空飛ぶ人
ある朝突然空が飛べるようになった。
その原理は不明だが、突然ベッドから浮き上がり、天井に背中がついてしまったのだ。
おりようとしたが、飛ぶ原理が不明なのにコントロールできるわけがなかった。
仕方なく天井をひっかきながらなんとか進み、カーテンを伝って下に下りた。
地面に足をついてみればちゃんと浮かずに立てることが判明した。
しかしこの力は危険である。
浮き上がるばかりで下りられないとすると、そのまま宇宙まで登って死んでしまう。
凍り付いて死ぬ方が早いかもしれない。
私は仕方なく会社に病欠の連絡を入れた。
今日一日でなんとか宇宙まで飛んでいかないようにこの力をコントロールできるようにならなければならない。
私はまず家じゅうの戸締りを厳重にした。
もし隙間から外に出てしまえば私の死が決定してしまう。
私は照明器具のついていない天井の下に立ち、上を見上げた。
浮かび上がった後、床まで下りてくるためのロープや梯子があった方がいいのだ。
脚立を用意し、釘と紐を用意した。
天井から何本もの紐が垂れ下がり、私が伝って地面に下りられるように調整した。
どれぐらいの勢いで浮かび上がるのかわからないため、ヘルメットをかぶり、厚手のコートも着た。
万が一外に飛び出した時に少しでも生存率を上げるためである。
準備を整えると、私は小さくジャンプした。
イメージでいえば床から5センチ飛び上がったぐらいである。
だが、私の体は重力に反して飛び上がったままぐんぐん上にのぼり、まるで手を離れた風船のように天井に頭をぶつけていた。
ゆっくりとした速度であったが、それでも確実に上に向かう。
下りようと念じてみた。
全く体は下りて行かない。
背中を天井につけたまま、私の下半身はぶらんと下に垂れ下がっている。
ということは、重力は働いているのだ。
手も下に落ちるし、なんだったら首も落ちている。
つまり浮いているのは胴体部分だけだ。
天井から吊るした紐を掴み、下におりて再び床に足をつく。
すると普通に地面に立っていた。
私は何度かこの実験を繰り返した。それからこれは水泳に似ているかもしれないと気が付いた。
まるで平泳ぎのように空中を動き回ってみたのだ。
すると、手足を必死に動かしてみればなんとなく空気をかくように進んだり緩やかだが、下降出来ることがわかった。
しかしやはりすぐに下降出来ないのは危険である。
高山病の影響なども考えると、やはり地上から数百メートルほどしか登らないほうがいいようなのだ。
思いついて荷物を持って飛んでみた。
これは実にうまくいった。
ペットボトル一つ持っただけで私の体の浮きが悪くなったのだ。
さらに重い物を持てば私はもう自動車ほどの高さしか飛べない。
とはいえ、基本私が両腕で持ち上げられる程度の物しか持てないのだ。
その高度や移動距離は個人の能力に依存しているようだ。
最近運動不足で腕力も鍛えていないし仕方がない。
ということは通勤を空中移動でなんとかならないだろうか。
私は仕事鞄を抱えて飛び上がった。
ゆるやかに天井に到達した。
これぐらいは余裕である。
家じゅうを飛び回り、天井に頭をぶつけないように練習し続けた。
最初はいろんなところにぶつかって痣を作ったが、夕暮れになるころにはなんとか飛べるようになっていた。
そこで私は最終試験をすることにした。
ロープを自分の胴体に縛り付け、それからベランダの柵にその端を括り付けた。
そしてベランダからジャンプをした。
ふわりと体が浮き上がり、あっという間に空に吸い込まれそうになる。
手足を動かし、なんとか前に進むと、ゆっくりと前進し、下降もした。
眼下の景色が動き出した。
見慣れたご近所の光景だが、真上からみたことはないからなんとも新鮮だ。
近所の公園が見えてきたところで、ロープの長さが限界にきて私の胴をひっぱった。
ロープを手繰り寄せずに戻る練習をしようと、私は振り返った。
家の窓が大きく開いており、ロープが私とベランダを繋いで空中にロープ渡りの一本綱のように張っている。
不思議な光景だ。
もがくように再び手足を動かしているとやっと進み始め、私はベランダの柵にしがみつき、足を床におろした。
懐かしの重力が戻ってきた。
子供の頃に飛べるようになりたいと願ったことがあったが、実際飛べるようになってしまうと大変なことであった。
これを実生活で使いこなすのは難しいだろう。外で飛ぶのはもう少しコントロールできるようになったらにしようと私は決めた。
翌日、私は早めに家を出た。
遅刻すれすれになり走り出せばそのはずみで空に飛びだしてしまうかもしれない。
なるべくゆっくり、地面から足が離れないように歩く。
両足が地面を離れると浮いてしまうのだ。
念のため腰にロープを巻いてフックをつけた。
飛んでしまったときに誰かに掴んでもらえるかもしれないし、電信柱や、あるいはどこかマンションの柵などに引っ掛けられるかもしれない。
何もないところで浮かび上がってしまったら死に直結する。
数日は慎重にやったため、うまくいった。
だが、ある昼休みの時であった。
椅子から立って歩き始めた瞬間、よろけて前につんのめってしまったのだ。
当然片足を出して、手をつけば終わりであったが、私の体はまるでプールでけのびをしたようにふわーっと浮いて前に滑り出した。
そして前方にいた男の膝裏に頭を激突させたのだ。
「うわっ!」
男は膝を後ろから押され、膝をかっくんとさせて誰の冗談だと振り返った。
