鮭を咥えた熊
鮭を咥えた熊に生まれ、ずっとこの家のタンスの上にいる。
古びたこたつと黄ばんだ照明器具、埃を被った物が重なり、いつしか畳も見えなくなった。
つい先日、住人の女が亡くなり、今度こそ私の持ち主はいなくなった。
雑多なもので溢れかえっていたこの家が次第にがらんとしてきて、馴染みの物たちが視界から消えていった。
ある日、一人の男がやってきた。
「うーん。売れるものですか?」
「ええ、この中から見つけられませんかね?」
この家と物の処分を請け負った家主が呼んだのは質屋の男。
いくつかのものが消えていき、質屋の男は私の前に立った。
「この手の置物は多いんですよね。10円なら……」
鮭を咥えた熊の需要を考えてみればわかる通り、全くない。
使い道がないのだ。
何が出来るかと言われれば鮭を咥えるだけだし、動くわけでもない。
ポーズも一つだし、日替わりで熊の躍動感を伝えることもできない。
しかも腕にもてるサイズであり迫力も足りない。
無駄に重く、さらに毛まで見事に彫り込んであるから表面はぎざぎざしていて撫で心地も悪い。
片手でつまみあげられると、ゴミのように放り込まれている食器や壺なんかと一緒にかごの中に放り込まれた。
こうして私は質店の棚に並ぶことになった。
驚いたことに、そこには無数の鮭を咥えた熊が並んでいた。
大小さまざまな種類があり、木の色も白っぽいものから濃い茶色までいろいろいる。
大抵が鮭を咥え少し小首を傾けた4足歩行だが、中には立ち上がった形で鮭を咥えているものもあった。
どうしても熊は鮭を咥えるんだなぁとその数十体の鮭を咥える熊たちを眺めて他人事のように考えた。
そして私ももれなくその中の一体であり、鮭を咥えたまま棚の奥に置かれることになったのだ。
大きさでいえば小さい物には入らないが、大きすぎるわけでもないから中ぐらいのタイプである。
玄関に置くには邪魔だし、本棚に飾るには大きすぎる。
ちょうどよく邪魔なサイズなのだ。
ある日、金髪のちゃらちゃらした若い男がこの鮭を咥えた熊が並ぶ棚の前にやってきた。
「これじいちゃんちで見たことあるわ」
「あー。俺もみたことある。食堂とかにありそう」
後ろから金髪の男の連れらしい男が現れた。
つまりじいちゃんでも食堂をやっていそうでもないこの若者たちには無用の長物である。
「うーん。でも逆に面白いかも。みよ子の誕生日プレゼントにしようかな」
「お前それ、酷すぎない?」
「面白いだろう。あいつ俺のやること面白がるからさ」
ついに嫌がらせの道具とされてしまった。
金髪の男に摘まみ上げられ、重さがちょうど笑えるという理由でレジに運ばれた。
30円で買われると、さすがにそのみよ子という女が気の毒になった。
紙袋に押し込められ数日、暗くて狭い車の中に閉じ込められ、そして再び掴みだされると柔らかなピンクの紙で包まれた。
「みよ子、誕生日おめでとう!」
やっと外に出てみれば、そこには怒りの形相をした女の子とへらへら笑う金髪男。
「ちょっと!すごい邪魔なんだけど!」
今更ながら若い女の子に言われると深く傷つく。
だが、男はわかっていたように懐から小さな箱を取り出した。
「こっちは冗談。はい。これ」
現れたのはきらきらしたブレスレットだった。
鮭を咥えながら私は若い男女がたちまち仲直りしてうまくやるのを眺める羽目になったのだ。
そして今なぜか私は女の子の部屋の棚に置かれている。
男の方は捨てていいと言ったのだが、女の子の方がせっかくもらったものだから飾ると言ってくれたのだ。
すごい良い子で助かった。
今度こそ燃えるごみの日に出されるところだったのだ。
正直、もう生まれて何十年と経つが、若い女の家に住むのは初めてだ。
私は熊だから人間の女の体には全く興味がないが、それでもなんとなく甘くて可愛い感じがわかる。
見たことがないものばかりなのも新鮮で面白い。
動く掃除機とか、朝突然鳴りだす音楽とか、年老いた女の家では見なかったものばかりだ。
第二の鮭を咥えた熊人生、ここで終えたいものだと私はぼんやりと考えた。
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その夜、とあるマンションの前では警察車両が何台も駆けつけ、大変な騒ぎになっていた。
被害にあったのはそのマンションの住人の女の子であり、手や服に血が付着していた。
「大丈夫ですか!」
110番通報で駆けつけてきた警察は、暗がりに震えて座り込む女の子を発見し駆け寄った。
その部屋の床には黒覆面の男が横たわり、頭から大量の出血があった。
「あ、あ、あの人が突然窓から入ってきて……私に……ううう…」
衣服が乱れ、顔には殴られた跡があったが、下着は無事だった。
「それで?」
警察官が女の子の腕の中にしっかりと抱え込まれた重量級の置物を指さした。
「は、はい。咄嗟に棚にあったこれで殴って、なんとか逃げて……」
女の子の震える腕の中から出てきたのは確かにずっしりとした木の重みをもった鮭を咥えた熊の置物で、その台座と足が一体となった底の部分にはべったりと強盗の頭を殴打したときについたと思われる血液が付着していた。
「これは証拠品として持っていきますからね」
警察官の言葉に女の子は震えながら頷いた。
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私は今透明な袋の中に閉じ込められている。
鮭を咥えた熊はこの国に何千、何万とあるだろうが、強盗から女の子を救った鮭を咥えた熊は私ぐらいだろう。
これからどんな運命が待っていようと、私は鮭を咥えた熊であることを誇りに思い、最後の日まで存在し続けようと思う。