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死の森


死の森に一人の男が入ってきた。

探しているのは首を吊るのに最も適した枝だった。


迷い込んで一時間もしないうちに、今歩いてきた道すらわからなり途方に暮れる。

辺りは同じような景色が続き、木々や雑草が立ちはだかり、丈の長い茂みがせり出してくる。


見上げれば枝ばかりであるが、どうも男が首を吊りたい枝だけが見つからない。


崖のような斜面を腹ばいになって登りきる。

わずかな空き地が現れた。

朽ちた倒木が積み重なり、そこに光が降り注いでいる。


そこに腰を下ろし、男は今登ってきた眼下の景色を見下ろした。

木々や雑草で視界はほとんど通らない。


ふと、斜め前方に真っすぐに張り出した太く見事な枝が見えた。

その枝の後ろには、足場になりそうな大きな岩まで見えている。


男は腰を上げ、真っすぐにその枝を目指す。


そして到達してみると、ごつごつした岩の横に、まっすぐに伸びた木があり、岩の上からちょうどよく太い枝が張り出していた。

首を吊っても全身が垂れ下がり、足が地面に着く心配もない。


喜び勇み、岩に登って気が付いた。

枝の真下に、巨大な穴が開いている。


登った岩を下りて行き、男は地面に大きく空いた黒い穴を覗き込む。


「おーい」


叫んでみても声が跳ね返ってくることもない。

小石を落としてみるが、音もしない。


長めの枝を差し込んでみたが、底には到達しなかった。


男は上を見上げ、首つりに最適な枝を確認する。

ちょうど穴の真上にあり、ロープが切れたらまっすぐ穴に落ちてしまう。


男はなぜここに穴があるのかと考えた。

まるで首を吊る人間を待っているかのように真っ黒な口があいている。


恐怖に囚われそうになりながら、男は必死に考えた。

どうせ死ぬのだ。深く考える必要もない。


男は再び岩によじのぼり、ロープを巻いて手をかけた。

その輪の中に首を入れようとした瞬間、下の穴が視界に入る。


地面にあいた真っ黒な穴は、今度は目玉のようにこちらをじっと上をみあげている。


ごくりと喉が鳴り、眼下の穴をじっと見つめた。

何かがいるのかもしれない。


男はこれから旅立つ死の世界について考えた。

幽霊や死後の世界など恐れたことなどない。もっと恐ろしいものは現実であり人間だ。

だが、もしこれから旅立つ死後の世界がいつまでも続き、そして死という救いすらないとしたら……今度こそ出口を失ってしまうかもしれない。


男は穴を見下ろし、さらに深く考えた。

何もないはずの穴。

もし何かあったら。誰かが待ち構えていたら。

そして死に瀕した自分の体を貪り食おうと這い出てきたら。

あるいは、何度も何度もこれから死の恐怖を繰り返し味わうことになったら。


「人生においてどんな保証があれば満足いきますか?」


突然聞こえた声に、男は驚きロープから飛んで離れて木にしがみつく。

驚いたはずみで死んでしまっては、さすがにちょっとは未練が残る。


さらに穴に落ちて骨でも折ったら、死ぬまでの苦痛はいかほどのものか。

餓死と痛みが襲ってくる。


とんでもないことをしてくれると、後ろを振り返ると、岩の下に一人の男が立っていた。


上質そうな紺のスーツに身を包み、山道を歩いてきたとは思えないほどよく磨かれた靴を履いている。この世のものでもなさそうな、そんな違和感がこの男を包み込んでいる。


「自力で道を切り開くのは大変でしょう?それで何も考えなくても良いように、一本道を作ってさしあげた。あとは首をかけて飛び降りるだけだというのに、まだ迷っておられる。どこまで明確な未来が見えたら安心していただけるのでしょう?」


四角い眼鏡にきれいな指を添えて、スーツ姿の男は一重の目をさらに細めた。


「安易な道というのはどこまでも安易なもの。坂道を転がり落ちるようにどこまでも続き、底なしの穴のようなものなのです。時には突き落とされることもあるでしょう。這い上がれないと思うならそれでもいいのです。穴の底から見える月は美しいといいますしね」


スーツの男が足を一歩踏み出し、ひらりと飛び上がった。

長身でちゃんと足も長い。


枝の真下に空いている、黒い穴の縁に男は両足を揃えて着地した。

今にも落ちそうなスーツ姿の男を、助けに行くべきかと木にしがみついた男は考える。


スーツ姿の男は、ロープを前に木にしがみつく情けない男の姿を眺めやる。


「そこから飛び降りれば楽になれます。保証しますよ」


岩の上で木にしがみつく男は、目の前で揺れるロープに目を向けた。

もし途中で切れたら、穴の中に落ちてしまうかもしれない。

もし枝が折れたら、もし、飛び降りた途端にあのスーツ男が襲いかかってきたら。

もしあの穴から巨大な蜘蛛が現れたら。もし、もしも……。


不安が止まらず、男は揺れまでおさまったロープをただじっと見つめている。


どんな保証があれば満足なのか。

スーツ男の言葉を思い出し、男は目を閉ざし考えた。

空腹で何も考えられなくなれば、あるいは疲れ切って何もかも投げ出したくなれば、この一歩を踏み出せるかもしれない。


「穴を消しますか?」


スーツの男の声が聞こえた。

穴が消えれば、不安な道が一つ消えることになる。

だが、本当にそうだろうか。


子供の頃、たくさんあった選択肢はあっという間に消えてしまい、残った道はこの一本だけ。

何も考えずにその道に飛びつきここまでやってきたが、本当にこれが最後の道なのか。


それを初めて考えた。


引き返す道。考え直す道。

生きたいのか死にたいのか、本当にちゃんと考えてここまで来たのだろうか。


あと一歩で命が終わるこの瞬間。


男は今度こそ、最後の選択肢に直面しているのだと気が付いた。


人生最後に何を考え、感じたいのか、何を見たいのか。


スーツの男が涼しい顔で見上げている。

岩の上でロープに手をかける男の、最後の時を楽しみに待っている。


喜んでいるのか、憐れんでいるのか、それとも捕食者として男の魂を待ち構えているのか。


「穴を消します?」


スーツ男が再び問いかける。

眼鏡の奥の細い目が楽しそうに笑っている。


どうしたらいいのか、男はこれまでの選択肢についても考えた。

一度でも真剣に道を迷ったことさえあっただろうか。

簡単な道、楽な道、選ぶのに苦労しない道ばかりを選んできた気がする。

そして残された道がこの道だけになってしまったのだ。


スーツ男の顔がふと自分の顔と重なった。

はっとした時、男は岩の上に立つ自分の姿を見上げていた。


まるで他人ごとのように、自分はどうするのだろうと考えていた。

深く暗い足元の穴を見下ろして、それからその中に今まさに飛び降りようとしている自分を見上げる。


他人事のように見上げていた男は、やはり他人事のように呟いた。


「ああ、あれが…自分でなければ良かったのに」




_____



遭難救助隊が辿り着いた時、その男にはまだ息があった。

結局最後の道すら選び取れなかった男は悩み続けて餓死寸前の状態だった。


「大丈夫ですかー?」


声をかけながら屈強な男たちがやせ細った男を担架に乗せる。

そして岩の上からなんとか下すと、慎重に穴を避けて森の出口へ向けて進み始めた。


男はうっすらと目を開けた。


どこか面白そうにスーツの男が岩の上から男を見下ろしている。


また会いましょうと語り掛けるように目が湾曲する。


「生きますか?死にますか?」


その答えぐらいは真剣に考えようと男は思った。



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