そして床上にうつ伏せで浮いている私を発見し、それから浮いていく私を見上げた。
事務所にいた全員がしばらく無言で浮いていく私を口を開けて眺めていた。
だが、こっちはそれどころじゃない。窓を見た。
開いていたら大変だ。
ちょうど喚起している窓が一か所あった。
私は胴体に巻き付けたロープを解いて、下に向かって叫んだ。
「ロープを掴んでくれ!流されてしまう!」
その時、風が吹き込み、体が流されさらにロープも揺れた。
その風が外に戻るように窓に向かう。
「大変だ!早く早く!ロープを掴んで捕まえてくれ!」
やっと我に返った人々が私のロープを掴もうと走り寄ってきたが、私の体はゆっくりと窓に向かっている。
天井を背中が滑り、窓までずりずり運ばれる。
手足をひっしに動かすが、風の速さには負けるのだ。
やっと誰かがロープを掴み、複数の力が私を地面に引っ張り下ろした。
両足が地面に到着すると、ほっとして私は立ち上がった。
「助かりました。いやぁ。飛ばされて死んでしまうところでしたよ」
はははと頭を下げたが、当然のように職場の人々は難しい顔をして黙りこんでいた。
翌日、人事部に呼ばれた私は担当者に開口一番でこう言われた。
「君、飛べるんだって?」
「いや、でもコントロールはまだ出来なくて……」
「空からの撮影とかどう?」
「い、命綱をつけてくれるなら……」
まさかと思ったが、飛ぶ仕事についた。
最近はやりのドローンなんかよりよっぽど細かい注文に対応できるし、そうそう壊れない。
電波が届けば電話でやり取りもできる。
だが、問題はロープの届く範囲しかいけないところであった。
「写真にさ、ロープ入っちゃ困るんだよね。なんとか考えてくれない?」
それって仕事の努力でなんとかなるものなのだろうか。
体重を支えるのだから見えないほど細い糸や透明のゴムでも困るのだ。
昼休みに屋上で柵にフックをかけてパンを食べていると、かつての同僚が隣に座った。
「大変な仕事になったみたいだね」
「そうなんだ。ロープ無しで飛べと言われたのだけど、そうなると俺は戻ってこられない。
死ねといわれているようなものなんだよね」
「それ、パワハラじゃない?」
「え?!」
ロープを付けずに飛べと言われることがパワハラに該当するとは思いもしなかった。
なんとなく相談してみると、大事になった。
私が飛べることがニュースになったのだ。今までなっていなかったことの方が驚きであるが、政府のお偉い機関が研究したいとやってきて、私の体をいろいろ調べ始めた。
パワハラというか人権侵害ではないかと思うようなこともあったが、とにかく給料が良い。飛べるというだけで金が稼げるようになったのだ。
何もしなくても寝ているだけでも金になる。
空中に浮かんでいれば皆が喜び、金を投げてくれるようなものであった。
そのうち何かに活用できないかといろんな現場に連れていかれるようになった。
高い木から下りられなくなった猫の救出とか、ものすごい高いタワーの屋根掃除とか、今まで莫大な金をかけてやっていた仕事も私がやれば大した保険も準備もいらないのだ。
命綱だけは必要だが。
そのうちロケットの最後の点検まで行かされるようになった。
宇宙服を付ければそのまま宇宙に行けるのではないかと言われたのだ。
確かにそうだが、帰ってこられるのだろうか?
しかし酸素が常に供給される仕組みさえ作ってしまえば私は意外にも高度に関係なく浮かび上がれることがわかった。
体が作り替えられたのか高山病を心配していた日が嘘のようだった。
私はいつの間にか政府に雇われることになり、富豪になっていた。
飛べるようになっただけで億万長者である。
しかも毎日ニュースで報道されて有名人であり、世界中からうちにも協力してほしいことがあると依頼も殺到であった。
私は応接間の天井の上に浮かび上がりながら、政府の高官たちが話し合うのをのんびり聞いていた。
彼らも私がいなくなるのは損失であるため、命綱対策は怠らない。
私以上に私の命を大切にしてくれるのだ。
何の憂いもなく、私は言われるがまま飛ぶ仕事を引き受けた。
そして現在、私は月に繋がるエレベーターを作っている。
国家事業どころじゃない。
出資している国は世界中であった。
何十億、何千億の費用がかけられ、素人の私でも作れるように高名な技術者たちが私を教育指導してくれている。
全ては私の飛ぶ能力に依存した事業であり、今まさに富士山の山頂当たりぐらいまでの高さになっている。
その頃になると私は眠れなくなってきた。
突然飛べるようになった体なのだ。
ある朝突然飛べなくなっていたらどうしよう。
世界中から非難されるだけじゃすまないだろう。
今まで飛べるからという理由でもらっていた税金からの給料、恵まれた待遇、まるで人類の宝扱いされてきた自分が飛べなくなったら。
ごめんなさいで済むだろうか。
エレベーターの設計図はとうに出来ており、すでに莫大な費用が垂れ流されている。
途中まで完成してやっぱり続きは出来ませんと言ったら、今までかかった費用は誰が保証することになるのか。
私に生きる場所があるのだろうか。
なにせ努力で手に入れた能力ではないのだ。降ってわいた幸運が金になっただけだ。
私は地上500メートル付近で作業をしながら宇宙服のヘルメット越しに空を仰ぎ見た。
もし飛べなくなったら……。
私は空に逃げることすら出来なくなるのだと思うと、足がすくむ思いがしたのだった。