしたって、彼女には神の声など聞こえない。祈りが届いているのかさえわからないのだ。
そんな彼女は、民に決まってこう言うのだ。
「汝、神を崇め、祈りなさい。さすれば、救いをもたらしてくださるでしょう」
心と役割との矛盾が、彼女の心を蝕んでいった。
いなくなった神の言葉を伝える……そんな道化のような自分が、酷く哀れに思えている。
救いなどありはしない。
もし、救いをくださるというのであれば、今、この時をおいて他にどのようなタイミングがあると言うのか。
王国は炎に包まれていた。街から立ち上がる黒煙が、悲鳴が、絶望的な現状を訴えかけてきている。
街なのか、瓦礫の山なのか――。
崩落したそれを出鱈目に避けながら走り抜ける無数の人影。
それを追う黒衣の集団。
その人の群れの先頭を一人の女が走る。
身につけた衣服や装飾から、そのような動作とは無縁にも思える彼女こそ、この王国の悲劇に踊らされた薄幸の巫女姫である。
胸を脈打つ鼓動が早い。呼吸も乱れている。足が縺れ、ローブの裾を踏む度に転びそうになる。供回りたちの表情も虚ろだ。
戦禍はやがて街から城へ、城から神殿へと移る。
一人、また一人と彼女の背後から声が消えていく。
苦虫を噛み潰すようにその表情を歪ませながらも、彼女は後ろを振り向かない。
着実に、そして確実に、奴らは彼女という命を脅かしていたためだ。
十二段の階段を上り、純白の神殿がそびえ立つ。九本の柱に支えられた神殿の入口は既に戦禍に飲まれ、怪我や重傷となった者たちの果てる場所となっていた。居るべき神官の姿はなく、伽藍の堂となった形だけの建物がそこにあった。神殿に逃れた彼女の行き着く先は、この先の扉の向こうにある。
螺旋状に水晶のような輝きを放つ円柱が無数に立ち並ぶ不可思議な場所。
その不可思議な螺旋階段を降りた先こそが聖域である。
神代の世、多くの民たちがここに訪れ祈りを捧げた場所。歴代の巫女たちが祭祀を執り行う場所。
彼女は足早に、紫紺色に輝くその祭壇へと駆け寄った。
その瞬間、何かが噛み付くような痛みに右足を取られた。
あと僅か、ほんの数歩のところ。
噛み付かれたのではなく、射抜かれたことは承知している。
それでも止まるわけにはいかない。
這いつくばって、右手を、左手を先に先に伸ばし、たどり着いた祭壇。
背後から、ゆっくりと、地を踏みしめる音が次第に大きくなって聞こえてくるのを彼女は感じていた。
嗚呼……私の命もここまでか……と、諦めの混じるその両手を組み、祈りを捧げた、その瞬間だった。
世界が止まったように感じた。
それは、彼女の精神世界――体感的に経過した時間が周りの人たちよりも遅く感じられた――だけなのかもしれない。
今、この瞬間、この刹那の時を知覚することなど不可能に近い。
それを知覚しているという錯覚に陥るほどの刺激が彼女の脳を駆け巡っているのだろう。
はたまた、世界の法則から逸脱した存在の成せる技なのだろうか。
それを知るには、今この場においては時期尚早とも言えるだろう。
王家の谷――王都にある神殿の最奥部を抜けた先にある――は聖域だ。
この聖域を侵犯するものは、神の名の下に罰が与えられる。
そんな話も、今は昔の出来事であった。
この場においては聖域侵犯の賊に無惨にも踏み躙られるだけの、いわば墓場である。
谷の最も深い場所にあるこの聖域において、追い詰められればそこは袋の鼠であったからだ。
王都が攻め込まれて後に、このような場所へと至った理由は1つしかない。
それは――無力にも神にすがることだけだったからだ。
彼らに対して、我ら王国の民にできることはない。
ならば、巫女姫たる彼女にできることはただ1つ――祈ることだけ。
いや――本当は、無慈悲なる神に、見放された者たちの末路を見せつけてやるために他ならない。
いわば、憎しみと己の運命と、民たちの怨恨の代理としてここにいる。
――そのはずだった。
周囲に広がるのは血飛沫とその臭い。金属と金属が弾け合う音。最後のその時まで命を燃やそうと灯る篝火の盛りと、そして、焼けて木が弾けるように命を絶たれる――音の世界。その残響のみが耳にこだましている。
一点に向けて繋がる線のように平坦で、かつ、非常に張り詰めたように高音で――どこか安心感を得られるような、閉鎖された時の中で――。
――彼女は、現界した。
まだ朧げで虚な表情はとかく妖艶で、未だ寝覚めぬ境地にいるかのようだった。
その薄らと伸びる切長の瞼がゆっくりと見開かれた瞬間に、止まっていた私の世界が再び時を刻み始めた。